[未校訂]第四節 天明・嘉永地震と安政の風水害
天明小田原地震の様相
領主から課された数々の負担に加えて、
災害は人々をさらに苦しめることになっ
た。第四章で詳述した宝永の富士山砂降りのほかに、こ
こでは天明二年(一七八二)と嘉永六年(一八五三)の
いわゆる小田原地震や安政三年(一八五六)の風水害が
地域に与えた影響について、具体的に記すことにする。
天明小田原地震は、元禄十六年の地震から八〇年目、
宝永富士山噴火から七六年目にあたる天明二年(一七八
二)七月十四日に起きた。八〇年近くたつと宝永富士山
噴火を体験し、記憶している人々はほとんどいなかった
だろう。しかし、小山町内やその周辺に残る砂や火山の
噴火物などは、その記憶を消してはいなかった。町内の
村ではないが、増田村(御殿場市)の名主庄左衛門は、
この天明小田原地震のことを「昔シ大地震より八拾年也、
宝永四亥砂降より七拾六年ニ相成申候」と元禄地震・宝
永砂降りと対比させるように書き留めている(『御殿場市
史』三)。
具体的な地震の状況は、つぎのように語られている。
天明二年七月十四日は天気が良かった。この日、夜には
いると少々の雨が降った。雨の少し降る静かな夜を迎え
ていたが、人々が深いねむりに入った頃、夜九つ時(午
前零時頃)に地震が発生した。夜明けまで六回から七回
ゆれ、翌日になってもゆれはやまなかった。夜五つ時(午
後八時頃)には再び大地震がおきた。前日の夜よりもゆ
れは激しかった。この二回の大地震から以後大きなゆれ
はなかったが、二十一日まで小規模な余震が続き、須走
村から坂下方面にかけての揺れがことのほか強かった。
七月十四日、十五日の大きな揺れの後には大きな揺れ
はこなかったが、八月四日・五日まで、昼夜を問わず、
一日に一〇回程度の揺れがあった。それから以降は一日
に一回程度になって、収束の方向に向かった。時折の地
震は翌年の正月まで続いた。約半年にわたり人々は不安
な日々を過ごしていたのであろう。
地震の震源地は相模湾西部といわれ、推定マグニチュ
ードは七・三といわれる。小田原での被害は大きく、小
田原城の天守閣・櫓・塀・石垣が大破し、宿内の竹の花
町では四六軒中二六軒が大破、一七軒が中破と報告され
ている。
各所の被害を一覧表にしたのが表11―5である。
地震の名称については、この地震を『御殿場市史』で
は「小田原地震」と称している。歴史上の地震の記述さ
れている文献をくまなく調査している東京大学地震研究
所が編んでいる『日本地震史料』では嘉永六年二月二日
の地震を「小田原地震」と称している。ここでは、両者
を区別するために、「天明小田原地震」と「嘉永小田原地
震」と称すことにする。
天明小田原地震の被害
小山町域の村々に残される天明小田原地
震の記録をもう少しくわしく村々にそく
してたどっていくことにしよう。
菅沼村の記録からは村の被害状況がわかる。家や田畑
はことごとく大破し、村中の潰れ家は一一軒に及んだ。
ほかの家は「小破」といわれる。菅沼村の復旧に必要で
あった人足は、家屋敷の復旧に人足三六人、横畠森下の
田畑に一〇人、久保田の田畑に三人、道下の田畑に五人、
下のままの田畑に三人、谷戸田の田畑に四人の人足が翌
年二月までに必要となった。ほかに道や堰の復旧のため
に人足が必要であった。家の前より川畔まで山道通し人
足が六人、道下道石かけ人足が六人、須川堰の復旧に一
二人、佐野川堰の復旧に一人、下原堰の復旧の人足提供
が一人、所領山道の復旧に二人、湯船山道の復旧に一人
表11-5 天明小田原地震による各地の震度とその主な被害
地名
被害
震度
静岡県
須走
深沢―仙石原筋
玉穂村
増田村
二子村
菅沼村
竹下
三島
相良
沼津
土に埋りし家あり(小田原大秘録)
須走から坂下筋にかけて特に強震(御殿場市史)
道大破損。人馬通れず。大石落ちる(御殿場市史)
大小破損甚し(玉穂村誌)
田、堰、道、橋、家等ゆり崩れる(御殿場市史)
堰、樋、石垣大破。山道崩れる(御殿場市史)
家の倒壊10軒(注全世帯の1割相当と推定)(湯山家文書)
家潰れ、屋根落ちる。宿内で家17軒潰れる(甲州異変―諸国
地震記)
家1軒潰れる。小田原より被害が軽かった(箱根御関所日記
抜書、古今記録帳)
土蔵数多いたむ(相良年代記、文政頃成立)
家多数ゆり潰れる。地割があちこちにあり、泥がふき出す
(天明紀聞)
5~6
5
(5)
(5)
(5)
6
5~6
4~5
(?)
