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項目 内容
ID J3200001
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
0818/99/99
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
0818/99/99
和暦 弘仁九年七月
綱文 弘仁九年七月(八一八)〔相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野〕
書名 〔弘仁九年に発生した地震とその痕跡〕小林 修著「古代学研究」No.183 (2009)pp.62-65
本文
[未校訂]1 はじめに
 平安時代前期の勅撰史書である『類聚国史』(八九二年
成立)の弘仁九(八一八)年七月と八月の条に、関東地
方で大地震が発生した記録が残されている。
 群馬県では、上毛三山の一つである赤城山の南麓面(現
在の前橋市~桐生市・みどり市)、そして榛名山の東麓面
(現在の渋川市)等の発掘調査によって、地震痕跡であ
る地割れが多く見つかっている。発掘調査では、一つの
遺跡内から複数の地割れが認められる場合が多く、遺跡
ごとに割れ目の方向も一様ではないことが解る。地割れ
は、縄文時代から古墳時代にかけての住居跡等の遺構を
断ち割って走り、地割れの上に構築された平安時代以降
の住居跡や掘立柱建物等の建物遺構との関係から、八世
紀初葉から九世紀後葉にかけて発生したことが理解でき
る。
 また、赤城山の南麓面では、山崩れによる堆積物が旧
地表面の上に堆積する地層が多く発見されており(図
1)、地質調査の結果、山崩れによる堆積物の下位層に榛
名山の噴火活動に伴う五世紀末葉の榛名渋川火山灰(Hr
-FA)や六世紀前葉の榛名伊香保軽石(Hr-FP)、そして
上位層に天仁元(一一〇八)年の浅間山の噴火活動に伴
う浅間B軽石(As-B)の堆積が確認されている。このこ
とから、山崩れは、五世紀末葉から一〇世紀の間に発生
したことが理解でき、発掘調査によって多く確認されて
いる地割れと同時期に発生した可能性が高いものと推定
されている。
 群馬県の赤城山南麓面を中心に確認されている地割れ
と山崩れは、文献に見られる弘仁九(八一八)年の大地
震によって発生した痕跡として考えられている。
2 『類聚国史』弘仁九(八一八)年大地震の記録
 平安時代前期に菅原道真が編した『類聚国史』弘仁九
年七月の条に、「九年七月相模武蔵下総常陸上野下野等国
地表山崩谷埋数里圧死百姓不可勝計」との記述がある。
 弘仁九(八一八)年に関東地方全域を対象とした地震
が発生し、広範囲に渡って山が崩れて谷が埋まり、多数
の人々が被害にあったことが理解できる。
 同年八月の条には、上野国(群馬県)等の地域が地震
による被害が多大で、河川の決壊等による水害も加わっ
て、人々や物等に大きな被害が出たこと、そして災害に
よって住居と仕事を失った者には、国司と相談して、今
年の祖と調を免ずること。公民と服属しない者との区別
なく一律に正税を用いて賑恤を加えて、住居を修繕し、
食事を施し、土砂で埋まった人々を早急に手厚く葬ると
いった事柄が記述されている。
 大地震によって、群馬県を中心とした地域における被
害が多大であったことが理解でき、時期的にも発掘調査
等によって確認できる地割れや山崩れは、この大地震に
よって起こったことがほぼ確実視されている。
3 地割れによる地震痕跡
 赤城山南麓面の桐生市新里町に所在する砂田遺跡と蕨
沢遺跡は、純堆積するHr-FPの上位層にて泥流堆積物に
図1 赤城山南麓面における地割れと山崩れの分布
(内田・能登ほか1991)
よって被覆された水田跡が調査されている。水田跡を被
覆した泥流体積物の上位層では、黒褐色土を挟んでAs-B
の純堆積が確認されている。砂田遺跡では、泥流堆積物
の直下から九世紀初葉の土器群(図2)が見つかってお
り、泥流と土器群との間には、時間的な差がないことが
考えられている。また、蕨沢遺跡の地割れ断面の観察か
らは、大地震によって地割れが起き、地下では液状化現
象による噴砂が発生したことが理解でき、山が崩れて谷
を埋め、谷をせき止めた土砂が決壊して泥流となって地
割れの中まで浸透した状況を見ることができる(図3)。
 更に桐生市新里町では、地割れによって断ち割られた
