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項目 内容
ID J3100660
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1896/06/15
和暦 明治二十九年六月十五日
綱文 明治二十九年六月十五日(一八九六)〔三陸大津浪〕
書名 〔埼玉人が発行した津浪しんぶん〕奥田 豊著「埼玉史談」52巻2号(通巻282号)H17・7・1 埼玉県郷土文化会発行
本文
[未校訂] 昨年の暮れにインド洋で発生した津波は、未曾有の被
害をもたらしたが、地震国であるわが国は何回も津波の
被害に苦しめられてきた。
 特にリアス式海岸の岩手県地方は大きな津波被害に襲
われて、今回の津波災害の報道の中でも引き合いにださ
れている、「三陸大津波」と呼ばれている明治二十九年(一
八九六年)の被害は大きく、当時の新聞に次のように報
道されている。
 「海嘯俄に至り狂瀾天を衝き怒涛地を捲……押し寄せ
来り市街となく村落となく総て狂瀾汎濫の没する所とな
り沿岸一帯七十余里僅かに一瞬間にして人畜家屋船舶基
地挙げて殆んど一掃し去れり……」
 同新聞によると死者二七、一二二名、全半潰家屋約一
万戸の被害であったという。なお津波と言わずに海嘯と
書いてあるが当時は漢語を用いていたのである。岩手県
田老町に建つこの津波の被害者の慰霊碑も「海嘯死者碑」
となっている。
 前年には我国の勝利で日清戦争が終わり、樋口一葉が
『たけくらべ』を発表している。そしてこの年の四月六
日にはアテネで第1回の近代オリンピックが開催され
た。
 インド洋の津波は地震による発生だというがこの「三
陸大津波」の原因は釜石沖で生じた海底火山の爆発であ
った。
 こうした大津波の惨状を報じた小冊子を偶然昨秋、入
手していたので紹介したい。入手した動機はこの冊子が
埼玉人の発行によるものだったからである。
 発行者は埼玉県南埼玉郡和土村十五番地、川島奥次郎
となっている。和土村は『埼玉県地名辞典』で調べたと
ころ現在の岩槻市南部であるが、発行者の川島奥次郎に
ついてはまったく知ることができなかった。
 この冊子は縦十六・五センチ横十二・五センチのいわ
ゆる小本で四丁。紙質は藁半紙で青いインクで印刷して
いる。行田市立博物館の栗原文蔵館長にお尋ねしたとこ
ろ、いわゆる「こんにゃく版」ではないかとのことだっ
た。
 一丁めの表に「岩手ケン宮城青森海嘯志んぶん」の文
字と津波に押し流される家屋や人々の絵が描かれてい
る。
 文言は数え唄の形式となっており、ひ・ふ・みと音を
連ね五・七調で一番から二十番まである。
 つまりしんぶんとは言いながらニュースペーパーでは
ない。幕末から明治末年ころまであった「口説ぎ節」の
冊子の形態である。
 以前群馬県立博物館で天狗堂騒動を唄った『新板せ以
とう一ツとせ婦し』と題するものを見たが、それもやは
り二十番までであった。
 多くの人々が亡くなり家屋敷を失い路頭に迷う大惨事
を数え唄にするのもいかがなものかと思うが、報道手段
の少なかった時代にはこのようなものが受け入れられた
のであろう。
 それでは歌詞を紹介するが印刷が滲んでおり、その上
古い文字使いなので読み難い。例えば「す」は「春」、「わ」
は「己」の字を当てている。三番の一節に「者奈春まも」
とあるがこれは「はなすまも=話す間も」と読む。これ
では読み難いので変体かな文字はカタカナで表記し、地
名や月日の漢字は原文通りとする。
岩手ケン宮城青森海嘯シんぶん
一 ひらけさカんのワガくニも
コんどつナみのふびんさよ
あハれ六月十五日
二 ふしぎニおきナカものスごく
七じようたっカくくるナみハ
おおきくじらカおおつナみ
三 みるまもきくまもハナスまも
おやこけうだいみわけナし
あワれおそろしおおつナみ
四 よせくるつナみハもりおカし
こざけしくうらまいねバし
つナみニしカれてカたちナし
五 いしハまさきハまただこしも
ナカい大たこおおさわぎ
ひらいそナガいそあけどむら
六 むこうハスぎしたコいづみニ
けさいそおおしまつるのうら
おおあざ小あざで二十五ヶ村
七 ナくもカハいもひまハナく
一どニおしくるおおつナみ
いいもやしきもナガさるる
八 やねニのぼりてこヘタカく
たすけてくれよとおおゼヘガ
よべどさけべどうみのナカ
九 こどもバカりもおタスけと
りようてアハしてうみのナカ
あワれナるカやみごろしハ
十 とうとつナみニひきこまれ
アワれむじようのしとしとガ
一まん三千四百ニん
十一いまだけガニんみつをのみ
ナんぎくぎうガ四まんにん
みるもきくのもアワれさよ
十二にんセん大セんてんまふね
二百三十五そうナり
みじんニくだけてゆくいナし
十三さてもアワれナおおつなみ
いわでけんちやうでんしんを
しらすとうけいカんりガタ
十四しとじとおどろきしよ大じん
スぐさましッちゃういタされる
アらましこけんしアワれさよ
十五ごしやうだいじとしとじとカ
スまんのしガへをスくいアげ
つカニつんでぞとむらいよ
十六くもナくきけうでカんりガタ
てんのうこうぐう両へいカ
一まんいんのスくいきん
十七いのうい大じんカ百五十いん
あまタ大じん百いんよ
それそれカんりのめぐみきん
十八ハやくもナんぎのしとしとニ
おスくいごやおバたてられる
いしやよくスりとカいほうスる
十九くもんくナんのしとじとガ
いまタよることカズしれズ
きくもアワれさふびんさよ
二十にワカニくダさるスくいきん
カみをあおいでみをおもい
カナしさうれしガ一どなり
明治廿九年
サイタマケン南サイタマ郡和土村十五バンチ
七月九日 印刷発行業者 平民川シマ奥次郎
同十二日
 以上が全文である。文中の四番や五番のあけど村やつ
るのうらなどの地名は調べれは判明するのではないか
と、栗原館長よりご教示をいただいたが煩雑になりそう
なので取り止めることにした。また最後になったが本稿
作成にあたり本文の読み合わせに協力してくれた増田泰
之氏に御礼を申し上げたい。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1800
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 埼玉
市区町村 浦和【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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