[未校訂]元禄十六年の大津波(百十三代東山天皇、二百六十七年前)は、十月十二日(陰暦)之夜九ツ頃にて、昼七ツ頃より納屋の井戸水底干にして、少しも之無、堀川の浜辺にては大いに怪しみ、不思議なり迚騒ぎ居る中、海の浪高まり候に付き、岡に縁故ある者は逃去り候、故に堀川村には水死人は百人斗りの由に候へども、此の時、津波の為水死数千人にて木戸(注・現在の光町木戸)方面より吉崎(注・現在の八日地場市吉崎)辺迄にて水死人、凡二千人余も有之候由にて所々に二百人、又は三百人宛の水死者の供養塔、或は埋葬の塚有之候、此の時の津波は、飯倉(注・現在の八日市場市飯倉)の砂子坂(今の九十九里ホームの坂)迄、大浪押上げ候由にて古来稀なる大津浪に有之候、心得の為め見聞のまま書記申候
享和三亥年正月五日
北古屋内 養元 六十二才記之