諸国諸所兵乱并大慶驚動之事
(中略)
一、大坂夏陣之事 大坂崩年号替リ元和と成ル
元和元年乙卯の年夏、将軍方〓俄に御取起大坂崩卯ノ年也此時 右馬頭忠興公国元より大坂立ニ御上落ニ四国路にて大坂崩たると大坂蔵衆申上候、使四国路三机ニ而参合陣、伊豆大地震あり、武蔵国ハ江戸、御城ハ石垣御無事、御殿主地震大動之時東西江大なびきになひくを内外之御番衆今ころふと御覧すれハ起、直ころぶと御覧に起、直に依はの御殿主と御前にての御名付大名屋敷長屋門ころびたるも有、町中家同役人ハ一足も先江踏事ならす、乱馬、四ツ足をくゝり寄たることく、乗馬之人、馬よりおるゝ事ならす、一所にても御城より中橋芝口にすちかへに動き強し、中橋より北浅草方動きよわし、右ハ江戸中之事、相模の国同卯の刻之地震小田原侍方家ころひたるハ数知す、第一小田原町之事東より西迄両がは之家一度に倒、寝なから討殺したる人も有、起て座して居たるを討殺たる人も有、家の内をはたらき者と見へて討害たるも有、死人同廿一日之改男女名之人斗二百三十七人着到内に侍方名いふ人斗、明廿二日に江戸に申上る、此外□部使ハれて男女死たるも有、死にかゝりて有もあり、改なく数知す、上り下り旅人泊討害したる死害ノ一所に持出捨たるに、国々〓尋来数人之死害之中ニてゆかりを見分て吊ふ人も有、又見分す、帰人も有、地衆旅之衆哀を留たる事なり、依て小田原地震と名付、右之段ニ有ニ残りたる家々事、小田原町之真中に北南向合両かはに屋敷二ケ所、二人之大家倒れす有、是不思儀と江戸に申上る、又同町之東西之はてに草家十斗宛残り有、伊豆国々ハ箱根到下東江行は左りの高山より大石一ツ落、飛脚馬に乗て通、落石一ツにて飛脚馬馬かた討殺たり、馬かた小田原の者飛脚ハ紀伊国之飛脚、箱根御番所〓江戸に申上なり波石落て道打ほぎたる跡二間口有、江戸〓上りに見得たり、三島之町口横にゆりわり其日上下の馬通り留る、右三ケ国之隣国有て、常之地震〓強動たると江戸に申上、伊豆国〓京迄之事、同卯の刻に動ハ有年の地震との沙汰なり、卯の刻の地震ハ、右之断又同日之朝辰之刻末に大動有付て江戸中驚御用心先御屋敷舟苔を以、庭に仮屋作御座有に、同正月廿一日より廿九日迄ハ昼夜御庭之苔仮屋ニ御座有たるなり、諸大名屋敷同断
附り、七郎右衛門、卯の刻の大地震の時、江戸長屋二階にいまだ寝て居に動有、地震と思ふ内に大動出来、起たれ共左右にころび、帯をむすぶ事ならす、我身大事と思ふ心もなく、長屋ころびたらば討ころさるゝ斗、小田原之大死ことわりなり、地震之時ハ少ニても先起るか本手なり、思安する内に大動に成と起事ならさる物なり、上下さくりにしかいの戸明す、地震と思ふ時先戸をあくる本手也、兼而之心意専也、右いふ辰刻之地震に馬場通人長屋しきの下に寄駒寄に皆取付たり、長屋ころびたらバ討ころさるゝなり
(後略)