越後名立崩れ
▲名立崩れとて村の後山崩れ落ち旧名立村一村共山下となり今の名立は新名立なり其時加賀藩の三度飛脚能生権現の夢告ニよりて此災厄を免れたりとて同藩より権現へ灯篭を寄進せり
▲守田宝丹老人の身体保全法(○○○○○)ハ「明和の頃(これは誤記)京都仏光寺宮の家臣小幡某我れと我との脈を診する事を覚え種々の病災を前知せり或時仏光寺宝物を各地へ開帳し越後国名立村ニ投宿せり臥床に於て脈を診すれば死脈を呈せし故に大ニ驚き従僕其外数十の人夫旅舎の人々を診するに皆死脈なれば急ぎ宝物を取纏め平脈に復する所〓退きしに百千の大雷一時ニ落るか如き響あり時ニ名立の方位を望めば天赤き事火の如し翌日きけば名立の後山二つニ裂けて家屋人畜悉く海底に沈没せりと宝物と自身及び人夫と共に此大変を免れたるは全く脈を診して災を前知せしに因てなり
(中略)
四月廿五日より数度地震高田領尤も甚し翌年正月二日〓微震つゞく榊原侯より幕府へ詳細の届を出す九月幕府より七人の役人来り頚城各地の道路の破を修築し十月廿七日出来上り□□□高田出発帰府す、死亡一万六千三百余人
▲四月廿五日夜八ツ時半此の方より大地震柏崎町内何れも壁落ち石礎柱三四寸位めり込む井戸下よりゆりあげ残らずいたむ永徳寺門前家潰れ(カ)六平女房死す中町往来の井戸崩れる四ツ屋ニて家潰れ人死す廿六日四ツ時八ツ時度々町中残らず小屋をかけて入る宮川の寺庫裏共潰れ山口新田土手二百間西の方崩れ鉢崎は番所の上へ二百間崩れる馬足通行停止す