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項目 内容
ID J3200190
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔伊豆~九州〕
書名 〔史料で見る地震と津波〕板井清一著「臼杵史談74」S58・12・1 臼杵史談会発行久保田信雄編
本文
[未校訂]宝永地震
 又、稲葉家譜は宝永四年の地震を次のように記してあ
る。宝永四年十月四日、[未上刻|ひつじのじょうこく](十三時~十四時)諸
国大地震、この時、臼杵城大手門脇隅櫓が倒れ、その他、
所々石垣が崩れ落ち、人家多く破壊する。[申上刻|さるのじょうこく](十五
時~十六時)[蒼海|そうかい]大鳴、大潮が[俄|にわ]かに来り、平地の水の
深さは丈余(三メートル余り)俗に之を津波というとあ
る。即ち津波は地震発生後、二時間してやって来たので
ある。
 家は倒れ塀や壁等は顚倒した。湾に面した住民は、海
岸線に迫った山からの崩れで圧死をおそれ、船で乗り出
した。そこへ津波が襲来、船はたちまち砕け、溺死者は
十四人に達した。この内、丈夫な者は泳ぎ、船につかま
り助かった。ただ溺死したものは婦人だけだったという。
 世上では、津波の時は船で沖合に逃げたら良いと教わ
っていたが、これも津波予報の時であって津波時は危険
この上ない。日本海中部地震を見ても如何に危険かとい
うことがわかる。臼杵では津波の再来襲を恐れて山上に
仮の小屋を建て、その間、町中は無人と化した。老臣た
ちは相議の上、遠見番を城中の中門櫓、三丸の洲崎と原
山の漏刻(時刻を知らせる所)の三ケ所に設け、若し津
波が来れば太鼓を撃って遠近に告げる手段を講じたので
人々はやっと家に帰って来た。時に同月の十日[也|なり]と。地
震があり津波が来襲して人々が山上へ逃げてより六日間
の避難だった。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 129
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 大分
市区町村 臼杵【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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