[未校訂](九月)同廿八日
一 卯刻昇堂
一 来十月二日地震之霊一周忌ニ付、左之通相伺候事
奉伺口上覚
一 昨卯年十月二日大地震ニ而於御府内茂横死輩多分ニ
付、公儀ゟ茂格別之以思召、於観音堂右横死之者為
菩提大法会御修行被仰出候ニ付、別段思召ニ而跡両
日同断御修行被仰付候、然ル処来ル十月二日右横
死之者共一周忌ニ相成候ニ付、格別之以思召当日軽
キ法会修行被仰付候様仕度奉存候、依之此段奉伺
候
九月 喜見院
右之通伺置候処、伺之通当日於本堂浅草寺一山限惣
出ニ而法花三昧御修行被仰出候趣、坊官衆ゟ申来、右
ニ付役者江相達妙智院堂番呼出相達、且被下物之儀左
之通相伺
奉伺口上覚
一 金七百疋 一山惣中江
一 金五百疋
妙智院始承仕堂番
三譜代其外迄
右者来ル十月二日去冬地震横死之者一周忌相当ニ
付軽供養修行被仰出候ニ付、御非時等茂可被下処、
此節御殿向損所ニ付、為御料理代右之通惣中江被下
候様仕度奉存候、依之此段奉伺候、以上
九月 喜見院
右伺済ニ付、当日役者妙智院等江相渡
一 去廿五日浄光寺寺院什物其外請取相済候趣、本龍院
届出、什物帳収納帳等差出候事
一 御納戸ゟ相廻願書、左之通
乍恐書付を以奉願上候
一 私儀年来御用向被仰付取続罷在難有仕合奉存候、
然ル処此卯年十月中未曾有之地震ニ而御本堂御殿
内并諸堂社殊之外及大破、御手広之御場所御修復
御入用莫大之義与乍恐奉存候ニ付、乍不調法相応之
御用向奉相勤度心願ニ罷在候、折柄猶又当八月廿
五日夜稀成大風雨ニ而御殿内殊之外御損ニ相成弥奉
恐入候、右ニ付何共恐入候御願ニ者御座候得共、職
業為冥加起返御修復奉差上度奉存候間、格別之以
御憐愍願之通被仰付被下置候様、幾重ニも奉願上
候、以上
安政三辰年九月
浅草御殿入口仁右衛門印
下谷金杉町家持父辰五郎印
御役人衆中様
右ニ付、御納戸両名之伺書相添相廻候処、願之通伺済
ニ付御納戸ニ而申渡
(十二月)同四日
一 火附盗賊改坂井右近組同心御玄関江参り申聞候者、去
冬地震後地中泉蔵院方ニ而唐銅地蔵尊壱躰盗取候盗
賊召捕ニ相成候ニ付、相違無之哉之旨問合ニ付、追而取
調置可申旨申置泉蔵院呼出相尋候処、相違無之趣ニ而
早速届出可申由之趣申聞候旨、役僧善行房届出候事
同八日
一 顕松院持参添簡願、左之通
乍恐以書付御届奉申上候
一 拙寺儀去ル卯年十月二日地震ニ而類焼仕候処、其節
墓所ニ有之候高サ弐尺五寸位之座像ニ而唐銅地蔵尊
壱躰、同十一月中粉(紛)失致、右者早速御届可奉申上之
処、地震以来彼是混雑罷在御届延引ニ相成候段奉
恐入候得共、此段御届奉申上候、以上
安政三辰年十月
浅草寺地中泉蔵院印
寺社御奉行所
前書之通寺社御奉行所江御届奉申上候間、何卒御
添簡被成下置候様御執成之程、偏ニ奉願上候、以上
泉蔵院印
本龍院
顕松院
右ニ付、例之通添簡相認遣候事
(十一月)
奉伺口上覚
一 本堂西側屋根当秋風損ニ而屋根板不残吹散候ニ付、
此度新規土居葺申付候処、右手間代之儀者職業為
冥加奉納ニ仕、為板代金三拾両当金ニ御下被下候様
仕度段願出候趣、吟味役ゟ申出候間、右取調候処
相違茂無御座候間、願之通被仰付被下候様仕度奉
存候、依之別紙相添此段奉伺候、以上
十一月 喜見院
鈴木主税
右伺済ニ付、御納戸ニ而申渡
一 先達而初鹿野鉄次郎差出願書、左之通
乍恐以書付奉願候
