[未校訂](嘉永七年寅十一月地震大津波)小浦文書、明治三十五年書写
百二十 仁孝天皇 嘉永七年(一八五四)寅十一月
三日(現暦十二月二十二日)ヨリ十五日至リテ名々家
ニ帰リ荷物を取寄、(取り寄せ)、十一月三日朝五ツ時
(午前八時)頃ヨリ潮の満干度々あり、
小地震ゆり(揺り)、夜日に四、五へん計り入(揺り)、
其れ(より)
潮みちひ数かぎりなく、同地辰(震)拾壱へん計、
又、其の夜に拾へん計り、其れヨリ心付、
宝永年号時分ニ津浪と言事ありと古き
書物あり、心得の為になり、皆夫々井戸を見る
者もあり、海辺ニテ大勢集まり、此の内四、五日前よ
り
殊ニ天気ハ毎日情(晴)天ニテ、雲も出ず不仕儀(不
思議)な
事と思ひ、何れ何かへん(変)のある事ニ違ハあるま
いと
考え候、処が五日の八ツ次分(時分、午後二時)小地
辰(震)三へん計り入(揺り)、
ほどなく七ツ半(午後三時)大地辰(震)致スニ付、
井戸を見れバ
水は四尺計りへり、海はひか畑ニなり、海中は
赤土の色ニなり、海は沖ヨリうず(渦)上り、それを
見ルヨリ急き村方者ハ、荷物色々物高き
山のふもと畑、戎は名二ヶ所ニ思ひ々に荷を以行(持
ち行く)、
先一番、たべ物、きるもの、なべかま、柏の浦ハ山平
地蔵ケ
坂、向村ハ平尾久保、本小浦ハ金山谷、当(東)林庵・
戎山
皆思ひ々ニ持行、年寄子供は皆其ケ所ニ行せ、
達者ものハ村内にき(気)を付、其地辰(震)ヨリほ
どなく
津浪参り、一番潮先村上はずれ迄参り、二番
塩(潮)村真中迄参り、三番塩(潮)村濱所ヨリ三合
め位
参り、塩(潮)みちひ七へん計りあり、其の夜に小地
辰(震)度々
あり、明け六日拾へん計り、又、其の夜に拾五へん計
り入(揺り)、
明け六朝あめふり出し、荷物を家にはこび候處、
同七日七ツ時大地辰(震)仕候、其夜に三、四拾へん
計り入(揺り)、それ
より拾五日迄は小地辰(震)数しれず、十五日に
家ニ帰り、六日ヨリ十五日間ハ山ににげ、畑は申に及
ず、
或は船に乗りにげ、其の節日向赤江大船弐艘参り
候處、村中の者其の船え乗り込、其の節の引塩(潮)
の
はげしき候故、濱所家小屋かべかき大そんじ
仕候、其時唐いも申ス不及、うき物そんじ方々御座候、
以前宝永年の津浪し書物有之候故、少しハ心得も
あり候故、急き荷物をはこばせ候得共、あまり急難の
事ニテよふやく急難をのがれ候事故、其節浦白(浦代)
ニテ
津浪引塩(潮)の為に六十有才の女壱人流失致候、中
越浦
地方ハ高塩(潮)にて御座、其時六日の大地辰(震)
弐ツのゆり
高山をゆり割り、家・蔵・石がけ、所々山々、谷々申
に不及、
往来道筋迄もそんじ、其節御城下神社・仏
寺・取居(鳥居)迄皆かやり候ニ付、靏崎(鶴崎)・濱
わき・近国・
豊後地方そんじ候、其の時五、六年不漁打続候、
村方若者ハ所々かせぎ出テ残り年寄、女、子供のみ、
其節当浦御番所、城下渡辺吉左衛門殿・働(勤)番、
地船網船兵四郎船ニテまくを張り、御働被成候、
米水津組内諸道具大そんじ方、其時当浦
前にひのき網をもちはり、船をなれ(ら)べ、綱に船
を
ツなき、あばニテ置、物の流失せん為ニ仕候、
先、其節の津浪儀は海ヨリ高く
なりくる至極をもくそろシく候間、(至極おそろしく候
間)
引塩(潮)ハはげしく候故、かならず引き塩(潮)に
ハ
なる丈御気を付、あとに残りの品物を
とりにもぞらぬよふ可致候なり、
為念ニ書印(書き記し)候なり、
明治三十五年迄四拾九年ニ成る
(色利浦文書)塩月新蔵
