[未校訂]江戸時代の最後の、そして最大規模の地震は安政元年
(一八五四)十一月五日の「安政の大地震」である。十
一月二十七日嘉永七年が安政元年に改元されたから、世
間では「年号を嘉永・嘉永(変えろ変えろ)と揺る地震」
といわれた。岡山藩の「留帳」によると、「此度の地震、
御国(備前)にては古来より承伝不申程」の大地震で「一
同恐怖仕、山寄の処は山へ登り、或は野中に小屋掛など
仕、逃出し居申様子」であったことを記録している。
「尾張村記録」には、邑久郡尾張村の村民は皆屋外に[藁|わら]
[屋|や]を掛け、土の上に畳を敷き、その上で起居し、炊事は
その小屋の傍らに[竃|かまど]を築いて行ない、圧死を避け火事を
防いだことを記す。また「小津村[古老聞書|ころうききがき]」によると地
震は七ツ時(午後四時)に起こった。皆皆狼狽したが、
特に南の方でパチパチと無気味な音がしたため皆この異
変に恐怖したこと、余震はその後長く続いたことを記し
ている。先の「尾張村記録」によると、この地震は殆ど
三十日間も続き、仕事は手につかず、夜も安眠出来ない
日が続いたが、人畜に被害がなかったのは幸せであった
と記している。
「虫明村記録」は、地震と共に[海嘯|かいしょう] (海鳴り・津波)
が起こり、一昼夜に海水の差し引きすること二、三十回
に及び、満潮時には平時の水位より七尺余も高く泥土を
浜に叩きつけた。そのため扇浜に泥土が二尺も溜まり、
それまで三百石積みの船舶が出入り出来た湊が、僅かに
小さな漁船が出入り出来る程度に埋まってしまったとい
う(『改訂邑久郡史 下巻』六六九~六七一頁)。
町域の記録は残っていないものの地震の性格上周辺地
域の記録によって推測できるが、これらの記録からみる
と、海に面した牛窓・鹿忍・奥浦・小津の村々は地震の
直接の被害の他、この[海嘯|かいしょう]の被害も少なくなかったこと
が推測される。