[未校訂] 中川氏の入封とともに始められた岡城築城普請に要し
た資金・労力の詳細については明らかではないが、以下、
宝永二年(一七〇五)の大地震によって、城中破損か所
の普請が行なわれた折の土木事業の様子について見よ
う。同年の地震による被害は、城中石垣だけでも、五三
か所に及んだといわれる。
藩は同年九月末、奉行下(大)カ石勘右衛門ら八人を本丸石垣
普請、佐野平九郎以下を西丸石垣普請の責任者に任じ工
事を始め、それぞれ同年十二月、翌年四月に工事を完成
した。ついで、宝永三年正月から、大手御門石垣、近戸
御門石垣の修築を、普請奉行熊田仁右衛門指揮のもとに
開始し、四月に成就した。
宝永二年秋以降、これらの修築工事に要した人夫等は、
延べ五万三、七〇〇人余に及び、その内容は、動員足軽
三、二〇〇人余、長柄の者二万人、加勢百姓一万一、三
〇〇人余などとなり、入銀は、鍛治方一八貫三〇〇匁余、
御門鉄物代七貫二〇〇匁余の計二五貫余、大工粮米並加
扶持米等一三一石余を支出している。
以上は、地震被害の修築工事に伴なう支出の概数であ
り、新規の築城事業には、さらに莫大な経費を要したこ
とはいうまでもない。因みに、別章でも述べられる如く、
宝永三年には、碧雲捲寺の再建事業が行なわれた。さら
には、翌宝永四年十月には、再び大地震によって城石垣
など二百余か所に被害をこうむった。