一 随身門御屋根之儀昨年地震後御修復被為在候処、
猶又八月中之風災ニ而土居葺迄茂吹散雨洩等茂有之
候ニ付、自然御神躰茂痛ニ相成可申哉と奉存候、乍
恐私御修復之儀心掛罷居候処、右ニ付被官之者共江
御修復之儀相頼候処、銘々冥加相弁土居葺并ニ裏甲
朽損之分者御有形ニ習新規可仕、其外損之分御繕仕
御屋根之儀者葺立瓦桟土留不残打可申候、右様出
来居候得者瓦葺一段ニ相成、来春ニ茂相成候ハヽ瓦
葺奉納仕候もの茂出来可申哉ニ奉存候、依之右願之
通御聞済之御沙汰奉願上候、以上
安政三丙辰年十一月
初鹿野鉄次郎印
御別当代様
御納戸様
奉伺口上覚
一 随神(身)門屋根之儀地震後猶又当秋風損ニ而大破ニ相成
雨漏等ニ而難捨置候処、此度普請方初鹿野鉄次郎被
(後筆アリ)官之大工瓦師屋根屋左官等一同申合、職業為冥加
別紙之通御修復奉納仕度趣願出候ニ付、取調候処
相違茂無御座候間、右願之通被仰付被下候様仕度
奉存候、依之願書相添此段奉伺候、以上
十一月 喜見院
鈴木主税
(後筆)「伺之通随神門屋根為冥加御修復奉納之儀、初鹿野
鉄次郎ゟ願之通被仰付旨、喜見院鈴木主税江可被
達候」
右御納戸ニ而申渡、尤足場取掛候ニ付、其段御鳥見方
江相届候様役者江達
(十二月三日)
一 本龍院持参、左之通
乍恐以書付奉願上候
一 拙寺寺院儀去ル卯年十月中地震之節潰同様破損仕
候ニ付、工夫仕漸々修復出来仕候処、当八月中大風
雨之節又候破損仕難捨置候得共、薄録(禄)之寺院必至
与難渋至極仕罷在再修覆等茂未タ難行届当惑仕罷
在、依之拝借御料物納之儀、当年限り元金御用捨
被成下置候様偏ニ奉願上候、以上
安政三辰年十二月
正智院印
喜見院様
御取次衆中
一 本龍院持参、左之通
乍恐以書付奉願上候
一拙寺共組合延命寺儀去ル嘉永五年春中より無住相
成、御両院御預り相成在(罷脱カ)候処、安政元秋九月ゟ法
詮房儀留守居ニ御差向ニ相成居候所、年齢相応神妙
之僧ニ而檀中一同帰依仕候、殊ニ昨年十月二日夜大
地震ニ而寺坊堂等三囲稲荷社まて相潰候所迄(追)々再
興仕候勤功有之候間、今般法詮房儀延命寺江住職
被仰付被下置候様、格別之御取計ヲ以宜奉願上候、
以上
安政三丙辰年十一月
組合惣代光明寺印
法詮房法類泉竜寺印
延命寺檀中惣代伊右衛門印
孫次郎印
金右衛門印
勘五郎印
本龍院
顕松院
前書之通相違無御座、私共於店表一同帰依仕候間、
何卒右法詮房江住職被仰付被下候様奉願上候、以
上 三井八郎衛(ママ)門代新兵衛印
経暦書
一俗 三十五 法詮房戒 二十五実名円照
一 師匠播州揖東郡鵤(鵤村カ)
山青竜院知円
一 父同国同郡龍野城主脇坂阿波(淡路守)路守藩中鈴村権蔵
右之者天保三辰年十月二日於青竜院得度、師元ニ
廿年罷在、嘉永五子年上野寿昌院江随身仕居候処、
安政元秋九月より延命寺留主居罷在候、以上
安政三丙辰年十一月
法詮房法類泉竜寺印
本龍院
顕松院
乍恐以書付奉願上候
一 延命寺儀去ル嘉永五子年春中ゟ役者両院江御預ケ
被仰付、其後安政元年九月中ゟ法詮房儀留主居ニ
差遣置候処、年齢茂相応貞実ニ寺役等茂相勤、殊ニ昨
年十月中大地震之節寺坊并三囲稲荷社迄相潰候
処、追々再興仕候ニ付組合檀方一同致帰依、今般法
詮房儀延命寺住職被仰付被下候様別紙之通一同ゟ
願出候間、右願之通被仰付被下候様於拙僧共茂奉
願上候、以上
