Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3300048
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔牧村史 通史編〕○新潟県東頸城郡牧村史編さん委員会編H10・3・30 牧村発行
本文
[未校訂] 弘化四年(一八四七)三月二十四日夜、信州北部を中
心とする大地震が起こった。その後数日は余震が続き、
二十九日昼ごろの余震はむしろ本心より激しかったとい
う。牧村でも当然強く揺れ、人々の不安は大きかったと
思われる。
 坪山村から川浦代官所に差し出された被害届けによる
と、
坪山村 惣家数二十八軒
家作皆潰れ、極々難渋 一軒
半潰れ、住居成り難し 十三軒
怪我人一人も御座無く候
(坪山・中川耕平家)
 また、府殿・高橋家文書によると、湯谷村・原村・倉
下村・倉下牧分・府殿村・宇津俣村の各村では、潰家が
それぞれ一軒ずつあったとしている。
 地震によって家を失った者に対する救済はどうだった
か。
 坪山村では、四月十二日川浦代官所から御手宛金六両
三朱を受け取り、皆潰れの者へ一両、半潰れ難渋者一一
人に金一分銭四〇〇文ずつ、その他の難渋者七人に金一
分ずつ渡した。更に六月、お手当金一〇両を受け取って、
一一人に金一分八朱ずつ、一四人に金一分二朱銭二〇〇
文ずつ渡している。
 頸城地方の地震の被害が伝わると、近郷や遠方の各地
から篤志家が救援に駆けつけた。川浦代官所は各村役人
に次のように申し渡している。
此度 当郡中大地震にて潰家大破損家出来、即死怪我人
等之有る趣、水原村市嶋徳次郎、細山清七、佐藤友右衛門、
芋川徳太郎、和泉屋忠蔵、下条村市嶋治郎吉、佐藤伊左衛
門承り及、時日移さず直様出立罷越し、難渋ものどもえ差
当り小屋懸け取繕入用相施し度旨之申し、金子持参いた
し候に付、取調べの上、夫々渡遣候儀にて、遠路[態々|わざわざ]罷越
し、右様取計の儀実以って親切の次第、ひとかたならざる
儀に之有り候(略)且又、顕聖寺村石田源左衛門儀、居村
は勿論、自分居宅土蔵まで悉く大破、小屋懸にて罷在なが
ら同様願出、これ又格別親切の至に候えば、いかにも御支
配の御恩沢を有難く相心得、小前のもの共えも[能々|よくよく]申聞
かすべく、御年貢方は勿論、農産業出精致すべく候
(坪山・中川耕平家)
 これによると、蒲原郡から大勢の篤志家が見舞いにや
ってきて、救援金を提供したという。代官所からの御手
当金は、これらのお金を分配したものと思われる。
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 668
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.001秒