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項目 内容
ID J3200701
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1810/09/25
和暦 文化七年八月二十七日
綱文 文化七年八月二十七日(一八一〇・九・二五)〔男鹿〕
書名 〔男鹿市史 上巻〕男鹿市史編纂委員会編H7・3・31 男鹿市発行
本文
[未校訂]文化の男鹿地震の余兆
 文化七年八月二十七日午後、男鹿半島は激震に見舞わ
れた。この地震は、近世の男鹿地域では最大のものであ
り、男鹿地震といわれる。ここでは、この地震を近世以
前の地震や昭和の地震などと区別するために、文化の男
鹿地震とし、その前ぶれと思われる不可思議な現象から
見ていくことにする。
 男鹿では同年八月の初旬から、不可思議な出来事が相
次いで起きていた。その様子を、『昭和十四年男鹿地方震
災誌』に収録されている文書から探ってみよう。
 最初の文書は、「男鹿村々変事之次第」と題されたもの
である。この文書は、同誌によれば、文化七年九月に男
鹿地震の報告として、江戸在府の秋田藩九代藩主佐竹[義|よし]
[和|まさ]にだされた文書の写しで、吟味役安藤又兵衛調査団の
報告書を、見廻役宮本国助、飯塚喜六郎、見廻役加勢後
藤百平の三者が取り[纏|まと]めて清書し、提出した記録がべー
スとなっているとのことであり、八月初旬に起きた八郎
湖の変事が収録されている。
 これによれば、
①湖水の色の変化が頻繁となり、赤や黒に変わった
かと思えば、普段よりは澄んでみたりという状況が
繰り返されるようになり、漁師たちの話題となって
いた。
② 湖中の藻草の[垢|あか]が濁酒の粕のように黒ずんで流れ
るようになり、普段には見られない不思議な現象と
して付近の住民にいぶかられていた。
③ 多数の[鰡|ぼら]が死んで湖面に浮くようになった。
(原文は候文)
とのことで、住民には大変事の予兆と受け止められてい
たらしい節がある。
 鰡の大量死については、同誌所収の鵜木村大淵常右衛
門が藩の役人へ提出したと言われる文書にも記されてい
る。その概要は、「七月三十一日に大風があり、幾千万と
いう数知れぬ鰡が死に、潟中に船の往来が出来ない程に
流れた。二尺ばかりのおびただしい鰡が岸へ打ち上げら
れ、大根の積んだような有様となり、人々はこれを未曾
有のことと話しあっていた」というものである。
 このようにして、当時の人々は八郎潟の異常な変化に
注目し、莫然とした不安を感じていた事がうかがわれる
のである。
 こうした不可思議な現象が続いたのち、先ず、八月十
六日の夜地震があった。このとき以来、日に二度三度の
群発地震が発生するようになり、角間崎に生息していた
鵜がおびただしく舞い上がっていずこともなく飛び去っ
てしまい、人々は大変事の前ぶれとして不安な日々を過
ごすようになった。大淵報告は、このような状況を記し
たあと、「天変地変の事は人間の力には及ばぬゆえ、ただ
心中を苦しめおけるものなり」と住民の心情にふれ、七
年前の象潟地震は三〇日程度の群発地震が続いたあと大
地震に襲われたことから、一時は仮小屋を掛けようとい
う者も出る有様だったが、そこまでする必要はなかろう
ということになったと伝えている。
 このとき、菅江真澄は男鹿の北磯を調査中で、『牡鹿の
寒かぜ』にも、このころから地震に関する記載が見られ
るようになる。真澄は八月十七日の昼、野村で地震に会
い、暮れごろまた地震を感じたと記している。さらに十
八日にも地震を感じた真澄は、鮎川で日毎地震のない日
はなく、箱井では寺の塔が崩れ落ちたという話を聞き同
書に書き留めている。
 八月二十二日昼、今度は十六日の地震に倍する地震が
発生、夜中まで五〇回余りの揺れがあった。この日から
本震に見舞われる二十七日までは不吉な余兆の連続で、
大淵報告では二十六日の夜の事として、暮れに日の影が
二つ現われ、真の光(太陽)は海に落ちかかる一方で、
もう一つの光は赤神山山嶺にかかり、太陽が海のかなた
へ沈んだあと、赤神山山嶺の紫の光はいよいよ明るさを
増し、地震の雲気が現われたという。このほか、菅江真
