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項目 内容
ID S00001152
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日
書名 〔元禄年中大地震大火事記〕
本文
常憲院様御代
一、元禄十六年未冬十一月廿二日酉ノ下刻、天する□にして黒雲東北に現し、月星の光り、殊に冷しく其色赤く、東南に稲光りし、風西北烈し、夜五ツ半頃俄に電動して大地震ゆり出し、山川をたをし、磐石をふるひくたく、其音雷のことし、神社仏閣、大小の家々町々一同にふるひたをす事、一時に千軒に及ふ、殿舎虹梁の落るひゝき四方にすさましく、屋根・天水桶江戸中壱ツも不残落、かわら其外高ミに有物の分ハのこらすこけ落、家内に有之物も水桶、ぬかみそ桶の類皆ころひ、打たをれ、棚の物ハ皆落、鍋・釜・茶わん・徳利類あたり合、ちんから/\くわ/\やなり、しんとふ庭へかけ出しても立事不叶ころひ倒れ、或大もく念仏・観音経なと高らかによミ、小児・女子・年寄ハ只今世界めつきやくすると大声上てなき悲しむ声、江戸中也、物落、うたれて即死するも有、怪我する人ハ何千人といふ事を知らす、家居の潰れたるに押打に死するも多し、此節地割人落死せしなと風聞したれ共、是は虚説なり、御茶の水、川端、馬橋迄之間、地割て四、広さ壱間斗ニ、ふかさ七、八尺ニ、長八、九間程ツヽ割たり、是川之方ふかき故割たる也、常之地われる物にあらす、後の人よく/\心得へし、あん灯ハ皆油をゆりこほし、きへるなり、てんちんをはやく灯すへし、木にとらまるゝ下に居ていへし、家も急につふれる物にハあらす、暫くゆりて柱の貫ほそなと折て後、家は倒れる、物をかし家をあわて出へからす、怪我をせぬ様に静に出し、戸ハ早く明るかよし、家ひつミてハ戸明ぬもの也、此節西丸下にニて屋形/\ミちんに倒れける、其屋敷/\ハ大久保隠岐守、阿部豊後守、加藤越中守、稲葉丹波守、柳生備前守、外桜田ニハ永井伊賀守、酒井石見守、同壱岐守、日比谷御門の内青山播磨守、松平下野守、戸田能登守、土屋相模守、同山城守、秋元但馬守、井上大和守、松平右京太夫、松平美濃守、小笠原佐渡守、築地辺ニは石川監物、五島兵部、松平藤十郎、其外数/\有之といへとも、銘々ニ其記さす、此分家倒押に打れて死する人、凡千人ニ及、惣御門見附/\ハ大手、桔梗御門、辰口御門、馬場先御門、日比谷御門、外桜田御門、姫御門、幸橋御門、数寄屋橋御門、虎之御門、吹上御門、常盤橋御門、筋違御門、四谷御門、浅草御門、清水御門、平川口御門、神田橋御門、壱ツ橋御門、雉子橋御門、小石川御門、和田倉御門、市谷御門等也、其外曲輪の石垣礎まて悉く崩れ倒れる、かゝる所に甲府中納言綱豊公桜田御殿〓出火、黒煙天を覆ひ、猛火炎をちらし、折節風烈敷五丁、十丁飛越へもへ移りけるゆへ、諸人肝を潰し、逸足を出し逃あるく、二ツの難に男女魂をとはし騒動す、行先寸地もなく大路を閉る中に、武家之士鑓、長刀を以て乗物之先を払、逃行有、地震少ししつまりけれハ、火事も静に鎮りける間、家財雑具おひかゝひ家々に帰らんとする時、寅之刻と覚しき時ニ海辺俄ニ動揺して、すわ津浪よと云けるに、市丁武家一同に又驚き逃んとす、此時海上を見るに、高浪海面三町斗も打かへると見へたり、然れ共無程鎮りける
一、又相州小田原・房州・総州・筑州地震、総州は江戸の一倍せりと也、加州廿二日の夜大雷所々に落る事三十七ケ所、人死夥し、相州小田原ハ廿二日山川万里ひゝき、岩石を震ひ出し、大岳を崩せり、小田原の城下町々大半倒れ、其中に漸逃れけるも有ける所に、城中〓出火して、風烈しく四方江吹散し、在々片時に炎盛んに、僧俗男女家財を捨、死をまぬかれける所に、廿三日朝津浪海面十四、五丈高く、黒雲の如く八里か間に打上りたり、死する人弐千余人、たま/\死を逃れし者とも静に成りて、家に帰り見れハ家財不残流失、手と身からに成、歎き悲しむ、漸親類知音の人竹木を持来り、家居をしつらひ雨風を凌けるに、又海上喝れたり、津浪打来りて牛馬壱疋も不残溺死、両度に死する人三千弐百余人、房州之地震両国之人死四千八百余人と訴