嘉永七甲寅年十一月
一、四日 辰下刻 地震 潮満干数度有之
一、五日 甲(申)下刻 大地震 高潮 度数不詳
色利浦平生満潮より九尺 壱番潮元屋敷水神前
東風網代太七方前迄
大庄屋所床下迄畳濡不申
荷物後ノ山へ持運ひ、大庄屋・皆合・召仕の者
男女四五人相残、山へ致小屋掛居候、家内小供
ハ西谷孫右衛門方へ逃行候、
一村方不残最寄の山端へ逃去、致小屋掛候
但、東風網代ハ廣岡、中江ハ尾はな並ニ薬師庵
ノ上
一浦廻り衆弐人、土屋石右衛門殿・江藤源助殿被
居合候
一、泊番、本谷弐人、西谷弐人
一、人手無別条
一、六日 晴天和風
一、浦代・竹ノ浦・小浦へ見分ニ罷越候、右三ヶ
浦も同様地震・高汐有之候
一、浦代、溺死女壱人、村中ハ養福寺へ逃れ有之
候、竹ノ浦・小浦も山端へ致小屋掛候
一、浦廻り衆、今日より急ニ引取
一、泊番、木谷弐人、西谷弐人
一、家内、西谷へ滞
一、七日 今晩より雨曇
一、巳ノ上刻 大地震、今日のゆりニて所々石垣
崩れ候、御城山表大崩れ候由、致承知候
一、八日
大内浦より村中参り、後ノ山相聞候、新に致
小屋掛候、右詰候もの前条の通
一、泊番、大内浦六人
一、八日 晴天北風
一、地震、度々有之
一、間越へ御出張の御山奉行・中崎元左衛門様下
役一同、色利浦前へ芸州大崎船参り候ニ付、
右船へ間越より逃移り候
一、泊番、大内浦三人
一、九日 曇或晴 風烈し
一、地震、昼夜共度々有之
一、十日 晴天
一、今夜四ツ時頃、地震、先日の地震ニ三番目位
と申事ニ候、其外度々有之
一、十一日 晴天
一、右大変断として当浦庄屋・弥兵衛
御城下へ罷出候、人足喜兵衛・政右衛門
一、少し宛地震有之
一、泊番、西谷弐人
一、十二日 同
一、地震少しつつ有之
一、泊番、西谷武人
一、十三日 同
一、震動あり
一、十四日 同
一、震動、地震有之
一、家内、本宅へ屋移り
一、十五日 晴天
一、右大変、御立願ニ付、村中
氏神立岩宮へ惣籠
一、村中大庄屋所へ見舞ニ罷出候
一、十六日 雨天 虹
一、十七日 晴天烈風
一、十八日 晴天
一、組内より流失物過分有之ニ付、組内役人寄合、
浦代より流失の品多く宮の浦も拾取候由、相
渡不申、
右ニ付、拾取候もの隠置候義、何共不埒の次
第ニ付、有躰ニ差出候様、無其義候ハヽ役人
並持主立会、
屋さかし可致候様、一統へ申渡候、
一、十九日 曇天
一、廿日 晴天
一、組内役人立会、流失物吟味
一、廿一日 同
一、大庄屋不快ニ付、組内小庄屋右大変
為御機嫌伺一同出町
(安政元寅年十一月五日地震海嘯ノ筆記)色利浦文書塩月 新氏所蔵
十一月五日大震海嘯ノ概略ヲ筆記セシニ、当年ハ例年ヨリ
モ暖気ニシテ兎角日和ヨク凪多く、小前のものハ大概
単物一枚にて稼業ヲなす程なりし、又、本日ハ
別段ナギにて浪なく、実に暖か過ルと云ふ
程なりしが、同日午後五時とも思しき頃、南ノ大
洋にあたりて大砲ノ如き音ありし故、時な
らぬ雷鳴ニモヤト思ふ間もなく、南ノ方より
地震致し漸次北に及ぼし、すわやといふ間も
人家ヲ飛出申候、十歩弐十歩モ行んトするに
歩行事を得ず、其儘ニ立すくみにてありし
が、本日ノ地震ハ横にふる地震にて次第につよく、
其長き事ハ凡ソ三、四十分ノ間もありし様に覚へ
しが、小生等が立し所ハ数十年前よりの
溝ありしが、其硫黄くさき事、鼻ヲつきぬく
如くありしが、別に地ノ破裂ハあらざりし、
地震過テ后ハ故人の口碑もありし、井
戸水等を見しに惣して泥水となりしも、矢