澄はまた、八月二十五~二十六日にかけて山鳴りや地鳴
りがあって大津波の兆しがみえ、脇本の菅原神社参詣を
断念したことを記している。
 このようにして、文化の男鹿地震の予兆は、同年の八
月初旬から始まっていたのである。
八月二十七日の激震
 八月二十七日八ツ時(午後二時ごろ)、ついに本震が男
鹿を襲った。まず、その様子を先の安藤報告から抜き書
きしてみよう。
 よく二十七日八ツ時過ぎ一震来るや否や、立てるも
のは倒れ、起きるものは転ぶ。そのうちには家は必
止々々と潰れ、実に説くことは遅く潰るることは早く、
親は子を顧みることあたわず、子は親を救うあたわざ
るはこの時の勢いなり。
 幸いに[萱葺|かやぶき]の屋根ゆえ[梁|はり]や[鴨居|かもい]等の下にならざるも
のは悉くなし。家一軒に五人六人家の下になりしもの
皆々悉くなきの類あげて記しがたし。されば、壮夫は
屋を[穿|うが]ちなどして出るものもあり。老若婦女は外より
掘り出され、兎角して命助かりしものは不思議と云う。
 この一震、あるいは昼飯の頃または夕飯の頃なれば、
人馬死亡並びに火災も多くこれあるべく候。せめて時
刻よきゆえ人馬多く山野にまかりあり、火も稀にござ
候ゆえ火災もこれなく候。
 [扨|さ]て山野におり候ものは一時に飛び倒され、田中に
おり候ものは転げて泥にまみれ、山はめりめり鳴り渡
り、あるいは崩れ、あるいは樹木相合うさまは恐ろし
とも云わんかたなし。
 村居を見れば家はグワラグワラと将棋倒し、その潰
るる勢いに[煤埃|ばいあい]ばっと立ちあがりて煙のごとく、これ
を火事と見候も無理ならず、まことに言語に述べがた
し。
(漢字は常用漢字にあらため送り仮名を付しておいた)
 まことに、すさまじい有様であった。あまりの揺れの
激しさに、親は子を顧りみるどころではなく、子は年老
いた親を救うこともできなかった。とっさのことゆえ、
自分が逃げるだけで精一杯だったのであろう。
 この地震では、多くの家が潰れはしたものの、幸い萱
葺の屋根の家屋が多かったことと、炊飯の時刻を外れて
いたため、火災も少なく、被害はある程度は止められた
であろうが、それでも大惨事には違いなかった。
 この報告書は、多くの報告をまとめたうえでの記載で
あることから、地震時の男鹿の状況が[鳥瞰|ちょうかん]的にとらえら
れていて、概況がよくわかる資料である。
 次に、このときの人々の動きについて、ある一軒の家
の様子を記したものを紹介し、地震時の家族の動きを少
し詳しく見ておこう。こちらは、大淵報告が具体的に記
しているのでその部分を抜き書きしてみる。
 同二十七日の昼八ツ時、余独り楽老亭にて油揚げけ
んちんと云う料理しておりける時にわかに震りだした
るに、障子はずれて中庭に落ちしさま鳥の飛ぶよりも
速やかなり。これを見て大いに驚き、障子とともに中
庭に落ち下り見るに、地のわれるありさま嶽下の雪の
春日にくだくるがごとし。
 ここにいては地中に落ち入らんと思い、山のうえに
登らんとするに、のけさまに打ちかえされ、ようやく
芝にむしり付き山に登りけるが、弟子子供八、九人声々
に下りたまえと云けるゆえ、坂の一二尺もわれたるを
ようよう這いまわりて山より下りて子供らを見るに、
机板を打ち返し、その上にあがりていたる知恵、子供
にはまさりたるとのちに感じ合えり。
 それより隣りにありける田屋にかけつけ見るに、必
止と潰れけるが、下人ども二人いて怪我なきこと悦び
あえり。馬のことを尋ぬるに馬四匹彼の潰れ家にある
を、屋根を抜きようよう引き出し、それより火のこと
を尋ねしに焚きてありと、急ぎ下人を馬を出したる穴
より入れるを消すに水を乞いがたければ、下人小便に
て消えたりと申す。時によることなり。
 そのところより本宅へ行く道すがら田は関へかけ、
山は崩れ、樹木ともに崩れ落ちたるありさま、言語に
述べがたし。 ………後略
 ここには、まず人、次に馬、そして火と被災の際に先
ず確かめなければならないことを確かめ、その上で臨機
応変に的確な指示を行っていく一家の主人の動きが、生
きいきと記述されている。大淵報告の後略の部分には、
その後、村内の潰れ屋から人を救い出したり、夜には仮
小屋を建てたりしたものの余震は納まらず、徹夜で村中
を励ましまわったことなどが記されている。