一、江戸の地震夫より更に止事なく、尤最初のことくハ成りけれは一時の内に二度三度、或は静成る時は一時二時に一度ゆりける内、夜もねる事あたわす、表へ小屋を懸け、又は上へしふ紙なと張、畳を敷、諸人安堵ならす、斯而二、三日ゆりける間、神田明神、山王、芝神明所々ニ而湯花をさゝけ祈けるに、重而ゆり返し可有の、又ハ幾日頃毎度に十倍してゆり、又ハ泥の海になるのと色々虚説を云ふらし、例之江戸の事なれは世上様々の風説、鹿島の要石三尺斗り抜出たり、なますねかへりを打たるゆへ大地震ゆり候、又近日寝かへりを打用心せよと、鹿島かつけ也と諸人さわきしこそおかしけれ、又大地震の時分水桶、ぬかみそ桶なと台処へ打かへり、庭へ一面にこほれ打ちまけける所へ、主人家来あわてさわき、はたしにて飛んて出、ぬかみその中へ飛込のふ悲しや、世界泥の海に成たりとさけふも有、実やとふ漬の大根なと足江さわれハうなきか魚かと疑ひ、おかしかりし事共なり
一、然るに廿九日酉之刻〓小石川水戸の御屋敷〓、俄に出火し大広間へもへ上り猛火天をこかす、宵の程ハ、風なく静かなりしか、戌ノ刻〓風烈敷、片時に御茶の水江吹出し、松平筑後守、石川備中守、三宅備前守、牧野周防守、本多弥兵衛、聖堂を限り、本郷町々、丸山の寺院、御方町之方は春木町〓本郷三丁めへ出、丸山本妙寺の方〓ももへひろかり、松平加賀守、同大蔵大輔・同飛騨守、本多中務大輔等屋敷々不残類焼、神田明神、下建部内匠頭、酒井隼人、堀左京、藤藤采女、新居伊織初、明神之社迄一朝之煙りとなり畢ぬ、聖堂の余煙、筋違橋之内外へ廻り、太田摂津守、本多能登守、松浦内蔵介、町は須田町〓日本橋、江戸橋、四日市、青物町、材木町、小網町、茅場町、霊巌寺在家町々、北新堀より深川へ押通り、海辺迄本郷之方は湯島〓池之端へ焼ぬけ、永井能登守、板倉頼母、榊原式部大輔、其外町々を焼払ひ、黒門前井上筑後守、立木伊勢守、旗下屋敷/\上野ハ残り、下谷通、小笠原右近将監、本荘安芸守、近藤備中守、安藤長門守・藤堂大学頭、同備前守、宗対馬守、水野隼人、佐竹右京太夫、太田原頼母、石川主殿頭、内藤式部少輔、大関弾正、福原内匠、戸田淡路守、其外旗本屋敷/\四方八方へふきちらし、江戸中一面に火に成るかとおそろしく、老若男女火に包まれ、煙に巻れ死する物数を知らす、逃行先々焼ふさかり、行事あたわす、篭の鳥、網の魚出へき方なく、なき悲しむ声天地にひゝき浅ましく、大小名の馬共放れ出、其中へ馳飛、数万人の中へ飛込、蹴倒し蹈殺し怪我人七百人ニ及ふ、亥刻より風いよ/\強くなり、伝馬町、住吉町、堺町、大坂町、横山町、馬喰町へ焼ぬけ、浅草御門、松前志摩守、伊奈半左衛門、村越頼母、酒井左衛門、松平肥前守、牧野備後守、松平越中守、戸田能登守、堀長門守、土井式部少輔、同甲斐守、同周防守、同主水正、安藤長門守、酒井雅楽頭、水野隼人正、土屋相模守、関伊織、誓願寺前、遠藤主膳、甲斐荘喜左衛門、市橋下総守、大沢次郎助、滝川山城守、大関主殿、久永内記、米沢周防守、細川玄蕃頭、彦坂九兵衛、九鬼剛之助、近藤彦九郎、京橋甲斐守、新荘主殿、井上主殿、酒井下野守等焼亡たり、然るに所々逃廻りたる男女老若小児、本所之方へ逃んと浅草見附へ還りしに、柳原の火、浜丁の火押廻りて浅草見附へ焼かゝり、浅草橋も焼落けるゆへ、渡り還りし者焼死、水ニ入溺死する者七百余人、松平内匠頭、本多肥後守、同兵庫頭、松平日向守・松平美濃守中屋敷を焼払ひ、数百宇の町々類焼、両国橋〓本所へ飛、然るに囚獄司石出帯刀、罪人共を数珠繋ニして召具し、両国橋へさしかゝり退きけるに、込合通りかたく致へき様なく、厳感を以諸人を留、科人を通しける、然るに此橋之火の御番九鬼大和守、家来大勢にて橋の前後に関を構へ、堅番をして渡らんとする者を悉く押し留ける故、数万之老若男女跡〓ハ火に追れ、先へ行事はならす、大風に煙ハ盛んに押て来り、其