比しも元禄拾六年癸未、新玉の春も日出度立行て、夏ハ旱魃に、秋ハ最中に風もなく、冬気に成て霜月ノ下旬廿二日ハ天赦日、空も晴、吉クなぎて海上も波浪静に日も暮て、夜の九ツ時分俄に地震ゆるぎ立、皆家ごとに寝しづまり、起揚らんとすれ共起てハころび/\、漸ク立上リ、部屋の戸を明ケ後(ウシロ)江出也、内方も三人の子共を引つれ、後の壁弐間後(ウシロ)江打返リ、其〓後江出也、親子皆無事にて門口ヘ廻ル、台所にハ下人数多寝居也、家伏セ共、はりのあいに成ておされず、後の小路へ出ル中にも危事も有、部屋の天井南の方、廻リふちはなれ片はな落ルに、入口の仕切の内戸壱本内江はづれ、天井のつかに成ル、無左て下江落付バ、皆をしに可シ成、家を戌の年作リ、拾八年目也、板天井にすゝ厚サ三、四寸もたまりて重(オモク)落に、戸壱本はづれてつかに成ルハ不思議の仕合也、惣別、寝間の上にハこもにてもはるべし、板天井いらぬ物也、弐ツの倉も伏ス、馬屋も伏ス、され共牛馬はやく飛出して長屋の前に居なり、とおりも伏ス、厠(カハヤ)も伏ス、され共居家ハ不伏、石すへならハ柱を太クすべし、柱細キハ此節皆つぶれる也、貫目いたミわれ伏なり、さすハ太ク、はリハ細ク、しきけたかけ、四方縄しめに心を付、釘ハ便リにすべからす、横広ク、足元つよく、大ねだ木十文字に可入、古昔皆此通なり、此台にて助(タスカリ)不伏家ハ杢兵衛居屋、又兵衛居や、弥惣右衛門居屋、門四郎家、市十良家也、牛頭天王様社中江波打越セ共、御宮不流、何事もなし、薬師堂も香坊も何事もなし、其外ハ皆伏ス、寝閑りにて家伏ス故、人損ず、古より人申ハ、大地震有には必ス津波寄と申事思ひ出し、皆はやく家を出よとよばハリ、長屋の前へ出レハ、磯際の方清水の田へさあらさらと波押て追付故、みミやう堂江逃ゲル、浜台の老若男女、皆円正寺山の西のひらへあがりて、小松に取付居也、寝閑リの事なれハ、あハてゝ着物も帯もわすれ、真はだかにて出ル男女も有、杢兵衛ハ家へ戻リ見れバ、庭の内へ波打込、腰たけになり、前の井けた少出ル、なにもかも海になり、おそろ敷ゆへ家へ早ク入、御祓を取持行也、又寺山へ登ル、地震常のゆりやうとハちがひ、こまかにびくびく/\とゆる也、心悪敷故、とかく食物を専一と思ひ、宿へ人を遣リ、米を四、五升取寄、人にもとらせたれハ、夜明ル迄皆打かゝリ/\居ルなリ、夜明ケても無間もびく/\ゆるゝ故、波おそろ敷テ無心許、山よりすぐに光泉寺をのぼりに子共をおい抱キ、昼時分に寿薬寺へ行也、岡・浜の男女寺の上の畑へ小屋をかけ居ル、廿三日夜通小屋にて火をたき明シ、廿四日にハ又岡へ戻リ、名主弥兵衛殿庭に小屋をかけ居ルに、皆人申にハ、又津波参べしと申により、宿へ不帰、医者金木玄貞老内室も大勢居ル也、然に皆申に北口〓盗賊参由申触し、人々苦労にいたし用心するに、安に相違して偽りなり、爰にても間もなく地震ゆるぎ心悪敷、十二月一日迄岡の庭に居る、其日七ツ比に成、浜の宿へ帰リ見れバ、扠あハれ成事にハ、親ハ子を失ひ、子ハおやにおくれ、夫ハ妻に離れ、幼稚者共もあまた波にとられ、親兄弟なげきかなしむ有様、実に生者必滅、会者定離、中/\目も不被当、心言もきへはてゝ、人ハはかなき事共なリ、或人の云、寿命ハ如シ蜉蝣ノ、朝に生れて夕に死ス、身体ハ如シ芭蕉ノ随テ風ニ易シ壊レと書れしハ、おもひ当リて理リなリ、
死たる人ハ、
一 浜金左衛門妹長命 一 同所 八兵衛
一 同所荘作が妹いぬ 一 坂本五兵衛内方
一 川向ノ勘兵衛 一塚原伝兵衛下女
浜吉兵衛所ニて
一 下リ松利右衛門、下女、親子、
是迄八人ハ家におされ死ス
一 浜三十郎 子息 一 浜お吉 子息
一 同所久五郎 子息 一 同人の娘
一 同長左衛門 女房 一 浜勘左衛門 ばあ
一 同六三郎 女房 一 同人子息いせ
一 同人 娘ひめ 一 浜惣左衛門 女房
一 同人 娘ミの 一 同人田町の孫
一 川向の半四良女房 一 同人の 子息
