[未校訂](二月二十三日)
日本を訪れた人で地震を経験しなかった人はほとんど
いない。この日の夜も、今度の旅行で初めての経験であ
ったが、着換えの最中に地震が起きた。建物が揺れ出し、
瀬戸物がガチャガチャ音を立てたが、それは大したこと
はなく、中途で収まって静かになった。
二月二十四日(土曜日)
朝の九時半に、もう一回地震があった。今度はかなり
激しい揺れで、日本人の話では過去五年の間に起きた最
大の地震であった。横浜ではビルディングに損傷があっ
たということなので、東京より揺れが激しかったに違い
ない。
香港上海銀行では、組み合わせ煙突が倒壊し、部屋の
一部が壊れたということである。東京では瀬戸物が踊り
を踊り、家具はまるで目隠し遊戯をしたかのように位置
が変わったが、私の聞いた限りでは損害はなかった。も
し、これが、この頃の地震の大きいほうの例の一つだと
すれば―居合わせた者は口をそろえて普通よりとくに
大きいと言ったが―最近の地震は四十年前に比べれば
揺れが少なくなったと思わざるをえない。今でもよく覚
えているが、一八六六年、私が日本に来た最初の晩に、
衝撃を受けて目を覚ますと、それは家が間違いなく我々
の上に崩れ落ちるのではないかと思われたほどの強い地
震であった。その一年後、東京の私の家で、ある日本の
紳士と座っていた時、家がぐらぐらと揺れ始め、最初は
穏やかであったが、続いて驚くほどの激しさで揺れだし
たので、我々は大急ぎで庭へ飛び出した。その時、見た
のは実に不思議な光景であった。家は振り子のように揺
れ動き、木が、その中の一本はかなりの大きさの松の木
だったが、地面から徐々に持ち上げられて根がすっかり
露出してしまった。しかし、木はだんだんに元通りに引
き戻されて、不思議なことには、この滅多にない体操訓
練にもかかわらず、何ら差し障りがなかったようだった。
近年における大きな災害は一八五五年の有名な地震(安
政の大地震)で、この時は二万人の死者が出たといわれて
いる。ある者は落ちてきた屋根瓦で打たれて死に、また、
その他の者は逃げる途中で口を開いた地面の裂け目に落
ち込んだが、再びすぐに裂け目が閉じて泣き叫ぶ人々を
押し[潰|つぶ]してしまった。
この恐ろしい大異変の最中に、大きな津波が起きて、
すべての村々を破壊し、ロシアのフリゲイト艦ディアナ
号も難破した。その時以来、これほどの悲劇は起きてい
ない。
一七〇七年に最後の噴火があって以来、ほぼ二百年近
い間、富士は活動を休止している。この五十年の間、何
回も震動があったが―私の記憶では二週間の間に二百
回以上も震動を感じたことがある―、災害を引き起こ
すまでには至らなかった。秘められた力はほとんど消費
され尽くしたのだろうか。そうあることを願いたいもの
である。
音楽会は極めて独特な事態で時ならぬ時に終わりを迎
えた。第一部が終わった時、気象台から電話がきて、地
震学者と称する人がいろいろな兆候を観測した結果、非
常に激しい地震がすぐにも起きることが予想されると知
らせてきたのである。我々のいた建物は安全とはみなさ
れていなかったので、すぐに解散することになった。幸
い、混乱も起きずに避難したが、結局、地震は起こらず
じまいだった。ランスの大司教が指輪を盗んだ小がらす
を追放した時のようなひどい[罵倒|ばとう]が哀れな地震学者に浴
びせられたが、我々としては彼の間違いを寛大に許した。
(注、音楽会のプログラムは省略)
誤った予言者のお陰で、晩餐のために着換える前に、
この時だけは静かに過ごす余裕があった。