 次に、この日の菅江真澄の記録を見てみよう。『牡鹿の
寒かぜ』によれば、二十五日から二十六日にかけて津波
の危険を感じた真澄は、この日も脇本入りを諦め、滝川
の目黒宅に滞在していた。幸い朝から空は晴れつつあり、
宿の主の目黒氏が滝川の源流にある三之滝に案内しよう
かなどと話していたが、午後の二時過ぎごろ、激震に襲
われた。
 「地震の大に[動|ふ]りにふりて」ではじまるこの一文によれ
ば、「軒や[庇|ひさし]が傾き、人々は逃げ惑い、泣き叫び、赤子や
病人そして老人の手を取るもままならず、乳児を逆さま
に抱えたりする有様だった。激しい揺れに、立っている
と振り倒され、軒端の山が崩れてきたりして、人々は、
命もここで終わるかと樹木にしがみついたり、竹林の中
に逃れたりした。
 ようやく[震|ふ]れが一段落すると、皆は堆肥の上に戸板等
を敷き渡して仮小屋を作ったが、震れは幾度となく続い
ていた。」ということである。
 文化七年八月二十七日は、男鹿の人々にとっては、ま
さに悪夢のような一日であったのである。
うとましき世の出現
 余震は、その後もひっきりなしに男鹿の人々を襲った。
真澄の記録をもう少し見てみよう。
 二十八日、きのうのごとに、日にいくたびという事な
二十九日、
う、ただふりにふり鳴りどよめきて、夜も
すがら、めもあわで明けたり。
なお、ふり止む事なし。人の来て語るを聞
けば、村はしの屋はことごとにつぶれふし、
あるいはかたぶき、身もそこないしなど。
いかなる事にや、世はこいじの海とやなら
ん。村々は、残りすくのうみなふしにふし
たり。(後略)
(菅江真澄『牡鹿の寒かぜ』)
(送りがなをつけ、現代かなづかいにした)
 夜中、〝ふりにふり〟に漢字をあてれば、震りに震りと
いうことになるから、余震は、翌二十八日そして二十九
日と断続的に襲い、夜も眠れない状況が続いていたこと
になる。真澄が、人々の口伝えに被災状況を知ることが
できたのは、二十九日のことである。それは、家屋の倒
壊、けが人の続出等々悲惨をきわめ、地上はすべて泥海
に化してしまうのかと思わせたほどであった。
 このとき、真澄の得た情報では、脇本と船越の被害が
大きく、ほとんどの家が倒壊したらしいと記されている。
これは、あとで、秋田藩当局で掌握した被害データと比
較してみることにして、ここでは、真澄がこの地震をど
のような思いで体感したのかを『牡鹿の寒かぜ』からう
かがってみよう。
 この地震で、真澄がまず思い浮かべたのは、鴨長明の
著した『方丈記』の世界であった。そこに記述される元
暦の大地震(一一八四)の惨状を頭に描きながら、口伝
えに知らされてきた元禄七年の能代地震、文化の象潟地
震などの様子で、地震の悲惨さを想像し「魂身にそわぬ
おもい」をしてきた真澄ではあったが、男鹿地震で大地
震を実際に体験するにおよんで、「こたび目の前に、しか
かかるありさま、人のなげきを見る見る、世のなかうと
ましきようおぼえたり」と記すほどのすごさであった。
続いて真澄は、湯本の温泉が止まり別の場所に湯が湧き
出たこと、寒風山の一部が落ちくぼになったことなどを
伝聞として記し、人々が田畑の作業に手をつけられず飢
えかけているときに、奈良某が米を施して救済にあたっ
たことなどを追記している。
被害の実態と藩の対応
 菅江真澄をして「うとましき世」の出現と言わしめた
この地震の被害を、藩への報告記録からまとめ、この惨
状への秋田藩の対応の一端を紹介して本項の締め括りと
したい。
 表5―19は、秋田県が昭和十四年の男鹿地方の震災に
ついてまとめた『昭和十四年男鹿地方震災誌』に収録さ
れている「文化庚午八月二十七日秋田郡大地震記」に記
載されている村ごとの被害状況を一覧表にして示したも
のである。
 この報告によれば、主屋の倒壊(潰家の記載)が実に
六八六軒に及び、これに破損や、土蔵・小屋の倒壊・破
損を加えると、家屋の被害だけで優に一〇〇〇件を越え
る。死者は四六人怪我人が七二人という数値をどのよう
に判断するかは難しいところながら、やはり昼時での地
震で、働き手はほとんど外にいたことから、家屋の倒壊
数に比べれば少なくて済んだということになろうか。死
者の大部分が女性であったという事実が、このような見
