[未校訂]2若郷開村
若郷の「とぶ根遺跡」からは、縄文後期の土器、石器、骨製
品などが採集されていることは、「第一章 第一節 石器」
の項で記述したが、土器は約三〇〇〇年前のものと推定され
るから、その当時に住民のいたことと、骨製のつり針や、豚
のきばなども土器に混入して採集されており、豚の飼育は弥
生時代からと学者間では判断している点などから、一時的に
生活したというよりも、長期間の居住遣跡として考えたいこ
とである。その後、向山の噴火(八八七年)によって現在の
本村部落の平地が出現して、生活の基盤が整ったわけで、若
郷から本村へ移住したものと推定され、今から約一〇〇〇年
前の状況である。
元禄十六年(一七〇三)十一月二十二日の房総沖の海底地震
は大規模のもので、大島岡田村は近いばかりでなく、房総を
向いているため津波による被害が甚大で、民家、回船、漁船
が流出し、人命も五六人溺死している。遠い新島でも、従来
陸続きであった式根島が、津波によって崩壊分離したのであ
った。
本村の北村の住居(民カ)の一部は、銚子山のふもと近くに住んでい
た。この大地震のため銚子山が崩れ、大量の落石で家屋数軒
は破壊された。第二次世界大戦前まで「大石」(雄石がなま
って呼ばれ羽伏浦の女石と対応する)と呼ばれた巨岩が北村
の道路添いにあり、神社参りの時はお洗米を祀る風習が残っ
ていた。しかし、その大石は、戦争中飛行場工事用のくり石
として爆破砕石され跡形もない。
地震の災害を恐れた北村住民の一部は、若郷へ移住し、若郷
村は地震を契機として再び開かれ今日に至ったのである。開
村の宝永八年は西暦一七一一年で、元禄十六年より八年目の
ことである。
若郷の妙蓮寺境内に若郷村開祖の記念牌がある。その碑面に
は次のように刻まれている。
宝永八年四月廿五日
村地開初
若郷村開祖
施主上松勘兵衛 前田平三郎
前田吉兵衛 富田治五平
上松与平治 北村平四郎
北村太郎兵衛 森田弥平
前田善治郎 石野茂左衛門
藤原茂平治 北村与治兵衛
北村長吉 青沼半左衛門
梅田新八 森田徳左衛門
富田長助 前田才兵衛
『長栄寺歴祖次第』によると、
若郷村寺地之事、宝永七庚寅年十二月村開発、宝永八年辛
卯四月二十五日人越始、其ノ当日寺地開発也。享保元丙申
年八月十四日寺造立成就則号若郷山法性庵彼之寺地並寺
開基也
と記録され、若郷村開祖の記念碑に刻まれた年月と一致して
いる。
享保十四年の『新島差出帳』(若郷が開村して十五年目の記
録)によると、
一若郷家数三拾軒
一同人数百五拾三人
内男六拾三人
女九拾人
一若郷村廻船壱艘
但八反帆水主四人乗
一漁船四艘
但四反帆
近世の終わり文化八年(一八一一)、開付して一〇〇年目の人
口は左記のとおりである。
戸数 三七 男 一一七
人口 二四五 女 一二八
前記した享保十四年の人口で目にとまることは、女性が男性
より約五割も多いことであるが、文化八年には約一割多いだ
けとなった。
若郷村が昭和二十九年十月一日本村と合併されたことについ
ては、第四章第一節「行政」で記述する。
3式根島住民の本村移住
第一章第一節「石器」で式根島の出土品を記したように、縄
文・弥生・土師器など約二五〇〇年前からの土器が採集さ
れ、平安時代約一〇〇〇年前の銅鏡も二面が発見されている
(第二章第三節参照)。この銅鏡は、平安時代の作であり、平
家の落武者福矢源太左衛門・小倉又次に関連する第一章第四
節の「ちながんばあ」につながりを持つ説話となるのであ
る。しかし、この時代の記録は少ない。
徳川支配となった江戸時代になると、式根島の記録も保存さ
れているので、左に摘記するが、まず『長栄寺歴祖次第』を
見ることにする。
第七世権大僧都顕遠院日深大徳 新島ノ産敷根ト申処ニ寺
地並墓所境内ニ堺等諸木松木等沢山在之……
この記録の年代が分りかねるが、日深大徳が四〇歳のときと
仮定すると、寛永四年(一六二七)である。この記録は寺を
開基したというのではなく、既に寺が存在し、その境内の様
子を記したもののようである。
このように寺の存在は、住民の居たことの反証となるのであ
るが、いつのころ本村へ移住したのであろうか。
享保十四年(一七二九)の『新島差出張』に次の記録があ
る。
一当島ヨリ南向ニ壱里程離、式根ト申無人島新島分ニ而御
座候、東西江十四五丁程南北江五六丁程松木山ニ而御座
候、其外之木モ少々相見へ申候、何れも御用木ニ可罷成
大木ニ而ハ無御座候、此島ニ葛野老山芋あした葉在之百
姓夫食ニ仕候、尤凶年之時分為貯、平生ハ百姓申合取不
申候、尤右島は漁業第一之場所ニ御座候
一式根西面并北面ニ船懸り候入江御座候、新島よりはなれ
候故、所之船掛置申儀無御座候、八丈御船抔御渡海之
節、日和見合船懸右之入江ニ御船繫申候、尤当島廻船も
荷物積立国地江出船難成節ハ、右之所江参船繫仕候儀も
御座候
式根島が元禄十六年から二六年後の享保十四年には無人島で
あることを報告している。しかし、凶年のときの食糧や、船
がかりする港となる入江の存在する島、漁港第一の場所とし
て重視している。
このような立場から、金七両弐分、式根島冥加永として、寛
政五年お縄入れから毎年上納し、明治八年太政官第二十三号
布告に基づき同年より廃止された。
式根島については、第四章第一節「行政」に記述する。