安政三辰十一月 顕松院印
本龍院印
御別当代
奉伺口上覚
一 浅草寺末小梅代地延命寺儀無住ニ付去嘉永五子年
中ゟ役者江御預ニ相成居候処、右留主居ニ罷居候法
詮房儀至極貞実之僧ニ而年齢も相応ニ相成候間、檀
方一同帰依仕、殊ニ去冬震災後寺坊其外皆潰之処
追々再建等出精仕候ニ付、右之僧江住職被仰付被下
候様組合中檀方中ゟ願出候間、願之通被仰付被下
候様仕度段役者中ゟ茂願出候ニ付取調候処、相違も
無御座候間、右願之通被仰付被下候様仕度奉存候、
依之別紙願書経暦書相添、此段奉伺候、以上
十二月 喜見院
右何れ茂伺済
あとがき
本巻に収めた記録
『浅草寺日記』第二六巻には、安
政二年(一八五五)から同三年ま
で、二年間にわたる計七冊の記録を収めた。各冊の表紙
によれば、詳細は次の通りである。
安政二年正月より五月まで 「記録」
安政二年五月より一〇月まで 「記録」
安政二年一〇月より一二月まで 「記録」
安政二年一〇月より一二月まで(「地震記」)
「記録」
安政三年正月より五月まで 「記録」
安政三年五月より九月まで 「記録」
安政三年九月より一一月まで
(但し、本文中には一二月の記事も含む)
「記録」
これらはすべて浅草寺別当代による記録である。なお、
本巻収録期におけるおもな役職は、次の通りである。
[別当代] 安住院(安政二年七月まで)、興善院(安政
二年七月より一〇月二日まで)、喜見院(安政二年一〇月
五日より)。興善院から喜見院への交替は、「記録」には、
「急な大病」としか記されていないが、神田雉子町の各
主斎藤月岑は、『安政乙卯武江地動之記』に「浅草寺別当
代潰死」との記述を残している。
[役者] 梅園院/顕松院(安政二年六月まで)、無動
院/顕松院(安政二年六月より同一二月まで)、顕松院/
本龍院(同月より)。役者は二名でその職にあたる。本巻
収録を通じ、顕松院は変わらない。また、安政二年六月
の梅園院から無動院への交替は、五月に梅園院が無動院
へ転住していることから起こった交替であったが、同一
二月には無動院(元梅園院)が隠居し、本龍院へ交替し
た。
[執事代] 妙智院
[堂番] 久代吉十郎/金子八郎/今沢平八郎
[代官] 菊地惣左衛門/本間庄太夫
代官は、二名であるが、安政三年六月、本間庄太夫に
種々不行届があって御役取上となって(五八八頁)、以後
本巻収録期の終わりまで菊地惣左衛門が一名で勤めてい
る。
収録期の世相
安政期(一八五四~六〇)の世相は、
開国と災害というキーワードで表わす
ことができるだろう。嘉永六年(一八五三)ペリーが軍
艦四隻を率いて浦賀に来航した。翌年には、「安政東海地
震」とよばれる地震で津波が起こり、下田で大きな被害
が出た。この地震の後、嘉永から安政に年号が変わる。
本巻収録期の幕政の動きをみてみると、この期間は、
老中阿部正弘による「安政の改革」とよばれる政策が推
進されていた時期である。嘉永六年ペリー来航後、正弘
は、水戸藩主徳川斉昭を推挙して幕政参与とした。また、
諸大名や幕臣の意見を広くとりあげ、朝廷に報告をしな
がら海防の充実をはかっていった。ペリーは、翌年(一
八五四)軍艦七隻を率いて再び来航し、日米和親条約が
締結されるにいたった。正弘は、有能な人材の登用をは
かり、このことによって幕府の独裁を改めることで幕府
