[未校訂]寛延四年の地震
世に「宝暦地震」といわれ、越後、分け
ても上越地方の災害史上忘れてはならな
い大地震があった。ただ、実際に起こったのは、寛延四
年四月二十五日から数日のことで、「宝暦元年」と改元す
るのは、同年十月二十七日以降で、このころには長く続
いた余震もほぼ終息していたから、この地震を「宝暦地
震」と呼ぶのは少し問題がある。ともあれ、諸記録で災
害の概略をたどってみよう。地震が最初に起こったのは、
四月二十五日丑の刻というから、午前一時から三時、厳
密にいえば、四月二十六日の未明のことである。上尻村
(現吉川町)の庄屋長谷川伝兵衛が記した「越後大地震
記録」という史料によれば、その時刻、「妙高山の方から
米山にかけて稲妻のような大きな光がはしり、それから
地鳴りし、直後に大地が盛り上がるような衝撃がおき、
言語に述べ難い大地震となった」と記している。吉川町
に残る記録では、土尻村で全壊家屋二軒・半壊二〇軒、
小破四軒。国田村では全壊六軒、竹直村では全壊家屋四
軒、土蔵三棟、半壊家屋二〇軒、厩八棟との記録がある。
この地震の震源地は西浜の現名立町周辺で、名立小泊村
は後背の山地が崩落して全村の家を海に押し出し、壊滅
的な打撃をうけた。名立町を中心とし、頸城郡西部から
今町にかけての被害が激甚であったことから、この地震
を「名立くずれ」とも呼ぶ。三和村の被害はどんなだっ
たか、いまのところ具体的な状況は分かっていないが、
容易ならない事態に遭遇していたことは間違いない。岡
田の松縄教一家文書に次のように記された史料が残され
ている。
恐れながら書き付けを以って願い奉り候
先月二十五日の夜、前代語り伝えにもこれ無き大
地震にて、その節御注進申し上げ候通り、村々一面
に家が潰れ、田畑地面所々割れ、用水溜・堤・江筋
ゆり(れ)崩れ、苗代ゆり(れ)返し、人馬怪我・
即死、そのほか、書面に書き尽くし難き難儀とも御
座候、全体、当国の儀は、雪中無業に暮らし候故、
[作食|さくじき](農繁期の食べ物)は雪中に食べ越し、[例年夏|れいねんなつ]
[夫食|ぶじき](食べ物)等は田植え前後のころに、高田・今
町質屋、其の外富裕者共より借り出し、作物仕付け
をしていたところ、去る冬は二十年以来の大雪にて、
三月下旬ごろまで雪中にまかり有り候故、特別に作
食を食いつないで来たので、夏夫食不足仕り候とこ
ろ、家潰れ、居所これなく、一時の仮小屋掛け、諸
道具等外に積み置き候につき、盗賊大分からまり、
以ての外用心悪しく、その上、今もって地震止み申
さず候、かれこれ相騒ぎまかり有り、悉くみな疲れ
果て、農業稼ぎなど一切仕らず、少しずつこれ有り
候作食無益に食べ切り申し候、この上潰れ家しまつ
並びに作物こなし屋(脱穀調整の作業小屋)などい
か様にも造り申さず候てはなり申さず候ところ、こ
の度大変にて諸差引(金融や差引勘定)必至と相止
み、すでに高田御城下町内の貸し借りさえこれなく、
殿様より御助け米御出し遊ばされ候程の義ゆえ、在
方へは決して借(貸し)出し仕らず、行き当たり、
何分しかたござなく候、たとえ、夫食所持仕り候て
も、耕作の右の仕末取り受け、殊に、作の当てに仕
り候人馬相果て、あるいは怪我仕り、用立ち申さず
もこれあり、前後行き届き申すまじくと覚束なく存
じ候ところ、すなわち、右の通り夫食才覚仕らず候
て、村々一同とほうを失い申し候、この度大変難儀
の筋は筆紙に尽くし難く、いずれも正気を失いまか
りあり候ことに御座候、これにより、恐れながら格
別のお救いなし下されず候ては、幾重に考弁仕り候
ても、耕作・養育仕り難く、迷惑に存じ奉り候、家
財に離れ、あるいは親兄弟の内死人、作馬落し、乱
気同前(然)にまかり有り申し候、大小百姓この上
お救いこれ無く候ては、お仕置き筋も取り乱し、村
役人共手際に及び申すまじくと迷惑仕り候、お慈悲
に早速お助けの儀おおせ付けられ、お救いくだされ
候はば、耕作養育仕り、縄からげにも造り家など作
り、御百姓相続仕るべくと有り難く存じ奉るべく候、
以上
寛延四年末五月 頸城郡村々庄屋組頭連判
このような救援要請に対して、幕府領の土尻村の例で
は「つぶれ家」一軒につき「丁銭四百文」の救援を受け
ている。高田藩領の竹直村ではこの年の十一月に、藩よ
り金四両二分と銀一七匁の拝借をうけ、一〇年賦で返済
している。三和村内の幕府領・高田藩領の各村も同様な
救援を受けたはずである。高田藩が十一月に救援の貸付
金を手当てしたのは、藩が幕府から金一万両を拝借して
領民救済に当てたからである。この地震による総合的な
被害状況は不明だが、『新潟県史』や『中頸城郡誌』など
諸書から推計すると、死者は一六七一人にのぼる。