[未校訂](表紙)
「乙安政二年
卯 日 記
正月吉辰 」
十月二日 北気ニ而陰、少々時々雨降、
石や三人・虎吉傭石かけこしらへ、三ケ浦よりゑび五ツ至来、勘四郎殿母・おふみとの湯ニ入ニ参、夜四ッ時ニ大地震、土蔵かべ痛、仏壇香ろふ・花立不残落、時々少々ツヽ震、本家より艮刻見舞として与吉参り、若者とも馬やニ而夜を明し、あけ七ッ時頃ニ治郎吉供ニいたし本家へ見舞ニ行、本家表土蔵はちまき・南東通り不残落、外之土蔵も大いたみ、福蔵泊り参り、新家土蔵瓦落大いたみのよし、夜中紺屋との参り、尤、是は三崎へ行同所より急き帰り候よし、
傭 人 石や三人虎 吉
十月三日 北気ニ而陰、昼より西気ニ替り晴、
当組合・芝下・孫右衛門・十郎兵衛見舞ニ参り、組合中はしめ新家・芝下・御宮へ参り、清兵衛殿・勘右衛門殿見舞ニ行、林百蔵・左官三吉見舞ニ参り、尤、福蔵留守居へ参り、本家より三ケ浦へ両家之使ニ而早朝ニ人遣し候、艮刻帰り承り候処無事のよし、格別之事なきよし申参り候、林は大い(ママ)みのよし、上宮田御陣屋あら方つふれ、艮死六人・乗馬壱ッ、けが人多分あり候よし、夜ニ入候而も少々ツヽ震候、本住寺様見舞ニ御出被成候、同寺へも行、夜ニ入伝右衛門殿参りおふみとのも参り、石や壱人傭(後略)
十月七日 北気ニ而晴、
脇土手こしらへ、仕立や手伝いたし候、福蔵早朝ニ本家へ行、夜ニ入泊りニ参り、夜中ニ両三度ツヽ地震あり、神奈川宿地震ニ而焼失いたし、江戸御大名様かたはしめ七分通焼失のよし、新吉原つぶれ夫より焼失死人多し、荻野喜右衛門殿参り、
十月十七日 北気ニ而陰、
前畑ふづきふみニ遣し、林仕立や昨日病気ニ而道より帰り候よしニ而銭ニ風呂敷林より持参り候、干物仕舞ニ成、七ツ時頃ニ地震、是迄日々少々ツヽ地震あり、
十月廿一日 北気ニ而晴、
地震少々ツヽ日々ニあり、甲州きぬや参り、早朝ニ治郎吉八幡へあぶらかす買ニ遣し、源蔵傭畑こしらへ、(後略)
十一月三日
(中略)夜四ッ半時頃ニ地震少々候、(後略)
註:本史料は相模国三浦郡大田和村(現神奈川県横須賀市)の浜浅葉家の日記である。本家の浅葉家は大田和村の名主を勤めた家で、浜浅葉家は分家であり同村の浜方に位置していたため区別してこのように呼ばれていた。日記は天保五年(一八三八)から明治三十五年(一九〇二)までの計三九冊が現存している。農作業の記事が多く、漁業関係の記事はあまりみられない。