縄文時代の陥し穴(大日遺跡)や、古墳時代から奈良時
代にかけて、地割れによって床面が陥没した住居跡(蛭
川遺跡B区33号住居跡・小沢遺跡15号住居跡)、地割れに
よって断ち割られた住居跡(日横遺跡49号住居跡)とい
った多くの建物等の遺構を陥没させたり、断ち割ったり
といった遺構に関係した地割れが多く確認されている。
前橋市甲諏訪遺跡や市之関前田遺跡、今井白山遺跡、み
どり市神社裏遺跡等でも同様の事例が確認されており、
赤城山南麓面にて地割れの被害がことのほか多かったこ
とが理解できる。
 一方、赤城山南麓面から遠く離れた、利根川を隔てた
榛名山東麓の渋川市半田中原・南原遺跡でも、地割れに
よって断ち割られた住居跡や掘立柱建物等の遺構が多く
確認されている。遺跡
内で最も大きな地割れ
は、幅六㍍で、落差二
㍍も陥没していると
ころもある。地割れに
よって断ち割られた住
居跡や掘立柱建物等の
建物遺構はいずれも八
世紀末葉の時期のもの
で、九世紀後葉には地
割れの上に住居跡等の
図2 砂田遺跡の泥流体積物直下から出
土した土器(内田・能登ほか1991)
図3 蕨沢遺跡の地割れと流入した泥流
(内田・能登ほか1991)
遺構が構築されている状況が確認されている(写真2)。
4 山崩れによる地震痕跡
 山崩れによる堆積物は、旧地表上に、山崩れによる体
積物が堆積する逆転地層で、赤城山南麓面において広く
確認されている(写真3)。その分布は地割れ痕跡同様に、
現在の桐生市新里町を中心に前橋からみどり市にかけて
の範囲で多く確認されている。
 一六棟の礎石建物跡と
五〇軒を越える住居跡の
建物遺構の存在が確認さ
れている前橋市宇通遺跡
(平安時代後期の山岳仏
教寺院)では、As-Bによ
って覆われた礎石建物F
の直下にて、山崩れによ
る堆積物の存在が確認さ
れている(図4)。
 また、桐生市新里町不
士山遺跡群では、通常で
は考えられないことでは
あるが、縄文時代前期の
土杭(H区D―1号土杭)
を含む地層が、山崩れによって地滑りを起こして流され
てきた状態で確認されている(加部二〇〇二)。崩壊によ
って流されてきたH区D―1号土杭を含む地層の下位層
では、Hr-FAの堆積が確認されている(図5)。
 前述のとおり、赤城山南麓面にて発生した山崩れは、
五世紀末葉から一〇世紀の間に起こったものと考えられ
ており、発掘調査によって多く確認されている地割れと
同時期に発生した可能性が高いものと考えられている。
写真2 半田中原・南原遺跡の地割れ
(大塚1994)
写真3 桐生市新里町の山崩れ堆積地層
(内田・能登ほか1991)
5 おわりに
 弘仁九(八一八)年に発生した大地震の震源地は、桐
生市新里町の北部付近とも考えられており、地震の原因
としては活断層ではなく、赤城山の地殻変動による物質
の動きの可能性が指摘されている(加部二〇〇二)。
 また最近の発掘調査によって、古代上野国の成立に深
く関わりを持つ地方豪族によって建立された前橋市山王
廃寺では、弘仁九(八一八)年の大地震で被害を受け、
創建から地震による被害を受けて再建までに約一五〇年
程の期間がかかったと考えられている。
 群馬県を震源地として弘仁九(八一八)年に発生した
大地震は、考古学成果と文献資料との一致が認められる
貴重な歴史学的事例である。今日、地震が少ないと言わ
れている群馬県ではあるが、約一二〇〇年前に大地震に
よる甚大な被害(土砂災害)が発生していたことを忘れ
てはならない。
【引用参考文献】
内田憲冶・能登健ほか 一九九一『赤城山麓の歴史地震
―弘仁九年に発生した地震とその災害―』新里村教
育委員会
大塚昌彦 一九九四『半田中原・南原遺跡』渋川市教育委
図4 宇通遺跡の礎石建物Fと山崩れ堆積物の関係(内田・能登ほか1991)
図5 不士山遺跡群の山崩れで流されてきた土坑[縄文時代前期](加部2002)
員会
加部二生 二〇〇二「流されてきた遺構」『赤城村歴史資
料館紀要』第4集 赤城村教育委員会・赤城村歴史資
料館
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 1
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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