一、宝永四亥年十月四日午刻、大地震山々崩れ、家・蔵・石垣等をもゆりくす(崩)し、半時計過、潮(ウシオ)夥敷わき出高浪、但シ、浪高サ浜表にて、壱丈六尺といふ、、林浦・野地村迄入、尾鷲中家・蔵不残流失、老男女数多溺死、又ハ少々助り上リ候者も有之、惣而流死人五百三拾余人、其外生類迄流出、前代未聞之大変なり、延宝・元禄之頃も津波入候得共少々之儀にて候、慶長九年にも津浪入候よしに候得とも、人家を流し候程の事ハ無之由申伝へ候、
(後略)
注、『歴史学による前近代歴史地震史料集』の解説によれば、本史料は仲彦十郎が尾鷲七郷にかかわる諸問題を書き残したものを、息子である尾鷲組大荘屋・仲彦助が清書したものである。成立年代については嘉永年間(一八四八〜一八五四)以後と見られる。本文の内容は宝永地震に関するものであるが、元禄地震の記事もあるので、その部分を掲載した。