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項目 内容
ID S00000432
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1649/07/30
和暦 慶安二年六月二十一日
綱文 一六四九年慶安江戸・川越地震(慶安二年六月二十日)
書名 〔大猷院殿御実紀 巻七十五〕
本文
(慶安二年六月)
○廿日、(中略)、今夜大地震によて、家門みな城門まで出て御けしきうかゞはれ、又松平伊豆守信綱のもとへまかり、うかゞふものあり、(日記、水戸記)、○廿一日、昨夜の地震に城内各所の石垣破損し、士民屋倉毀破せしもの少からず、諸大名諸有司登営して御けしきをうかゞふ、同じ事によて、日光山へ留守居番筒井内蔵忠重、目付坂井半左衛門成令をつかはされ、尾邸へは新番頭駒井右京親昌、紀邸へは小姓組宮城半助貞正、水邸へは小姓組神尾弥右衛門守政をつかはされ、又日昆両門へも御使あり、(中略)また家門、諸大名この以後地震ありとも、昼夜にかぎらず御けしきうかゞひにまかる事をとゞめらる、(日記、水戸記)○廿二日、(中略)、日光山、廿日の地震に石垣、石井垣等破損し、相輪塔もかたぶきしよし、注進あるをもて、かさねて阿部対馬守重次に大工等をそへてつかはさる、又紀邸へ小姓組番頭柴田筑後守康久御使し、日光山の地震御心もとなく思召れしに、御本社、 御宝塔御安泰のよし聞召、御けしきうるはしきむねつたへらる、この日亥刻また地震す、目付石河三右衛門利政、安藤市郎兵衛忠次、日光山につかはさる(日記
水戸記、紀伊記)(中略)○廿五日先日の地震に、日光山の 御宮安泰にして、江城もつゝがなく感悦思召により、 御宮へ友成の御太刀、栗毛の馬を進納し給はんとて、大沢右京亮重代参奉りいとまたまふ(中略)(日記、水戸記)、○廿六日(中略)又、地震により破損せし二丸の修理奉行を箪笥玉薬奉行中根喜蔵正次、弓矢奉行内藤左七郎政俊に仰付らる(日記)○廿七日、阿部対馬守重次、日光山より帰り、謁し、山中地震のさま聞え上る、(中略)(日記、水戸記)○廿八日、御心地わづらはしくわたらせ給ひければ拝賀なし、けふ老臣をめして日光山のことを議せらる(中略)(榊原日記、日記)○廿九日、夏〓例のごとし、日光山石垣の修築を有馬中務少輔守忠頼に仰付らる(日記)○七月朔日(中略)諸大名に、地震のとき速に登営する事をとゞめらるゝ旨面令あり、百人組の頭阿倍四郎右衛門正之、日光山の石垣奉行命ぜらる(日記)○三日(中略)増上寺、地震にて破損せしかば、その修理奉行を寄合堀田権右衛門一純、戸田藤五郎重種に命ぜられ、日比谷門の修理奉行を小姓組朝倉仁左衛門重宜、書院番大久保平四郎忠興に仰付らる(日記)○七日(中略)二丸殿閣前月の地震に破損せしかば、大納言殿もけふは本城にて拝賀を受給う(中略)(日記)○十三日(中略)、先の地震により一橋、神田橋辺の石垣破損せしかば、上杉喜平次に修築を仰付られ、使番真田長兵衛幸政、小姓組柘植右衛門佐正直、書院番荒尾平八郎久成は修築の奉行を命ぜられ、小普請奉行朝比奈源六泰勝、荘田小左衛門安照は会議を命ぜらる。(中略)○十六日後閤中仕切の石塁修築の事を、酒井讃岐守忠勝に仰付らる。これも地震にて崩れたればなり(中略)(日記、紀伊記、水戸記)(中略) ○廿五日雑司谷薬園茶亭修理奉行を小姓組堀惣兵衛直昭、花房又七郎栄勝に仰付られ、平川門の腰掛并舂屋修理の奉行を大番組頭小笠原久左衛門直光、大番中島権左衛門正勝に命ぜらる。みなさきに地震にて破損せし故なり。今朝大雨、後刻又大地震、よて中根壱岐守正盛に双厳院豪俔をそへて日光山につかはさる。けふの地震により、川崎駅の民屋百四五十軒、寺七宇崩頽し、その辺四五村民屋破れ倒れ、人畜毀傷する者多きよし、代官伊奈半十郎忠治より注進す。今夜松平伊豆守信綱宿直す(日記、水戸記)。○廿七日卯刻大震ありて、其後も時々地震し雨降。よて日光山へ急脚をつかはさる。(日記、水戸記)(中略)○廿八日月次なし、(中略)今朝卯刻天赤くして火の如し。少しく地震し、午より烈風ふき、夜中時々地震あり(日記、水戸記、紀伊記)
(後略)
出典 都市の脆弱性が引き起こす激甚災害の軽減化プロジェクト【史資料データベース】
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