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項目 内容
ID J3200107
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔小山町史 第七巻 近世通史編〕小山町史編さん専門委員会編H10・3・31 小山町発行
本文
[未校訂]7 元禄大地震・宝永の砂降りと阿多野新田
元禄大地震と阿多野用水
元禄十六年(一七〇三)十一月二十三
日未明南関東一帯を大地震が襲った。
この大地震と、続く宝永四年(一七〇七)十一月に起っ
た富士山大噴火は、新田村落として成立し三〇年余を経
過していた阿多野新田に甚大な被害を与えることとなっ
た(元禄大地震と宝永の砂降りについては第四章参照)。
 まず、この大地震では阿多野用水の「水路ノ上流凡千
三百間余」が崩落してしまい、水田に水がかからなくな
ってしまった。年貢割付状から推測すると、この時期ま
で阿多野新田の水田一五町一反一四歩のうち六町五反歩
が「年々検見引」となっており、実際に耕作が行なわれ
ていたのは残りの八町六反一四歩であったと考えられ
る。
図2-15 阿多野新田の村絵図(安永7年)
中央にみえる天神社の南側の部分はまだ大半が
砂地であったことがわかる。
 用水の機能停止という非常事態に立ちいった阿多野新
田では、長右衛門の跡を継いだ善七郎らが、「遂ニ地中ヲ
疎通スルヲ」決意した。「棚頭村ノ中、地底ヲ南北ニ貫穿
スル事、高六尺幅五尺長サ六百三十一間ニ及」ぶ大工事
を計画したのである(『阿多野新田開拓沿革史』)。工事は
宝永二年(一七〇五)より開始されることとなったが、
工事費用の支出に際し善七郎は、菅沼村の三郎兵衛、仁
右衛門両人の援助をうけることになった。この両人は、
それぞれ前項で述べた菅沼村の喜兵衛、伊左衛門兄弟の
息子であり、善七郎家から田畑六町九反歩余りを買取っ
ていた。また、元禄十四年(一七〇一)には善七郎家と
仁右衛門家の間で「縁組」が成立し、両家は姻戚関係で
結ばれていた(『町史』第二巻138番)。
 三郎兵衛、仁右衛門両家にとっても、用水路の復旧は
死活問題であり、宝永二年四月、両家と善七郎家の間で
証文が取り交された。そこでは、「諸事入用金」は相互に
田地反別の割合をもって金子を出すこと、「穴掘人足諸色
入目」は、双方立合の上帳面に認め判をおすこと、地震
前の水掛り田八町六反一四歩の他に「余分之水出来申」
したときは、それぞれの出費金額に応じて配分すること
などが取り決められた。
 宝永二年からはじまった工事は、「昼夜ヲ限ラズ掘貫」
などして三か年続けられ、宝永四年十月に完了した。こ
の間、穴掘人足賃、鍛冶屋払、大工作料、石引人足賃、
人足払、板竹代、所々破損修復入用材木代等々工事費用
の総額は金二五九二両余にのぼった(『町史』第二巻148
番)。実に莫大な支出で会ったことがわかる。
 水がかからなくなってしまった阿多野新田の水田に、
藩は宝永元年より畑年貢をかけている。「掘貫損じ、用水
懸らず、畑作仕付」となってしまったからである。率は
反あたり二五文取で通常の畑年貢の半分の割であった。
これは、宝永四年まで続けられた。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 90
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村

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