[未校訂]元禄七年の地震
一六九四年六月一九日(元禄七年五
月二十七日)午前七時ころ、能代地
方一帯に弱震があり、引き続き激震に見舞われた。理科
年表によれば「震央は北緯四〇・二度、東経一四〇・一
度、M七・〇、四二ヶ村に被害、特に能代は壊滅的打撃
を受けた。全体で死者三九四人、家屋崩れ一二七三、焼
失八五九など。秋田・弘前でも被害。岩木山で岩石崩れ
硫黄平に火を発した」となる。
この地震について今村明恒は震災予防調査会の報告書
で詳しく取り上げているが、同時に引用された『津軽藩
日記』(秋田侯よりの注進写)は、より詳細で多少異なる
被害の記述となっている。また、津軽藩肝煎、平山家の
日記には、この地震に先立って五月一七日大地震とあり、
二十八日・二十九日まで大小二〇度程の余震の記録とと
もに、本震における噴砂・地割れの記録や岩木山硫黄平
の火の記事と、それに対する対応なども記されている。
被害地域における記録は、被害が大きい程残りにくい面
もあるのはやむを得ないとして、かえって周辺地域から
見たこの地震とその前後の様子は興味深いものがある。
平山日記による記録、そして『盛岡藩雑書』の記録も合
表環―1 元禄地震の被害状況
今村(1921)
津軽藩日記
(秋田侯ヨリ注進写)
平山日記
(津軽藩肝煎り)
(総戸数)崩れ 焼 半潰 死
被害戸数 崩 焼 破損 死
崩 焼失半潰 死
野代村
1405 800 600 300
1122 350 719 53 300
300 730 314
飛根村
101 86 15 6
106 15
66 15 15
鶴形村
114 67 47 8
78 8 70 6
47 17 6
檜山村
200 42
42
42 160
志戸橋村
43
人馬田畑等多損失致候由
金光寺村
181 50 77 47 23
人馬田畑等多損失致候由
森岡村
30 6 6
104 54 47 21
常盤村
103 30 73 2
人馬田畑等多損失到候由
他近在
42ヵ村
1101 684 23 394 52
土蔵30 15 15
怪我98
計、他
鹿渡村ヨリ南ハ痛ミ少ナ
シ。小繁ヨリ森岡ノ道路左
右ノ山皆崩レ申シ候。
2579 1273 859 447 394
土蔵195 44 36 15
怪我198
五月十七日大地震、
五月二十七日大地震
辰ノ時日暮マデ地ノ
底暖キ所割砂上ガリ
盛岡藩雑書
野代村
五月二十七日之朝五ツ時野代大地震ニテ 大町上下 壱町不残 後町 同不
残 清介町 同断新町 同断柳町 半分焼失 カチ町 同断 荒町上下
不残 七郎右衛門町 半分焼失 馬口労町 同断 右ノ通 家数都合九百軒程
野代中打ツフレ残リ二ツ三ツ御座候 右外 端町・留町半分ツフレ半分残リ申
候 野代惣町死人六百人程可有御座様ニ申候 山王御宮社内少々損不申候 屋
形様御休所奉行衆被成御座、御屋鋪残リ申候 扇子田河通山々川端皆々損申候
田畑スタリ申候 床岩村損焼失申候 死人二十人余御座候
飛根村
不残相破申候 死人二十人余 但焼失ニハ無御座 地震ニテ不残破申候
鶴形村
焼失家上下ニテ少宛残申候 死人七人
檜山村
少々破申候 大腰弥左衛門ト申侍衆親子共相果申候
森岡村
焼失 死人六・七人
わせて表環―1にまとめておく。
さて、表環―1から村ごとの全壊、焼失家屋の割合を
求めてみよう。まず今村の総数は、崩、焼失、半崩れの
合計に必ずしも一致しないことから、当時の全戸数と仮
定する。今村の引用した原文は、たとえば「飛根村百一
軒、内八十六軒潰、十五軒半潰、死人六……、檜山村二
百軒、内四十二軒半潰……」のようになっている。一方、
『津軽藩日記』の総数は、森岡村をのぞいて崩・焼失・
半崩の合計に一致することから被害総数と考えられる。