改革を推進した。また、幕府の財政支出を切りつめ、軍
事力強化に充てる方針をとった。安政二年一月、蕃書和
解御用が独立して洋学所となり、翌三年には蕃書調所と
改称される。正弘はさらに安政二年二月に講武場(のち
の講武所)を設け、同七月には長崎に海軍伝習所を開き、
洋式武術の導入につとめた。
以上が、本巻収録期における幕政のおもな動きである。
このような社会情勢の急激な変化と、それに対応すべく
幕政改革の推し進められるさなかにあっても、奥山の一
画では、オランダ細工・象・張子人形などの見世物が人
気を博した記述が『浅草寺日記』二六巻には散見してお
り(五九頁ほか)、江戸庶民の変わらない日常生活を看て
とることもできる。
安政江戸地震の概略
このような中で、安政二年(一
八五五)一〇月二日、安政江戸
地震が起こった。本巻に収録されている「記録」七冊の
うち、四冊目が「地震記」と副題の付された別冊となっ
ている。この「地震記」を中心に、前後の「記録」も参
照しながら、浅草寺の被害状況、末寺など周辺の被害の
実態、その対処についてみていきたい。まず、安政江戸
地震の概略をみてみよう。
安政江戸地震は、安政二年一〇月二日夜四つ時(西暦
一八五五年一一月一一日夜一〇時ごろ)発生した。震源
は荒川河口付近、現在の東京都江東区付近の直下型であ
った。震度六強から七、マグニチュード七・〇くらいで
あったと考えられている。震源が江東区付近であったこ
とを裏づけるように、被害は深川・本所・浅草・日本橋
などで大きく、山の手では比較的小さかった。当時は、
現在のように公式発表というものはないので、残された
さまざまな史料から推測を積み重ねるしかないのである
が、町人地の死者が四〇〇〇人を超えるといわれている
ことから、江戸全体で約五〇〇〇人が死亡しているので
はないかとみられている。
神田雉子町の名主斎藤月岑が残した『安政乙卯武江地
動之記』から、浅草付近の被害状況をさぐってみよう(口
語訳筆者)。
1、浅草寺中より出火、また田町一・二丁目より出火し
て聖天町、金龍山下瓦町・花川戸町などが類焼した。
1、今戸橋畔料理屋玉屋より出火。
1、山谷浅草町惣潰れ、一軒も残らず、死亡人多数。
1、浅草寺本堂は、潰れなかったが西の方屋根が少しい
たむ。本尊花屋鋪へ御立退あり、(中略)本坊玄関表屋
鋪等残る、奥向潰れる。別当代ならびに小姓潰死とい
う。境内には潰れた堂社多くあり。寺内町屋も破損多
い。
1、五重塔の九輪が西の方に曲る。顕松院の辺少し焼け
残る。奥山揚弓場、活人形の見せものの小屋、花屋敷
の座敷等皆類焼、人の仮屋となる。寺中で類焼したの
は、吉祥院・徳応院・延命院・誠心院・無動院・教善
院・遍照院・善龍院・泉凌院・泉藏院・修善院・妙德
院・醫王院・金剛院・覚善院・法善院・自性院・寿徳
院など。富士社は土蔵が残り、勝蔵院の辺は残った。
各門前町屋裏長屋等は、悉く焼けた。
浅草寺日記にみる被害の実態
以下で、「地震記」および「記録」
から、浅草寺の被害の様子を具体
的にみていくことにする。
まず、一〇月二八日の条にみられる別当代から寺社奉
行に宛てた「御届」には、次のような状況が描かれる。
将軍の御成のとき御膳所に仰せつけられ御座所となる