5
神奈川県
小田原(城内)
小田原(城下)
箱根関所
長竹村
戸塚
藤沢
天守閣ゆがむ。矢倉破損。城米蔵の壁にひび入る。天水桶
が投げ出される。裏門瓦ふり落ちる。ねり塀大破損(小田原
大秘録)
城、矢倉大破(ききのまにまに)
城中石垣崩る(太平年表)
櫓三か所倒壊。天守閣はなはだ北東に傾く(大久保忠真侯年
譜)
盈石氏の屋敷、長屋にかけ潰家27軒、大破損、小破損800軒
余。竹花―揚土筋、弁才天、曲輪、三ノ丸あたりの道筋地
割。竹花―大工町あたり満足なる家1軒もなし。町中の蔵
7割方役立たず。番所大破損(小田原大秘録)
家の破壊1000軒(浚明院実紀)
家屋の大破42、中破19、小破5(石井家文書)
石垣1間崩れる。勝手通少し曲る(箱根御関所日記抜書)
道2か所、計15間地割れ。土手、石垣の破損数か所、田畑
損なし(本多家文書)
寺々の石塔倒れる。蔵の瓦、壁落ちる。地割れあり(戸塚郷
土史)
遊行寺にて諸道具散乱。書院等の壁落ちる(藤沢山日鑑)
}6
5
5
4~5
4~5
富士山
大山
登山者大半即死(永書―三井文庫)
8合目石室崩れ6人死、6合目怪我人1人(万覚帳)
岩々崩れ、大石落ちる。石小屋のこらず潰れる。参詣人石
に当り、又は岩から落ちて死す。生きて帰る者は稀。生き
残った者も半死半生(甲州異変―諸国地震記)
山崩れ、大石崩れ落ちる。怪我人多数(永書―三井文庫)
即死2人(矢口家丹波正日記)
5
5
必要であった。
中日向村・大御神村では、田畑をはじめ用水堰数か所
が大破に及んだが、「格別なる」大破もなかったので、届
けただけで済ませていた。原役所からの調査にも、潰れ
家・半潰れ・小破は数々あるが、見分を受けるように申
し出るほどの「大破」はないとしており、自力による復
旧を遂げている。秋の農作業の時期にかかるので、領主
へは届けだけで済ませ、見分を回避しようとしたのであ
ろう。百姓は自力で大工を頼み、修復にとりかかってい
る。また、田畑・小堰・堀留め用水堰は秋以降に修復に
取りかかり、来春の苗代を作る前に間に合わせたものと
推測される。
役人の見分は必要ないと届けても、現実には地震によ
って、田畑や小さい堰や家などが壊れたことは確かであ
表11-6 天明小田原地震による
大御神村被害一覧
潰れ家
2軒
半潰れ
4軒
小破
8軒
庫裡客殿半潰れ
万昌寺
表11-7 天明小田原地震による棚頭村被害一覧
家
潰れ
4軒
大破損
2軒
破損
2軒
道
尾尻沢上道
10間
尾尻沢
4間
尾尻沢
3間
山崩れ
尾尻沢
7間半幅6尺
尾尻沢
6間幅6尺
阿多野堺
尾尻沢
22間幅6尺
坂崩れ
阿多野堺
尾尻沢
10間幅1間半
上須川
10間幅5尺
橋土えみ1尺
上須川
3間
坂崩れ
上須川
4間
えみ3尺
尾尻坂道上
田
4間
えみ6寸幅4尺
尾尻沢道下
田2間×4間
坂崩れ
尾尻沢
田6間
尾尻沢
田15間
上須川
田8間×2間
上須川
田8間×7尺
上須川
10間×3尺
6間×3尺
9間×3尺
る。被害状況は、古沢村・下小林村・大御神村・中日向
村・上野村の名主の連名で、岩松直右衛門に宛てて原役
所へ届けられた。
大御神村の被害状況を一覧したのが表11―6である。
大なり小なり被害を受けた家が一四軒である。大御神村
の家数は、寛政三年の村明細帳によれば一五軒で、寺が
一か寺ある。ほぼ全戸にわたって地震の被害を受けたこ
とになる。
棚頭村の被害状況を一覧したものが表11―7である。
天明期の棚頭村の家数は享保六年(一七二一)で一九軒、
慶応四年(一八六八)でも二六軒であるので、せいぜい
二〇軒前後と思われる。家屋に対する被害は比較的少な
かったと言えよう。
生土村での被害は、とくに城山下往還が甚しかった。
道は大川端へかけおち、通行が不能となり、井堰・田畑・
往還道が大破した。小田原藩主は奉行を派遣して、被害
状況を見分させた。見分をした伊藤永助・佐藤久五右衛
門・高瀬郷左衛門からは「城山下道絵図」の作成が命じ
られた。
天明小田原地震の記録・情報
天明小田原地震は、江戸でも揺れを