原文では、たとえば野代では「家数千百二十二軒、震崩
焼失破損共」とあり、続いて「内三百五十軒震崩・三十
三軒足軽家・十二軒寺院・三百五軒町家・七百十九軒町
家焼失・五十三軒同破損」と記されている。以下、全壊
焼失率をZ、被害総数(半壊を含む)に対する(全壊+
焼失)率をK、死者数を被害総数で割った値をDとする。
野代村:Z=(三五〇+七一九)/一四〇五で七六%
K=(三五〇+七一九)/一一二二で九五% D=三〇
〇/一一二二で〇・二七人/軒
飛根村:Z=八六/一〇一で八五% K=八六/八六+
一五で八五% D=一五/一〇一で〇・一五人/軒
鶴形村:Z=六七/一一四で五九% K=(七〇+八)/
一一四で六八% D=八/一一四で〇・〇七人/軒
檜山村:Z=四二/二〇〇で二一% K不明 D=二/
四二で○・〇五人/軒
志戸橋村:Z、K、Dとも不明
金光寺村:Z=(五〇+七七)/一八一で七〇% K=
(五〇+七七)/(五〇+七七+四七)で七三% D=二
三/一七四で〇・一三人/軒
森岡村:Z=六/三〇で二〇% D=(五四+四七)/一
〇四で九七% D=二一/一〇四で〇・二〇人/軒
常盤村:Z=三〇/一〇三で二九% K=三〇/一〇三
で二九% D=二/一〇三=〇・〇二人/軒
図環―3 地震被害の相関関係
近在四二ヶ村:Z不明 K=(六八四+二三)/一一〇一
で六四% D=五二/一一〇一で〇・〇五人/軒
全体:Z不明 K=(一二七三十八五九)/二五七九で八
三% D=三九四/二五七九で○・一五人/軒
以上のうち、野代村のZ値は『盛岡藩雑書』の各町の
状況からみて、全焼潰れ五町、半分焼・半分残りが四町、
半分潰れ半分残りが六町であることから、Z=一八/二
四で七五%と推定できほぼ一致する。一方、森岡村のZ=
二〇%は不自然である。これは横軸にK、縦軸にDをと
った図環―3において一層はっきりしている。ZとKは
ほぼ相関することが知られているから、K=九七%から
推定してZ=九五%程度であろう。
以上のようにして求めた全壊焼失率Zの分布は図環―
4のようになる。この地震の震央は、理科年表では四〇・
二度N、一四〇・一度Eであるが、宇佐美の推定では四
〇・二度N、一四〇・二度Eと若干異なっている。理科
年表では[金拓|きんたく](能代市鵜鳥川原)付近となり、宇佐美の
推定では[切石|きりいし](二ツ井町)の西一㌖付近になってしま
う。いずれにせよ、東は切石付近までの東西約二〇㌖、
南は鹿渡付近から北北東へ約四〇㌖程の地域が震源域
であったと考えられる。
この震源域の中で、飛根・金光寺・森岡(森岳)等全
壊焼失率の著しい村がある反面、檜山・常盤などそれほ
どでもない所があるのはなぜだろうか。一方において野
代は七〇%を超えている。これについて、大沢他(一九
八五)は能代[衝上|しょうじょう]断層群が活動した可能性を指摘して
いる。能代衝上断層群は、日本海の海岸沿いに向能代か
ら能代市の地下、そして八竜町大曲付近を通り八郎潟干
拓地・秋田市西方を通って、由利郡の海岸に沿って北上
する北由利衝上断層帯に連なる断層帯である。地質の項
でもふれたように、東に傾斜した断層面を境にして、東
側の岩盤が西方にのし上がる逆断層帯である。地形的に
は、向能代から浅内・大曲(八竜町)にかけての段丘崖
を連ねた線にほぼ平行して西側を走り、この付近では段
丘を構成する潟西層も西に傾斜して[撓曲崖|とうきょくがい]を形成して
いる。この能代衝上断層群は東にほぼ四五度で傾斜して
いるから、米代川河口から東に水平一五㌖の距離に宇
佐美の推定した震央が位置することになる。したがって
震央の直下約一五㌖で断層破壊が生じたと考えること
ができよう。理科年表によると金拓付近と考えてもよい