座敷は、すべて潰れた。玄関・客殿のみ潰れなかったが、
柱が曲ったり壁が落ちたりした。観音堂西側の屋根は破
損した。境内には破損したり潰れたりした場所が多くあ
り、将軍の参詣や通行には差し支えがあり、繕いも掃除
も、すぐには行き届かない状況にある(二四八頁)。
この状況は、先に紹介した月岑の記述とも一致してい
る。この後、詳細な「届書」が浅草寺から寺社奉行宛に
出された。同届書から境内の被害を状況ごとに整理して
みると、
皆潰 観音堂御供所、三社権現玉垣、荒沢堂、西之宮
稲荷社、弁天社、熊谷稲荷社、神馬所、道心者
部屋、熊野社、観音堂下手水家、仁王門前手水
家
七分通潰自坊向
破損 観音堂西側屋根北の方なげし、随身門屋根、三
社権現社、御輿堂、鐘撞堂、神庫、粂社、八幡
社、疱瘡神社、表門
少々破損 仁王門・仁王尊の手、雷神門・雷神尊、西
之宮稲荷御供所、寅薬師堂、大神宮、淡島
社
特殊な破損状況 五重塔(本体は無事、九輪が曲る)
この被害状況を記した「届書」に、「願書」が続き、類
焼した延命院をはじめ、一五か院が、拝借金を願い出て
いる。
この時、無動院からも「寺は地震で潰れ、その上境内
地借の者まで残らず類焼して難渋しているため」として
拝借金の願書が顕松院に宛てて出されている。無動院に
ついては、後に、その難渋ぶりを知ることのできる記述
が出てくるので、それを紹介しておこう。安政二年一二
月二五日の条に、無動院が隠居を認められたことについ
ての記述があり、隠居するにあたって寺を組合中に引き
渡した際の「覚書」に、引き渡したものとして「無動院
仮小屋」とあり、その内容として「間口五間半・奥行二
間半、畳一四枚、雨戸一二枚、古障子一〇枚、古襖二枚」
と記されている(三三〇頁)。倒壊した寺院の仮住まいの
実態がみてとれよう。
さらに『浅草寺日記』には、山内の寺院だけでなく、
門前の各町における被害状況についても詳細な記述をみ
ることができる。代官二名により作成された「当二日地
震ニ付御門前町変死人怪我人潰家潰長屋并類焼町々取調
書上」と標題のついた記述である。並木町、茶屋町、駒
形町、諏訪町、三間町、西仲町、田原町一~三丁目、東
仲町、材木町、花川戸町、山之宿町、聖天町、同横町、
瓦町、常音門前町、田町一~二丁目、北馬道町、浅草町、
南馬道町、新町と町名が列記され、各町ごとに死者、け
が人、潰家数、潰長屋数を記している。その数を合計す
ると、死者二八(ママ)三人、けが人一〇三人、潰家一四八軒、
潰長屋一六三棟とある。この記述に、これらの町々の名
主一〇名・境内組頭らの自宅に関して、潰れ・類焼など
の状況を調査した「書上」が続く(三九五~四〇九頁)。
これらは、町奉行と浅草寺代官による両支配であった
門前各町の公的な被害統計が出されている記述として、
たいへん興味深い。
地震からの立ち直り―補修の進行―
地震から一か月たった一一月二
日から四日にかけ、死者の供養
のため、浅草寺観音堂で施餓鬼法要が行われた。
同じ一一月二日の条に、「震潰の上類焼」の山内一七か
院に、浅草寺から米と銭が支給されたことが知られる記
述がある。これによると、
米二俵・金三〇〇疋 無動院、修善院、自性院、医王
院、誠心院、教善院、金剛院、妙徳院、遍照院、泉
蔵院、吉祥院、善龍院
