[未校訂]第四節 慶長大地震と喜多方地方
一 各書に見る慶長大地震(注、省略)
二 喜多方地方の被害
熊野神社の被害
喜多方地方について『新編会津風土記』
から被害の状況をみてみると、断層上に
位置する慶徳町新宮の熊野神社の拝殿(長床)は傾いて
倒れるばかりであったので急いで修理したという。この
修理は解体再建で柱間一〇尺から身舎は九尺、廂は八尺
二寸に縮め、柱上の組物を廃したもので、三年後の慶長
十九年に完成している。この拝殿は径一尺五寸の欅の柱
が四四本並立する九間×四間の大きな寝殿造りで、鎌倉
期の建立と伝えられる遺構で、昭和三十八年国の重要文
化財に指定され、同四十六年から四十九年までの三年を
かけて、旧柱間に直し組物を加えて復原竣工している。
三六〇年ぶりに旧の構造に復したことになる。柱間に壁
のない吹き抜けになっているので、強度的に脆かったの
かもしれない。
松野村(喜多方市慶徳町)にあった千光寺も同じく断
層上にある古刹であったが、「慶長十六年八月の地震に尽
く傾倒しければ、村南に地に小堂を構えて観音地蔵を安
置して、此の寺終に絶えたり」(『新編会津風土記』第三巻 二三八頁)と地震に
よる被害の大きかったことを伝えている。
湖沼の生成
太平沼(耶麻郡熱塩加納村)は、「慶長十
六年の地震に山崩れ、下流塞ぎ沼となる」
(『新編会津風土記』第三巻 九九頁)とある。下流塞ぎという川は濁川で、こ
の川は山形県境の藤内鳥屋山を水源とし、熱塩加納村を
南流して喜多方市街地の西方で押切川を合わせ、慶徳町
山崎東で阿賀川に合流する。約二八キロメートルの中河
川である。阿賀川との合流地点から上流約一九キロメー
トル、大平集落近くの渓谷が、円ノ花山(八〇八メート
ル)の崩落で御川が塞ぎ止められ沼を形成した。その後
寛政年中土手を築き堰を設けて養水溜め池として、下流
農地の灌漑に利用されている。また明治四十年加納鉱山
株式会社が大平発電所を建設して発電に利用している。
五分一村(喜多方市上三宮町)では、この時の山崩れ
によつて沼が出来たとしているが、『新編会津風土記』に
はその記載がない。ただしその書き上げ下書き(熱塩加納村上野三
浦大輔藏)と思われるものには
沼 三ツ 元禄年中山抜け崩れ沼と成る
一、蛇喰沼 南北二十五間東西七間、居村より酉ノ
方三丁、山ノ上に有り
一、吉ケ沢沼 東西七間南北三十間、居村より酉ノ
方四丁、山ノ上に有り
一、寺山沼 東西二十五間南北十間、居村より戌ノ
方三丁、山ノ上に有り
と記述がある。
『家世実紀』と『耶麻郡誌』に元禄十年三月十日に地震
があって、黄檗村と西海枝村の間の阿賀川の対岸の喰塩
村(三村ともに高郷村)の山が崩れ落ちて川を塞ぎ、越
後街道をも水に浸し、一大湖沼のような観を呈したとあ
る。しかし五分一村の山崩れの記述はない。五分一村の
沼の生成は、元禄年中でなく「会津旧事雑考」その他で
いう慶長十六年でなかろうか。
村の伝承によると、小さな水溜まりのようなものが四
〇近くもあったといわれる。上記の三つの沼は現存し、
吉ケ沢沼は昭和九年五分一堤として灌漑溜め池に改修、
同四十二年八月羽越水害の後再び改修工事を行ってい
る。寺山沼はその形からふくべ沼と称している。
山崎新湖の生成と開削
山崎新湖の成因について、前記記録の多
くは「山崩れ川塞ぎ」としている中で、
「新宮雑葉記」(会津資料叢書下巻 五四一頁)は「大川ユリ上テ流水湛四
方七里ニ横流シテ」、『会津藩家世実紀』(第一巻一九三頁)は「日
橋川の底涌き揚り其の上青津組南宇内村の山崩れ候て」
図8 山崎新湖の推定範囲
と、川底の隆起と山崩れの二つの原因による川塞ぎとし
ている。その新湖の浸水村数について、「慶長記」では「川
北ニテ五ケ村、河南ニテ七ケ村」としているのに対して、
『新編会津風土記』(第三巻二五九頁)は「本郡(耶麻郡)七箇村、
河沼郡十六箇村の地を浸し、東西三十五町余南北二十町
余氾濫して」と、その記述に大きな差がある。山崎南の
河岸一七五メートルの等高線を湖面と考えると、図8の
ように大きさを推定できるのではなかろうか。
この山崎新湖は、時の領主蒲生氏が、岡半兵衛と町野
左近の両人を奉行として、一日六千人を動員して土砂除
け水抜き普請を行なったが、成功せず縦三五町余、横二
〇町余の間に水が湛え、耶麻郡七カ村、河沼郡一六カ村
の田畑が水没するに至ったという。(『会津藩家世実紀』第一巻 一九三頁)
加藤氏襲封の翌年、寛永五年(一六二八)岩瀬権太夫
を奉行として再び普請を行なって、川幅を約半分ほどに
縮小することに成功した。しかし同八年九月十九日(福
島県災害誌は十月十四日)会津地方洪水でまた再び上流
からの土石流によって塞がれてしまったという。それで
も寛永の末頃までには徐々に水も落ち、大体荒田の状態
までになったという。
保科正之の襲封翌々年の正保二年(一六四五)閏五月
末、保科民部父子、鉄砲衆二〇〇人召連れて掘割り工事
に着手、湖水から五六里近郷の農民も毎日二五〇人ほど
ずつ加勢申付け、六月二十日完工して、本田生帰りは勿
論新田開発まで出来るようになったという(前掲書第一巻一九三・
一九四頁)。地震以来三十四年振りの復旧であった。