が、震源は一〇㌖程度と浅くなる。また、近接する檜山・
常盤の全壊率が比較的低く、鶴形もそれほどでない不自
然さが残る。一方、この地震の直後米代川の下流域で河
床が浅くなり、一〇日程も向能代に歩いて渡れたことや、
八竜町の八郎潟北岸一帯が隆起したことなどが知られて
いる。八郎潟北岸ではこの隆起により湖底が陸域となり
図環―4 元禄地震の震央およびその周辺地域の地殻変動と被害状況
地名は地震当時のもの。括弧内の数字は、今村(1921)より求めた家屋の全壊・焼失率。大沢ほか(1985)に加筆。着色
範囲は今村(1921)による激震区域。括弧以外の数字は本文による全壊焼失率
図環―5 日本海中部地震時の試錐地点と微地形
数字は5千分の1地形図から読んだ標高。等高線は2.5-5.0-7.5-10.0-12.5m。太字と黒丸は試錐
地点。試錐資料は、別冊付録2の付図3「能代市試錐地点柱状図」にまとめてある。
富岡新田等の「新田」が成立することにもなった。大
沢他(一九八五)はこれらの現象に注目して、能代衝
上断層群の東側が隆起した地殻変動を推定している。
図環―5は一/五〇〇〇都市計画図をもとに微高地の
標高を読み取り、一五㍍以下を二・五㍍間隔の等高線
で表現したものである。この図からわかるように、米
代川の南岸地域で能代市街地を乗せる中位沖積面は東
部で九~一〇㍍、西部では六・三~八㍍と低下してい
る。また、五㍍等高線はほぼ北北東にのびて延長部は
向能代に見られ、中位沖積面の末端を区切っている。
このような中位沖積面の高さの変化は、能代衝上断層
群による東側隆起の現れと考えられる。これをかつて
の米代川の流路にともなう堆積面の高さの違いとみる
ことも可能であるが、この地域の東西方向のボーリン
グデータを検討すると、地表面の違いにほぼ対応して
地下の追跡可能な砂礫層が東側で高度を上げているの
がわかる(図環―6)。
以上のように、野代で著しく被害が大きかった点は、
地震断層が市街地を走って動いたことから理解できる
ことである。しかしながら、森岡・金光寺・飛根と被
害が大きいことと、檜山・常盤の少ないことは、能代
衝上断層群だけでは説明できない。これについては、
鶴形・檜山は背斜構造の軸部に近く、岩盤が[女川|おんながわ]層の
図環―6 試錐試料による推定地下断面
詳しくは別冊付録2の付図3「能代市試錐地点柱状図」を参照のこと。
[硬質頁岩|こうしつけつがん]などでしっかりしていること、軟弱な粘土層の
発達が悪いことなどが、被害を少なくする上での要因で
あったと推定される。一方、森岡・金光寺は段丘面上に
位置するものの、地質構造上、檜山背斜西翼の森岳断層
が伏在する地域に相当している。同様に飛根は、富根背
斜西翼を区切る富根断層が伏在する地域である。森岳断
層・富根断層ともに、活動度は能代衝上断層群より低い
とされているが、活断層である。また、檜山・富根の両
背斜構造も[七座背斜|ななくらはいしゃ]とともに活褶曲であり、水準測量に
よって一九〇二年から一九三八年の三六年間に〇~二
センチメートルの隆起、中沢[向斜|こうしゃ]、[天内|あまない]向斜ではマイナス三~マイ
ナス四センチメートルの沈下が観測されている。このような運動の
蓄積が大地震の際にどのように現れるのかが問題とな
る。森岳、富根の両断層ともこの地震に際して動いた証
拠は未確認だが、活断層が伏在する場合には、そうでな
い場合より震度が高くなったり、異常振動帯になること
が知られている。この地震において、森岳断層・富根断
層沿いの地域は震央域であるという条件のもと、特に震
度が大きかったものであろう。一九九五年の阪神淡路大
震災においても野島断層の延長上に顕著な被害集中域が
生じている。