米一俵・金一〇〇疋 延命院、徳応院、法善院、寿徳
院、泉凌院
このほか、役者を勤めている無動院には「別段役中ニ
付」ということで、米一俵と金一〇〇疋が加えられ支給
されている。類焼は免れたが倒壊した一五か院から、何
らかの救済措置を求める「覚」もみられる。 一か月が過
ぎ、救済も行われ、次第に落ち着きを取り戻すなかで、
地震により破損した仏像や諸堂の補修も始められる。
施餓鬼執行の一一月二日の条に、加藤渡という人物よ
り、本堂内陣の諸仏・左右の木蓮花・裏堂の木蓮花・仁
王尊・雷神尊を補修したいという願書が出され、許可さ
れる(三六九頁)。
年が明け、安政三年になると、補修に関する記述は多
くなる。四月一日の条には、地震によりひずんだ鐘楼堂
を元通りにしたいと、三河国岡崎の吉兵衛という者から
願いが出され、願いの通り吉兵衛が補修を請け負うこと
となる。工事期間は、二日間であった(五〇七頁)。」
同一八日には、崩れた弁天堂の建築を願い出る者があ
って、これも許可となる。同二二日には、執事代妙智院
と代官菊地惣左衛門が「輪蔵御再建御用掛」に任じられ
ている。また、四月晦日には、大破した本堂屋根の修復
が始まっていた(五三二頁)。
本堂屋根の工事は、最も大規模な補修工事であっただ
ろう。六月五日には、新門辰五郎から、本堂屋根修復の
ため青銅を奉納したいという願書が出され、許可されて
いる(五七五頁)。
歌川広重の描いた「浅草金龍山」
絵師歌川広重(一七九七~一八五
八)は、風景画を中心にこの時期
の江戸で活躍した、あまりにも有名な人物である。彼の
晩年の作品に、「名所江戸百景」と名づけられた錦絵のシ
リーズがある。一一八景から成る同シリーズは、安政三
年(一八五六)から同五年九月に亘って刊行されている。
この中に、「浅草金龍山」という標題の一枚がある。雷門
を通して仁王門をみた構図で、絵の右端には、まっすぐ
に立つ五重塔が描かれている。降りしきる雪の静寂感に
もかかわらず、行きかう参詣人の人々が多数描かれてい
る。シリーズ中でも「名作」といわれる一枚である。
この絵が出されたのは、安政三年七月である。先に述
べた通り、五重塔は、六月五日に修復が完了し、六月六
日完成供養のために「投餅」を行いたいという願い出も
あった。その一か月後、この絵が出ている。
近年の「名所江戸百景」の研究では、このシリーズを
震災復興の絵とみる説が注目されている(原信田実説)。
震災後再生した江戸の各所について、復興の完了した順
に描かれていったとみる説である。そうであれば、五重
塔修復の完成こそ、江戸の人々の「浅草の復興」を意味
するできごとだったのではないだろうか。展望台として
も名高かった五重塔は、各所としての浅草を象徴するも
のとして江戸の人々に認識されていたと思われる。五重
塔の復興を浅草寺の復興と同義と見たのかもしれない。
それゆえ、広重も、また江戸の人々も、五重塔の復興を
心から喜んだのであろう。
本巻は、これら浅草寺の震災の下での状況や復興の進
捗状況とともに、江戸の人々の名所に対する意識をみて
とることのできる箇所もあり、興味深い。安政江戸地震
の被害の実態と復興の状況、江戸名所としての五重塔や
浅草寺の姿が、本巻によって明らかにされているのであ
る。