張充満シタリシに深更にして水脈ある所ハ、
海岸附□ハ泥水ノ出る事おびたゝしく、大凡
村中ノ水ハ不残出候様に見へたり、此時井
戸ノ水ハ更ニナキ様ニナリ候、又、山谷も同
様泥水数十間川下迄出候よし、
海嘯の来ルハ四、五十分も后にして、此時海一面
浪ノよする模様もなく、極オタヤカ(に)シテつなみの
兆候更ニナキ様見へたれ共、老人の説にハ大
地震あれバ必つなみあるゆへ気ヲつけよとの
事故、村中ノものハ海岸に眼ヲはなさず
ながめ居しに、追々海水膨張する事
まのあたりなれバ、村中へ通知し
雨戸等をしめ、村中一同逃出し頃ハ、高サ
五六尺以上ナル石垣ヲのりこし、見る間に村中に
充満シ、凡ソ一番汐の満込しハ長キハ四、五町
程、短きハ二、三十間ニ及びし、其頃ハ
六時過キにして既に人員のほのかに見へし
頃なりしが、其引汐ノ際ハ天地も崩るゝ
如き音ありし故、濱手の家屋人畜すべテ流失必定
セしと覚悟セしに、人畜家屋一軒も流失セず、
夫よりさし引十二、三度ある度ごとに五間、
十間ト満込少くなりしよし、又、海岸六尋
七尋もありし網船の定繫ありし所も
引汐の度ニ鋼船の必ず海底につきしよし、目
げきしたるものゝ話しなりし、麦畑ハ三度
の汐にて白畑となりしモ、其ノ后すきかへし
麦ヲ蒔しに相応の収穫ありしが、
其后弐、三年間ハ雑草生ゼザル事アリシ、本日
汐ノ止みしハ午后ノ八時頃なしが、微震ハ徹
夜二、三十度に及び候、翌六日ハ微震度々
ナレ共、未だ人家にハ入らず(未だ人は家にはいらず)
野宿なしたり、
同夜ヨリ雨ふり出し北風となり、或ハ西と
なり、是迄と反対シタル寒気模様となり、
翌々七日ハ朝小雨ふりしが、震動も少く
最早人家にかへる準備中、同日午前八、九時頃、
ドント響くや五日に十倍したる如き劇震
にて、本日も横に打ふりし如く、濱並木松
の枝も地ヲ打しが、小生等も地震と松枝
に既に打倒されんとなせども、直にやみし
故つなみの恐さもなく、夫ヨリ日和も順席
となり、震動も余程少くなりし故に、津
浪の来ルハ□長き大震ナラでハ恐れなき様
愚考セリ、
津浪の前兆ハ、四、五日前ヨリ天気暖和ニシテ
浪等もなく、又、海岸にハ風雨の前にハ必ず
南風雲出て
浪の来ル事あれ共、一天雲ナキト云
好天気ナルニ、時ナラヌ汐ノさし引なす事、
一日定期満干ノ外幾度といふ事なく、五間満
テハ五間引事のありし故、老人ノ説にハ
先年津波のありし節、海びきありしよし
なれハ、こんな暖カナル年ハゆだんがならぬか
ら、用心するがよいとの事故、余程濱手の
ものハ注意セしに、四日に至りテハ一層汐
のさし引はげしかりしに、五日にして
大地震津浪ありし、尚先月も南の方
なりし様書しが、矢張此度も同し
事ナルハ、全ク前兆ありしヲ口碑に
伝へしものならん、
従来濱手ノ新田畑ハ地震前ハ異状なかりし
も、大震ヨリ余程低下セシモノナラン、安外ニ
汐満込、大汐・小汐ノ別なく既に濱畑ハ海面
となりし事、枚挙にいとまあらず、凡ソ平常
ヨリ二尺内外ハ高きよふに見へたり、夫ヨリ
漸次八、九年ヲ経過して、よふやく元に復し
現今ハ余程大漁ならでハ別条ナき
様見へたり、
一、地震津浪の后ハ兎角沿岸一円漁事なく、
其上、畑、米・麦・甘藷・薪等迄流失ナス故、大ニ困難
セリ、
又、浦方へ蛸・なまこ等の出来しこと、夥しきも妙なり
し、
一、網代場ハ、イロリ前網代・関網と唱フルケ所、地引
網代にして、いわし・小鰮・あじ・しび其田諸
魚ノ集合する入江如き場所ナルニ、津浪
后ハ海底沼の如く、地引網出来がたく
