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項目 内容
ID S00001173
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日
書名 〔北行日記〕
本文
(寛政二年六月)
十五日 甲子。曇る。長須賀を立て川を渡る、長須賀川といふ。あるじ遠く送り出つ。渡りて館山町、家数六百軒斗り、浅井佐七なる人へ乞ふて里見城山を一見す。城山南北長し、高さ百二十間、東北の角より登る、爰に追手門の跡有り、其上の台南北六十間、東西四十間斗(畑)り、爰に八幡工藤なる力士の居し所といふ。其の上に登りて台有り、乾より巽九十間、横三十間斗(畑)、是を千畳敷と号す。其の上に浅間の社有り、是れ本丸の尤も高き所也、松茂る。本丸凡そ乾巽へ走る事六十間、艮坤三十間に満たず、西は嶮岨也、登る事能はず。巽に下る中腹高氏の所有り。下り畢て稲葉播磨守殿の陣屋有り、遠藤采女の屋敷跡といふ。其の南に大蔵蔵人の屋敷跡、小山也。東に正木大膳の屋敷跡、是れも小山、松茂る、大木有り、今マの陣屋と其間に竹薮有り、正木氏の門の跡といふ、三十年以前迄は門立たるまゝにて残りしといふ。城の巽二丁斗り、正木屋敷の北に御霊の社、是は城の鎮守なるべしといふ。大蔵氏の屋敷の東、切通し有り、城南の大沼の下流を爰へ下して長須賀川へ落す、今は其沼も田地と成りて跡方もなし。追手門の下なる田地の中に石を畳みて井とす、城山より簡を以て水を取る、是れを城井と号す、酒造家此水にて酒を造る名水也。元和二年九月九日落城なれはとて里人重陽の節句を今に祝ふ事なし。城山の廻り二十五六丁、元禄十六年十一月廿六日大地震にて此所三四丁干潟となる、其時より里見の頃とは地大に変ぜり。(中略)
十六日 曇る、日中より晴る。(中略)太神宮村より東に来る事壱里也、三十間斗の川を渡る、三尺斗の石を横に多フく並べて人を渡す、珍らし。此所より西の方めらの鼻迄壱里斗右の方川島の人家を見て行く、川島は滝の口の内也、爰は平郡とす。横須賀右の方へ下り行きて島崎野島也、大岩多フし。石階を登る弁天の社、北向也。滝ノ口より巽の方半里斗り島の右壱丁に二丁斗り、元禄年中大地震より陸へ続く小松とおゝき多フし。此辺岩甚た大い也。横須賀よりこなた皆ナ白浜村と号す、朝夷郡也。原、塩浦など白浜の枝村を過ぎ乙浜村に至る、野島より壱里東に来る、野島は名所、頼朝も是れより上られし共伝へたり。名主要右衛門所へ着ひて善次郎所に宿す、御旗本大久保永之助知行所也。洲ノ崎より此辺浦々、西南の方に当りて晴れたる日には大島を始め七島皆ナ見ゆるといふ、八丈島のみ見へ難しとそ。夜中浜へ出でゝ納涼しけるに、船の者共是れへ入らせ玉へといへる故あるじと共に船に入る、海水にて炊きたる飯食はせ玉へとて船頭か振舞ふ事あり。此所岩のさし出でたる事凡そ四五丁、此間へ二百石斗迄の船は入る、新湊と号す、是れも元禄年中大地震以来と聞へし。当国の湊は館山と内浦と新湊のみといふ、今日八幡祭とて地躍有、洲ノ崎より五里と称す。(後略) 注、『日本庶民生活史料集成』の解題によると、本史料「北行日記」は、高山彦九郎が寛政二年(一七九〇)に記した旅行記である。江戸から京都までの旅程中、房総半島をめぐった。この際の聞き書きによる元禄地震の記事があるので、ここに収載した。
出典 都市の脆弱性が引き起こす激甚災害の軽減化プロジェクト【史資料データベース】
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