感じたほどで、様々な人々が記録を
残している。幕府では「幕府書物方日記」に、「地震のた
めに三蔵が見分され、その結果壁痛みや所々が白くかけ
落ちていたので申し送りをした。」と記録されている。評
定所では翌年一月二十三日に、小田原藩主大久保加賀守
の名代大久保中務少輔が震災復興のための拝借金五〇〇
〇両を老中から受け取っている。
諸藩の江戸屋敷でも揺れを感じた記録がある。彦根藩
井伊家・榊原藩・津山藩・岡山藩池田家・徳山藩毛利家
図11―28 城山下道絵図
などの江戸屋敷で書きとめられている。「十四日己酉天晴
夜中強地震 十五日庚戌天晴夜中強地震」と淡々と記す
榊原藩日記もあれば、「山岳鳴吼の声海嘯に均く相州小田
原殊ニつよく箱根山往来三日留る小田原城くづれ大破す
伊豆・駿河・遠江・三河一円に地震し武蔵下総常陸上野
も同時の地震」とやや誇張表現を交えた岡山藩「御入国
以後大地震考」もある。総じてみると、大名たちにとっ
ては地震そのものより、地震のために定例の七月十五日
の「公儀ご機嫌伺い」があるかないかの方が関心事であ
ったようである。
また、遠方の地においても伝えられた情報として、名
古屋(「[猿猴庵日記|えんこうあんにっき]」)・津軽(「御日記(御国)」)・宮城県
迫町(迫町史資料集 一「年々出来事記」)にも天明小田
原地震のことが記されている。
天明三年小田原藩領となる
天明小田原地震の復興に当たっては、
領主であった小田原藩は慢性的な借財
を抱えていたために、復興費用をも借財で工面した。翌
年正月に、「城池修理費」として小田原藩では幕府より五
〇〇〇両の御用金を拝借したのである。幕府でも地震が
起こると、「大久保が来るころだ」といわれ、借財の願い
が、大久保から出されることが予想されていたようであ
る。五月には、下総国芳賀郡の一万八〇〇〇石余の領地
を相模国足柄上・下郡、駿河国駿東郡、武蔵国多摩郡・
葛飾郡、常陸国河内・真壁郡の替地として許された。小
山町域の村々では、天明三年には、湯船村・菅沼村(一
部)・上野神田・棚頭村・一色村(一部)・用沢村・上古
城村が韮山代官所支配から、上野村・中日向村・下小林
村・古沢村が島田代官所支配から小田原藩領となってい
る。新柴村・桑木村・大胡田村(一部)・下古城村(一部)
はのち小田原藩領となっている。
小山町域の村々は天明小田原地震に引き続き、翌年(天
明三年)に大洪水が発生している。六月から降り続いた
雨は、土用中には大雨となり、九月になっても降り止ま
ず、雨の降らない日は一日もなかったといわれるほどで
ある。
連日の雨による天候不順のために、農作物は生育せず、
年貢や、自給の食糧にも困る有り様であった。大雨は鮎
沢川水系に洪水を引き起こした。所領村・小山村・生土
村・中島村・藤曲村では堰が大きく壊れた。被害にあっ
た各所の復旧には人足としての負担が課せられ、自力で
普請しなければならない箇所も多くあった。農民たちは、
地震・大雨による被害により、農業生産と復旧作業の負
担という両面から困窮の度合いを深めていった。
折りしも、小山村では花戸大堰が天明小田原地震で崩
れ、仮堰を築いていた。この仮堰を築くのに人足九〇〇
人が必要であった。さらに、堰を仕上げるまでには総勢
二〇〇〇人余の人足が必要であるとも訴えられている。
農民たちは自力で、花戸堰以外の田地の堤が崩れたのを
修復したり、堰の復旧でも自力で行わなければならない
ところが多くあり、農民は「難儀至極」「困窮極まりない」
ので人足にでることを勘弁してくれるように願い上げて
いる(小山 室伏覚氏蔵)。
これに対して小田原藩からは「村々の困窮の事情はよ
くわかるものの、藩からの負担については、村々で申し
合わせて、その心得を持って取りはからうように」とい
った仰せ渡しがでている(所領 岩田幸恵氏蔵)。藩から
の負担を村々でまかなう原則は崩されていないといえよ
う。小田原藩領となった小山地域の村々は地震や大雨に
よる天災の下で、小田原藩の借金財政に発する諸負担を
背負わされていったともいえる。