大ニ困却セシモ、数年ならずして元に復ス
と雖モ、時によりて害ありし事もあり、
其外ノ網代等ハ五十年内外変遷更
になく、海底浅探も格別異状ナき様子なり、
本村ノ内イロリ浦中央に川あり、川ヨリ濱手ハ
元禄以降埋立ノケ所にて、地方ハ微震にても陸地ハ
殊ノ外はげしく、少し強震ナレバ水桶も
ゆりかへす如くあるなり、安政の大震に土蔵の
屋根瓦一枚も不残落しハ陸地のみ
なりし、又、入江になりしケ所ゆへ、地ノ方
ハ四尺内外汐ノ満込しも八尺九尺にも及べり、
又、浦代ハ旧記にも見へし如く汐ノ満込七、八尺
以上にて、老婦一人死亡したり、
又、小納屋□軒も流失セシモ家屋ハ別条
なくありし、宝永四年ノツナミニハ、現今養福寺ノ石段
上ノ方三ツ残りシ迄満込しよし、口碑ニアリ、
其他ハ小浦・竹ノ浦・宮ノ浦ニても
四、五尺以上なり、宝永四年ノ津浪にて
イロリ浦へ満込し汐先ハ、安政度ヨリ場所により
て三丁以上も高くあがりしと見ゆれバ、十分
汐ノ満込はげしく、したがって人家も流失
セしものならん、
一、大震にハ必ズ雉子ノ啼ぬものなりしが、
五日七日共更ニナカズ、又、五日の夜ヨリ六日七日に到
も
啼ざる事妙なり、此際ハ微震ニテも雉子ハ啼ぬなり、又、
出火ある前兆にハ
鼠等ノ巣ヲかゆる物なれ共、地震の為メニ
ハ左様ノ事ハなき様なりし、
米水津村大字浦代ノ内、□海上三里程、間越浦トテ人家
十七戸計りある所にして、宝暦年間以前、戸高仲蔵
先祖再発シタル由、然ルニ陸地に汐池アリ、二町
四反五セ歩程アリ、濱手ハ大土手あり、巾十間計り、村
社ノ森林アリ、
又、並木松ハ六十年以前、戸高仲造の父うへし
よし、此池ハ往昔ハ中十三尋もありしに、
近年浅くなり、文化度ノ頃ハ中六尋位
となり、現今ハ三尋程となりしが、鯔・すずき・
コノシロ・鰻等ハ沢山おり、此池ハいつの頃
出来しものなるや、旧記にも判然せざれ共、
現今池ノ北がわ周囲ハ元田なりしが、安政の津浪
后ハ池尻ヨリ汐さしこみ、大浪等の節ハ
余程稲作等損失なすゆへ、夫ヨリ畑とな
し来りぬ、此畑ノ下ヲ深く掘見れバ、カル石縞
形ヲなし山手通りハ悉く同石なるを見れバ、
先年ハ網代なりしを、大浪のため小砂ノ
吹よセて土手となりしものならん、陸地ハ東西六丁内外
ノ白
砂ノ濱にて、大南風・西風ノつよき節ハ、土手
の松木も埋没する如く、砂にてうづ高く
なりしも、大浪に又半方ハ引落すことあり、
此池尻に埋没シタル大木ハ、松木との説ナレ共
判然しがたし、此大木タルヤ幾百年ヲ経タル
モノ乎、一向に虫バミタル様子もなく、かつて海中ヨリ
引あげしものとも見へず、多分ハ先年大震
の砌倒レシモノ乎と推考セリ、
一、大地震后ハ三日間ハ釣魚等も餌につかぬよし漁夫ノ
話しあり、
其他旧地図等なく筆記スべき変遷のケ所ハナキ様ナリ、
安政年間津波の為、損害ノ筆記ニ
五ケ浦計
一 畑 拾四丁六反九畝分 麦植付ノまゝ皆無トナ
ル
一 御立林 二ヶ所 崩潰
一 波戸場 三ヶ所
一 塀崩レ 弐十ヶ所
一 石垣 百四十弐ヶ所
一 居家 三百八十九軒、但、七八尺壁洗ひ崩セし分
一 土蔵 五十六軒、同断
一 納屋 十一軒 同
一 甘藷 壱万八百五十五俵、汐ヌレ、腐敗物トナル
一 同切干 百五十俵、 同断
一 塩 弐千九百三十俵、流失
一 松木大束 六百五十石、 同
一 莚 五百枚 流失
右の通り損失トナル、
右の件ニハ有ノまゝ及御報告候也
明治廿五年十二月九日 色利浦
御手洗想太郎
南海部郡役所
第二課第一科
御中