一 同所市良左衛門女房 一 同人の 娘
一 同人 孫 一 同人の 子息
一 同所勘兵衛女房 一 石小浦湯入弐人
浜半左衛門所にて
一 上須加喜平次下女松 一 川間甚五兵衛女房
船形村にて
一 同所荘次郎子息 一 同人 守子
東浦にて
一 同人娘まさ
是迄弐拾七人波に心取死スル也、〆三拾五人、此通御地頭江書上ル
其外けがする者多シ、夜中時分の事なれハ、あわてさハき、思ひよらさる事ゆへ、方角ちがひ、とかく謂間もなく家伏シ、家・人共に沖へ引被出、或ハ出ても川へ落死も有リ、老少不定と云なから、十日、十五日の内ハ浜磯へ死人数多海からより、昼夜犬共かふべ、手足をくひちぎり、門戸口迄もくわへあるき、おそろ敷て浜へも不被出、中/\見るも思ひ也、はま辺の分ハ引波に四壁竹木崩損し、野はらのことくに成リたり、哀無常の次第也、波三ツ打、弐ツ目と三ツ目沖より山のことくに打来リ、谷口小丹が屋倉下迄波打なり、依之、木倉六三郎子共弐人、共に種井戸の上、又兵衛田に波ニて押上ケ、死て有リ、木倉十右衛門屋敷の松弐尺四、五寸も廻ルを根こみにし、南の三郎右衛門門口へ波にて押付ル、杢兵衛外屋敷田ふちハ、昔より竹薮なるをとをして、松を弐通植置、壱尺余廻ル松を、皆不残しやうがをはかいたやうに、杢兵衛の門口へ波にて押付ル、廿三日、四日外屋敷にて、磯うを大めばる、ゑび、なよし、いろ/\の魚共弐、三十程ひろひ、寺家、台の小屋へ遣ル、外屋敷畑半分南ハ作物に風あたリ、実(ミ)入悪敷し、風筋也、竹薮にして置ケバ風よけにもなり、津波よけにもよし、自今以後ハ昔のやうに必竹くねにして可シ置、或人云ク、本をわすれて末竜ると謂れたり、惣別、昔より有来ルくねをバとおさぬものと申伝る也、清水より押来ル波にて、表の蔵のけたを吉郎兵衛の屋敷に流有リ、木くら惣左衛門、長太郎抔、椀かくを杢兵衛坪の向隣の薮に有リ、半左衛門後(ウシロ)の川より入波、先山本の杢兵衛田六畝四歩の橋のきわ迄行、杢兵衛上くぼた道切リ、浜の真木を波にて押上ル、清水(シミツ)の波ハ又兵衛田迄、両方の波のあい、杢兵衛の宮田、孫兵衛田、三郎右衛門前の田計也、依之、此台ハ、高崎の内島の様ニ成也、浜に置網ハ、大織を流ス、船共多ク損ス、杢兵衛網船、八郎兵衛網船、吉郎兵衛網舟、其外浦請ケないやにても網舟、諸道具皆損ス、杢兵衛ハ浜の木倉に大分山を買、真木下シ入置、皆波に流ス、上須加のたなも伏損ス、何角都合弐百両の損金致ス、同十二月三日に御地頭酒井隼人正様此旨御心に被達せて、相動を御見分に御家中千賀弥平次殿、御代官に藤野三右衛門殿、御両人御越、高崎の有様御覧被成ルなり、浜吉兵衛どての御宮流ル、盛者必衰不遁(ノカレ)、是ハ元禄拾壱年寅ノ六月廿二日の夜の五ツ過に、浜権兵衛どての際(キワ)へ大キ成亀上リ居所ヲ堀ル、浜の老人集リて酒を呑(ノマ)すれハ、渚(ナキサ)へ下リ海へ行也、とかく祝ひてよしとて、同月廿四日に円正寺宥専法印申請、住吉大明神に被祭、其年中に御宮建立成、同年七月十七日にひらう中、くろ鯛島へ鯨弐本、前のがる島の内へ鯨壱本、以上三本はね上ル、是ハ村の吉事なりと皆よろこぶ也、式文に善(ゼン)を修(シユ)すれハ福(フク)を蒙(カウムル)と云へり、向の姥神様御宮何事もなし、是ハ元禄拾六年未ノ五月十五日、杢兵衛御宮建立仕ル、宥専法印御せんくう也、十二月中夜昼幾度も不止にゆるぎ、年明ケても正月中ゆるき、二月中旬にゆるぎ止ム也、去霜月末より皆人ごとに昼夜不怠(ココタラ)、万歳/\世直し/\といふ也、
長井杢兵衛(印)
当所上須賀町金木玄貞老此書を見被申添書に一首
長井氏為後記筆作ス之、某見之、寿命は如シ蜉蝣ノ、身体は如シ芭蕉ノと古人ノ語ヲ書入有リ
読之曰、
身命は八拾年、意は是万代に残シ置、子孫繁栄ニ腰折レの
一 句
あだな身に智恵を包て浮世成リ
このミ落てもすゑのたね哉
金木氏〓
長井氏丈