方の裏づけになろう。もし地震の発生時が夜であったな
らば、死者や怪我人は、とてもこの数では納まらなかっ
たはずであった。
 地震の惨状は、飛脚によって江戸在府の秋田藩主佐竹
義和に報告された。使者が秋田をたったのが九月四日、
江戸に着いたのは十二日のことであった。地震直後に直
ちに出立しなかったのは、被災状況の把握に手間取った
ためであり、テレビやラジオをはじめ電話・電報など一
切の近代的な通信手段を持たなかった当時としては、こ
れでも、かなり迅速な報告と評価できよう。
 この報告を受けた義和は、おびただしい潰家と死人・
怪我人に衝撃を受け、取り敢えず医者を三人江戸から秋
田へ下向させるとともに、九月十六日江戸から秋田へ向
う飛脚に、秋田在住の国家老たちあての直々の書状をた
くした。それによれば「なにとぞ、なにとぞ怪我は皆々
全快致し候」ようにひたすら希望し、「何分手厚に取り扱
う様に致すべく候」と命じ、男鹿地震の惨状を「承りて
より昼夜地震のこと既に心にはなれず、何にも手につき
申さず相暮し候」と嘆き悲しみ、こうした自分の気持を
よくよく役人一統へ徹底させ、「くれぐれも、随分手厚の
取り計らい専一に存じ候」と結んでいる。
 このような義和の方針にもとづき、重症者には薬用人
参が下付されることになった。この方針は具体的には、
家老から郡奉行への次のような申し渡しという形で布告
された。
申渡 郡奉行
 この度男鹿村々変事の儀、早速江戸表へ申し上げ候処
深く御苦労に思し召し、怪我人の内重き傷所、または、
老人せがれなど療事中気力届き兼ね候ものもこれ有るべ
きや、右様のものへは人参下し置かれ候間、落ちなく吟
味行き届き候様申し渡すべき由仰せ出され、[態|わざ]々ご飛脚
をもって人参指し下され候、有り難き思し召しの旨、村々
小人供まで漏れなき様早々申し渡さるべく候 以上
表5―19文化7年男鹿地震の被災状況
村名
家屋
潰家
半潰家
破損屋
寺院
潰寺
潰修験
土蔵
潰土蔵
半潰土蔵
破損土蔵
小屋
潰小屋
半潰小屋
破損小屋


死者
怪我人
小計
鮎川村
脇本村
滝川村
大倉村
百川村
町田村
谷地中村
仲間口村
浜間口村
箱井村
石神村
金川村
樽沢村
浦田村
舟越村
琴川村
比詰村
仁井山村
中石村
舟川村
飯野森村
総計
8
161
5
39
43
2
17
7
15
25
11
29
55
154
8
45
59
1
19
703
6
17
9
7
6
4
1
4
8
11
4
11
2
60
4
11
17
3
185
11
7
1
6
4
3
1
2
14
18
23
13
103
6
3
2
1
社1
社1
14
1
1
1
1
4
6
2
1
3
1
1
2
16
1
1
1
1
1
1
1
1
2
10
8
2
2
1
22
2
1
1
39
1
45
6
3
1
2
6
8
1
9
2
10
1
95
4
1
1
1
1
4
1
1
2
16
3
2
12
10
27
1
4
1
1
4
1
1
1
14
1
14
3
4
1
1
4
1
2
6
3
4
44
19
8
1
1
7
12
7
8
4
2
69
27
286
21
59
71
3
25
12
17
34
46
16
63
82
268
18
92
23
133
21
22
1,339
・「文化庚午八月二七日秋田都大地震記」(『昭和十四年男鹿地方震災誌』秋田県編)による。
 九月二十五日、家老よりこの申し渡しを受けた郡奉行
関善右衛門は、同日郡方見回り役篠田新左衛門、斉藤嘉
兵衛へこの書き付けを渡し、男鹿の村々へこの旨を申し
伝えるよう命じ、両名は、その日のうちに久保田を出立
し男鹿へ向かった。同じく薬用人参配布は神保三清が命
ぜられ、同じく二十六日久保田を立ったのである。もち
ろん、この間、農民による自助努力は継続され、ようや
く官民あげての復興が始まったのであった。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 342
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 秋田
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