[未校訂]第二節 災害と飢饉
一 地震
『伊豆長岡町史』中巻「近世災害年表」を中心に『三島
市誌』などを加え、清水町域に影響した
とみられる地震年表(表4―58)を作成
してみた。地震は大きければ大きいほど
身を守ることの方が先決で、記録は後日
となり、影響の記述も同様後日談をまと
めたものに過ぎなくなる。したがって、
これらすべてが正確かどうかはわからな
い。安政元年(一八五四)十一月四日の
大地震も従来紀州大島沖を震源としてい
たが、最近では遠州灘沖とされている。
津波は大阪から東北地方に及び、下田で
ロシア船ディアナ号が損傷したことは有
名である。これほど広域な津波が遠州灘
沖の震源でおきるものであろうか。大阪
や遠江などの津波・地震の日付から憶測
しているが、例証を伴うものがない。た
とえば、安政二年十月の地震は『網代村
誌』では三日夜といい、『増訂豆州志稿』
では二日夜という。このように、同じ地
震でも日付が異なると別な地震とされか
ねないのが実情である。安政の東海地震
などという名称とともに、今後とも慎重
な検討が望まれる。
表4-58近世駿東郡・北伊豆地震年表
発生年月日(西暦)
慶長元(1596)5.2
9(1604)12.6
19(1614)10.25
寛永10(1633)2.
元禄12(1699)11.
16(1703)6.
12.28
宝永元(1704)10.
4(1707)10.4~5
11.23
元文2(1737)3.~5.16
天明2(1782)7.14~15
3(1783)6.
7.10
6(1786)2.20~26
天保14(1843)2.9
弘化4(1847)3.24
嘉永6(1853)2.
安政元(1854)11.4
2(1855)1・27
9.28
10.2
4(1857)⑤.23
地震
伊豆で地震(『増訂豆州志稿』)
東海・南海・西海道に地震(『袋井市史』53)
大震(『増訂豆州志稿』)
小田原地震 伊豆も地震(『三島市誌』ほか)
地震(『三島市誌』)
地震(『三島市誌』)
御厨地震(『東海地方地震津波史料Ⅱ』)
地震(『三島市誌』)
宝永大地震(『増訂豆州志稿』)
富士山噴火
熱海・古奈・修善寺など度々強震
天明小田原地震(『新収日本地震史料補遺』)
地震(『三島市誌』)
浅間山噴火、伊豆で地震(『増訂豆州志稿』)
御殿場・箱根地震頻発(「山ノ尻村名主日記」)
津久井地震(「山ノ尻村名主日記」)
善光寺地震、御殿場死者6(「山ノ尻村名主日記」)
相模~三河大地震、小田原被害大(『静岡市史年表』)
安政東海大地震
駿河~東遠江地震(『東海地方地震津波史料Ⅱ』)
東海道諸国地震(『静岡市史年表』)
安政大地震、伊豆にも地震(『増訂豆州志稿』)
駿河に地震(「静岡市史年表』)
(『伊豆長岡町史』中巻「近世災害年表」より作成)
清水町域に関する地震史料は皆無に近い。僅かに安政
元年地震についての幕領徳倉村・柿田村関係史料がある
に過ぎない。この地震は、駿東郡では十一月四日朝五ツ
半時(午前九時)頃より津波か雷鳴かと思うような大き
な地鳴りがしたという。そして同四ツ半時(午前十一時)
頃より揺れ出し、歩行も不可能で、家屋の倒壊は壁土な
どを巻き上げ、火災の発生するところもあり、各所で陥
没が起き、野方では各所で水を吹き上げ、用水川は日照
りのごとく枯れ、余震は三日三夜絶え間なく続いた、と
いう。
小林村(沼津市)東方では、民家十一軒を乗せたまま
三丈余(九メートル)陥没した。その光景は沼津藩士山
崎継述描くところに明らかである(『静岡県史』別編2口
絵)。
沼津城の建物はすべて崩壊し、水野侯は本丸に仮設小
屋で起居せざるを得なかった、という。沼津城下の即死
は二四人と馬五頭、津波は狩野川を上り、平ノ瀬で六尺
であった。また、香貫では田地が幅一丁(一〇九メート
ル)・長さ一丁半(一六四メートル)に渡って陥没し、そ
こに津波が入り、深さ四~五間(七~八メートル)の湖
が出現した(前出『静岡県史』)。いっぽう三島宿でもほ
とんどの家屋が倒壊して火災も発生、三嶋大社も倒壊し
た。
沼津と三島がこのような状況下に清水町域が安泰であ
るはずがなく、全域かなりの建物が倒壊したと考えられ
る。実際の被害状況を示す史料としては、『清水町史』資
料編Ⅳの解説に示した「徳倉村潰家へ貯穀割渡し一覧」
(「大地震ニ付貯穀潰家江割渡書上帳」嘉永七年十一月、江
川文庫)がある。これによれば、徳倉村幕領分の家数は
四五軒、そのうち大潰一八軒、半潰二一軒である。貯穀
割渡しから除外されている村役人・長百姓六軒も大潰か
半潰のいずれかとみられる。また、「地震被害につき拝借
