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項目 内容
ID J3100070
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及関東一円〕
書名 〔春日部市史第六巻通史編Ⅰ〕○埼玉県春日部市教育委員会編H6・9・10 春日部市発行
本文
[未校訂]安政の大地震
 幕末の自然災害を代表するものは、安政二年(一八五
五)十月二日夜に江戸市中を襲ったマグニチュード六・
九といわれる大地震であろう。この地震の被害は、県域
では特に日光道中沿いの宿村で大きかった。越ヶ谷宿の
内藤家の記録には「本所・深川・下谷辺大痛、千住宿迄
江戸同様、草加宿・越ヶ谷宿迄少々軽キ、粕壁宿より栗
橋宿迄余程軽シ、江戸より凡廿里四方地震」(『越谷市史』
史料二)と記し、春日部市域では比較的被害が少なかっ
たようにみえるが、中山道蕨宿の「役用向日記」では「千
住・草加・幸手辺烈敷風聞ニ有之」(『新収日本地震史料』
第五巻別巻二ノ二)と、日光道中筋での被害が大きかっ
たことを伝えている。
 市域南部に隣接する平方村(現越谷市)の林西寺の「白
龍山日記録」によると、前年に塗り直した本堂の白壁が
ゆがみ、墓地の石塔も
みな倒れてしまったと
いう(『新収日本地震史
料』第五巻別巻二ノ
二)。また、市域西部で
岩槻に近い花積・上蛭
田・下蛭田・新方袋の
四か村では、村役人の
家でも「建具類壁其外
夥敷損シ」てしまった
ので、鷹方の宿泊を免
除してもらえるよう野
廻り役に対して出願し
た(『新収日本地震史
表2 安政大地震の被害状況
村名
樋籠村
不動院野村
八町目村
小淵村
市域計
幸手領計
家数軒
56
72
110
120
358
5,041
皆潰軒
1
1
17
潰家同様棟(%)
17(30.3)
35(48.6)
42(38.1)
97(80.8)
191(53.3)
3,243(64.3)
怪我人人
37
70
18
58
183
1,724
『新収日本地震史料』第五巻別巻二ノ二より作成
料』第五巻別巻二ノ二)。北部の幸手領の村々では、領中
全体の被害状況がまとめられている(『新収日本地震史
料』第五巻別巻二ノ二)。これによると、五二か村・五〇
四一軒のうち「皆潰」が一七軒、「人家土蔵物置潰家同様」
が三二四三棟、怪我人が一七二四人で、「田畑・往来・居
屋敷廻り・家作」の地割れや、そこから土砂が吹きだし
ている場所が[夥|おびただ]しいと報告された。幸手領五二か村のう
ち現在の市域に属する四か村の被害状況は表2の通りで
ある。完全に潰れた家屋が出たのは小淵村の一軒のみで
あるが、「潰家同様」はかなりの数に上ることが判明する。
「潰家同様」の単位は棟なので、一軒に人家・土蔵・物
置など数棟含まれてしまい単純に家屋の被害状況率を出
すことはできないが、おおよその見当として家数と「潰
家同様」との比率を算出するとつぎのようになる。幸手
領全体で六四・三パーセント、市域四か村では五三・三
パーセントとなり、幸手領の中では比較的被害の少なか
った地域といえる。村別では、小淵村の八〇・八パーセ
ントが飛び抜けて高い。不動院野村の怪我人の数も、一
軒当たり一人に近い高い数字を示している。
 この地震に対する村方の対応については、銚子口村の
御用留に詳しい記述がある(以下、特記ないものは銚子
口区有文書一〇九九・一一六二)。地震の発生した翌日の
朝には、金杉村(現松伏町)の吉左衛門から庄内古川の
三輪野井瀬割堤が大破したので、至急担当役所へ願書を
出したという廻状が届いた。翌四日には、今度は赤沼村
から役所にどう届け出るのか問い合わせがあり、藤塚村
などへ会合の依頼をする。五日になってはじめて代官所
からの触書が届き、災害に事よせて材木諸色、大工・左
官の手間代などを不当に値上げすることが厳しく禁止さ
れた。この触書について当村では、九日に惣百姓・大工
が請書を作成した(近世Ⅴ P一九五~一九六)。十日に
は、松伏村の石川民部から被害状況の調査依頼の廻状が
来た。これは、村々から出される被害届がまちまちなの
で、竹垣三右衛門代官所から松伏領全体の取りまとめを
石川民部に依頼したものであった。調査項目は、潰家・
半潰・焼失・即死人・怪我人・死牛馬、寺・堂宮社・土
蔵・物置の被害などにわたっていた。さきに紹介した幸
手領全体の史料もこのようにして作成されたものであろ
う。十二日には、代官所から罹災者に対して施行を行っ
た者がいたら書き出すようにとの触書。十月二十三日に
は再度代官所から材木・諸色の値段抑制の触書。十一月
朔日に石川民部他一名から貯穀貸渡し願いが聞き届けら
れそうなので[出会|しゅっかい]依頼の廻状。この貯穀の貸し渡しにつ
いては別の史料があり、銚子口村では村人五三一名のう
ち一五九名が対象となり、男子一日稗八合、女子および
一五歳以下六〇歳以上男子は同四合宛、各々三〇日分の
支給があった(近世Ⅴ P一九六~一九七)。そのほか大
きな被害を受けた東西葛西領に代わり水戸佐倉道中の新
宿町(現東京都葛飾区)への代助郷問題の打ち合わせな
ど、約二か月間に地震関係の廻状が一五通も収録され、
地震の後始末に忙殺されている様子がよくわかる。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1317
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 埼玉
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