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項目 内容
ID J3200140
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1705/05/24
和暦 宝永二年閏四月二日
綱文 宝永二年閏四月二日(一七〇五・五・二四)〔阿蘇〕
書名 〔竹田市史中巻〕賀川光夫監修S59・5・30 竹田市史刊行会発行
本文
[未校訂] 中川氏の入封とともに始められた岡城築城普請に要し
た資金・労力の詳細については明らかではないが、以下、
宝永二年(一七〇五)の大地震によって、城中破損か所
の普請が行なわれた折の土木事業の様子について見よ
う。同年の地震による被害は、城中石垣だけでも、五三
か所に及んだといわれる。
 藩は同年九月末、奉行下(大)カ石勘右衛門ら八人を本丸石垣
普請、佐野平九郎以下を西丸石垣普請の責任者に任じ工
事を始め、それぞれ同年十二月、翌年四月に工事を完成
した。ついで、宝永三年正月から、大手御門石垣、近戸
御門石垣の修築を、普請奉行熊田仁右衛門指揮のもとに
開始し、四月に成就した。
 宝永二年秋以降、これらの修築工事に要した人夫等は、
延べ五万三、七〇〇人余に及び、その内容は、動員足軽
三、二〇〇人余、長柄の者二万人、加勢百姓一万一、三
〇〇人余などとなり、入銀は、鍛治方一八貫三〇〇匁余、
御門鉄物代七貫二〇〇匁余の計二五貫余、大工粮米並加
扶持米等一三一石余を支出している。
 以上は、地震被害の修築工事に伴なう支出の概数であ
り、新規の築城事業には、さらに莫大な経費を要したこ
とはいうまでもない。因みに、別章でも述べられる如く、
宝永三年には、碧雲捲寺の再建事業が行なわれた。さら
には、翌宝永四年十月には、再び大地震によって城石垣
など二百余か所に被害をこうむった。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 107
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 大分
市区町村 竹田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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