[未校訂](前略)寛永十年<癸酉>正月廿一日卯ノ刻武蔵・相模・伊豆大地震あり、武蔵国は尤も大動なり。江戸御城高石垣計り相違なし。御(�A)殿主、地震大動の時東西へ大(�B)靡くを、内外の御番衆今ころぶよと御覧ずれば起直り、今ころぶよと御覧ずれば起直りせしより、兵(�C)の御殿主と御(�D)前にて御名付け遊ばししとなん。諸大名屋敷長(�E)屋門ころびたるもあり。町家同断。歩行人は足先へ踏む事ならず、行く馬は四足を縛り付けたる如くなり。馬に乗りたる人馬より下る事ならず。御城より中橋・芝口筋違い通り動き強し。中橋より浅草辺動き弱し。右は江戸中の事。相州小田原城内家ころびたる事数しれず。第一小田原町東より西迄両側共に家一度に倒れ、寝ながらう(�F)ち殺されたる人もあり。起きて座しながらうち殺されたる人もあり。家(�G)内をはたらく者と見えうち殺されたる人もあり。同廿一日の改(�H)め、男女死人名(�I)を云ふ人計り二百三十七人、是は侍方名を云ふ人許りなりと。明る廿二日江戸へ御申上げ。其の外町家童(�J)、召(�K)仕の男女死したる人は数しらず。死にかかつて居るも有り。上り下りの旅人泊りかかり、打殺されたる死骸一所に捨てたるに、国元より尋ね来り、あまたの死骸の中にて見分けて弔(�L)ふ人もあり。又見分たず帰る人もあり。あわれなりける次第なり。依って小田原地震と名付けたり。此の中不思議(�M)の事には、小田原町の真中に北(�N)南向合両側弐軒倒れず有り。是又不思議(�O)と江戸へ申上る。又同町の東西のはづれに草屋十軒許り宛有り。扠て伊豆国には箱根峠の東の口(�P)行けば、左の高山より大石壱つ落ち、飛脚の馬に乗りて通りけるを人馬共に馬方迄三人一所に打殺す。馬方は小田原へ、飛脚は紀伊国の飛脚なり、と箱根御番衆より江戸へ申上る。其の石の落ちて打ほぎたる跡弐(�Q)間口ありとなり。又三島の町の入口横に動(�R)り割り、其の日上り下りの馬とまる。右三カ国の隣国は常の地震より少し強く動りたると江戸へ申上る。伊(�S)豆より京迄の事同卯ノ刻に動(〓)はあり、常の地震とは卯 刻の地震は右の通り。又同日の辰刻に大動あり。依って江戸中驚き用心する。中にも御(〓)屋敷にては舟笘を以て庭に仮屋を作り御座成されしとなり。正月二十一日より廿九日迄は昼夜少々宛動(〓)きし故、廿九日迄昼夜庭の笘仮屋に御座ありしとなり。諸大名御屋敷何れも同断。付たり、七郎右衛門卯刻の大地震の時江(〓)戸長屋の二階にいまだ寝て居るに動き出す。やれ地震よ、と思う内に大(〓)動になり、起きたれ共左右に転び帯を結ぶ事ならず。我身大事と思う心もなく、長屋転びたらば打殺さるると計りあんじたり。小(〓)田原の犬死理りなりとぞ。地震の時は少しにても早く起きるが本手なり。思案する内に大動になると起きる事ならず。左右上下へ動く物なれば戸障子もあ(〓)かず。地震と思わば先づ戸をあ(〓)くるものなり。其の上火の用心兼て心得あるべきなり。右の辰ノ刻の地震には、馬場通る人、長屋なり軒の下へ寄り、駒寄に取付き居たり。長屋転びなば打殺さるるなり。よくよく心得べき事なり。
注�A 前出。江戸城の天守。
�B 大の下に欠字あるか、大きく靡くか。
�C 兵すなわち「つわものの御天主」とは意明瞭でないが、要するに丈夫な天守の意であろう。佐土原がその工事にあづかったので、一層誇大につたえたのである。
�D 将軍の前で二代忠興が兵の御天守と名付けて得意がったのだろう。
�E 左右に長屋をそなえた門。
�F 討殺されたる、とある。以下同じ。
�G 家内にはたらく、カ。
�H 調査。
�I 名前がわかっている人だけ、或は名前を挙げるほどの人だけ。
�J 童べ、とある。
�K 召使。
�L 吊、とある。
�M 儀、とある。
�N 北と南に向き合う両側弐軒。
�O 儀の字を用うること同前。
�P 東の口行ば。
�Q 間口とは家屋前面の巾をいう。
�R ゆり。方言地震のことを、「なえがゆる」という。
�S 以下の一節意不明瞭。
〓うごき、と訓むカ。
〓江戸の藩邸。
〓「動シ故」とある。
〓江戸藩邸の長屋。
〓「大動ニ也」とある。
〓さきに述べられている小田原の惨事を指す。
〓「明ズ」とある。
〓ここも「明ル」とある。このあたり方言に通ずるところが散見している。