泣きさけふ声、さなから地獄の有様也、かゝる所へ藤堂和泉守、佐竹左京太夫の両奥方、女中数百人召具し、両国橋へ行かゝりけるに、九鬼の家来人を留て壱人も通ささりける、両士大に仰天して、いかゝせんと思ひける所に、騎馬之士下知して云けるハ、火難を逃れんとするに道を通さす、斯する内に火来、火中に焼死事ハ目前也、迚も死すへき命也、主人を助け大勢の婦人を助、我壱人腹切に何の事か有んと皆刀を抜、九鬼の家来へ打てかゝる、九鬼の人数此体に避易して八方逃退ける、依而両家之奥方之輿をはしめ、下女下男難なく橋を渡りて本所之方へのかれける、是を幸ひと数万之大勢一同に橋へ押込、渡りける、さする内余〓盛んに橋きわまて焼来り、川へ飛込ものも有、火に包れ煙にむせひ、水に溺死するもの幾百人といふ事をしらす、其時火橋杭にもへ移りけれハ諸防んとすれ共、橋の上へ数万の人にて透間なく防へき様もなかりし内、橋板、欄干にもへ付けれハ、人の上へ乗越、又ハ川へ飛込も有、歴々の鋲打し乗物なと目より高く差上けれ共、もミ合打倒し、駕篭をみちんにふミくたき、身に底を請たる者幾人といふ事なし、其時橋半より焼落けれハ、数百之男女老若小児一時に川へ落、水底に沈ミ、壱人として助る者なし、中にて十間斗焼落けるゆへ跡成人ハ知らす、前成人ハ跡〓押れてくわら/\と川へ落死ける、橋不残焼落、此時爰ニて死する者弐千六百人余、夫〓三縁寺へ火移り、二ツ目より南本所を焼払ひ、翌月朔日巳ノ上刻ニ火ハ漸鎮りける、大小名の屋形三百余軒、町々弐万軒余、其外社堂寺院其数を知らす、南北二里ほと東西三里余之所、渺々として辺りもなく荒茫たる野原となり、翌月十二月朔日也、夫〓親を尋、子を失ひ、主人を失ひ、妻をなくし、男を尋候人、両国之川端に来り難き悲しミ尋ける、段々に死骸を引上つミ重ねならへ置たる有様、川岸に塩肴をツミしかことく恐ろしき事共あわれなる有様なり、主ある人ハ死骸を持行、数万之男女泣悲しみ、壱人/\ニ尋改、目もあてられぬ斗也、酉ノ年大火事如斯のよし申伝へけれ共、あまり夫ニもおとるましき天変なり、主知れぬハ皆無縁寺へ葬、海江流れ出たる死骸も幾百人といふ事を知らす、二、三日過て水底より浮上りて川流に成も夥し、其中に盗ひと来りて、うそなきに涙悲ミ、人を尋るふりして死骸を壱人/\さくり、懐中の鼻紙袋、守袋、首に還たる金財布なと皆取けるこそ、誠に正真の鬼也と人ニ云あへり、夫〓大小名町々迄相応/\に仮り小屋を建、雨風を凌きける、金銀をちりはめたる旧館一朝の土灰と変して浅ましかりし有様なり、富貴の町人も家蔵を焼、妻子を失ひ、親を失ひ、手と身からに成も有、無是非本国へ行も有、又は出家に成も有、乱心して自滅するも有、かゝる事を見なからも此時焼ぬ町人共は悦、竹木を高売して金銀をもふけ、莚こを百文ニ弐枚、草履一そく廿文ニ売買す、小屋之内に親族うち集り日夜涙悲しむ、其上十二月廿二日酉刻〓大雨、三日三夜しやちくを流しけれハ、かり小屋に住ける者とも寒雨もり、氷りて衣服ハなし、温方を得へき食物もなけれハ、女童又は虚弱のもの多凍死、病死せるもの家々に多かりける、廿五日より雨やミぬ、明暦年中酉ノ年の大火事〓五十年に当り、かゝる天火地妖に人多く滅亡する事過去一業のかんする所也、平生心懸へき第一也、于時明和五酉秋此書をかり出して写すもの也、五十年、六十年に壱度宛ハかゝる大変も有か天地之変也、前車之くつかへるを見て後車のいましめとす、古人いへり、如斯の時節に出合ましきものにもあらす、遁る事は成へからす、只其時之用意兼而心得火事地震之節うろたへす、かねて心懸るを知恵といふ

我古希迄長命して此書を写し、せんなき事なれとも、後の人のなくさミ咄しの種、又心有人は身に考へ知りて用心をなす第一也、其為に書残す者也
武江茅場町住
中田竹翁
七拾歳
出典 都市の脆弱性が引き起こす激甚災害の軽減化プロジェクト【史資料データベース】
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