金請取書」(資Ⅳ―254)では潰家一八軒、半潰一七軒、大
破七軒、計四二軒が拝借金交付の対象となっている。や
はり、ほぼ全戸に被害があった。そのうえ徳倉は山崩れ・
川除堤の崩壊や山つきの湧水が止まり、溜池が枯渇する
という余波まで発生している。
柿田村は天保十五年で家数四五であるので、安政元年
でも同数とみられる。このうち潰家が二軒、大破一八軒
の計二〇軒である。同じ家数で柿田は徳倉の半分以下の
被害である。半潰と大破はどう違うのかを考えると、半
潰は家が半分傾いた状態を指し、大破は家は傾かないが
内部構造が完全に破壊された状態を指す、とみられる。
したがって、潰家・大潰は家屋が倒壊した状態をいうの
であろう。潰家二軒、大破一八軒の被害は、内容的に見
ても徳倉より軽微といえる。柿田は溶岩台地の末端に位
置し、地震に対しての地盤は徳倉より良いといえる。他
の東海道筋の長沢・八幡・伏見・新宿なども柿田のよう
すからみて、少なくとも半数以上の家に被害があったと
想像できる。的場贄川氏は家作が大破したという(資Ⅳ
―257)。
代官江川英龍は、地震発生直後に幕府に救済資金の放
出を願い出て、十一月十二日には箱根・三島・原・吉原
など宿方だけで臨時に三五八五両の貸付を達している。
もちろん村方にも救済資金の貸付が行われ、徳倉村には
五四両が貸与された。この時期を示すのが「地震被害に
つき拝借金請取書」(資Ⅳ―254)で、先に潰家一軒につき
一両三分ずつ一八軒に三一両二分が貸与され、さらに半
潰・大破一軒につき一両一分ずつ二四軒に二二両二分が
貸与されている。徳倉村の後半二二両二分の受取書を提
出した日付は十二月二十四日である。柿田村は先に一五
両二分、後から一〇両二分を支給され、計二六両を徳倉
同様潰家二軒に三両二分、大破一八軒に二二両二分を貸
し付けている。柿田村の「奉請取拝借御金之事」(江川文
庫2907)の提出日付も十二月二十四日である。
この場合突発事態であり、不作が飢饉となっていく過
程のように準備をする余裕もない。さらに被害範囲も大
きく、救済資金放出が急がれたため、十二月二十四日の
段階では返納年限や年賦も決定しておらず、「追って仰せ
渡さるべく旨承知かしこみたてまつり候」となっている。
通常このような返済には[馬喰|ばくろ]町御用屋敷貸付金と韮山代
官貸付金の二本立てを利用して、低利長期返済仕法を組
むのである。この返納は後に卯(安政二年)より子(元
治元年)まで一〇か年賦となり、柿田村は元治元年(一
八六四)十二月永二貫六〇〇文・包分銀(両替商手教料)
永二文二分・下賃永七文八分を納入している。二六両を
一〇か年永二貫六〇〇文ずつであるから、完全に無利子
である。したがって、この二六両に関しては韮山代官貸
付金を使用せず、幕府直接の無利子貸与となったことが
わかる。幕府も広域災害を考慮して破格の一〇か年賦と
したものであろう。
徳倉村には、幕府の命令で天明の飢饉後の天明八年(一
七八八)よりこの嘉永七年(一八五四)まで六六年間積
み立てた籾三〇石七斗一合・麦一七石二斗二升九合・稗
二斗六升六合と、天保の飢饉後の天保九年(一八三八)
より嘉永七年まで積み立てた稗一一石四斗五升があっ
た。天保の飢饉後災害に備えて稗を作付地の三〇分の一
に仕付けさせるのは代官江川氏の仕法で、君沢郡天野村
(『伊豆長岡町史』中巻)にもみられる。この貯穀を大潰
七分・半潰三分の割合で分配した。大潰の一八軒には男
三二人・女小供五〇人がおり、男一人に籾二斗八升・麦
二斗二升・稗一斗四升、女一人に籾一斗五升・麦一斗・
稗七升が分配された。半潰の二一軒は男四一人・女小供
六五人、男一人に籾一斗・麦七升・稗五升、女一人に籾
四升五合・麦三升五合・稗二升五合が分配された。
柿田村にも天明期より貯夫食があったことは、天保二
年の「沼津藩上知分諸税御料並伺」(資Ⅳ―28)にも明ら
かである。したがって、徳倉村同様の放出・配当があっ
たであろう。
徳倉村にとられた応急処置は幕領の村方には均一に行
われたであろうが、災害復旧は領主ごとに異なったはず
である。徳倉村では、山崩れにより田方に入った土の除
去などを自前で行おうとしたが、ことのほか難事であっ
たこと、土砂が川に入り、杭木出・石出などの措置を取
らねばならないことなどを理由に、安政二年二月、四給
領主に復興拝借金を願い出た(資Ⅳ―256)。
以上、幕領について述べたが、大名領・旗本領の救済
は順調でなかったはずである。安政元年地震の扶助もま
まならない翌二年十一月江戸は大地震となる。大河内氏
は自らの屋敷復旧のため的場村に五〇両の拠出を命じて
いるほどである。