[未校訂](八) 嘉永七年(=安政元年)の大地震 ペリーが浦賀
に来航した一八五三(嘉永六)年は、その干支から[癸丑|きちゆう]の
の年として幕末・明治を生きた人々の記憶に残った。みずのとうしこ
の年と翌年のペリーの二回の来航と同じ年、一八五三(嘉
永六丑)年二月(嘉永小田原地震・マグニチュード推定
六・七)と翌[寅|とら]年(一八五四・嘉永七年、十一月に安政
と改元)十一月に、関東周辺に二度にわたる大地震が起
こり人々の生活を脅かした。ここでは裾野市域に残る嘉
永七年の史料によって、マグニチュード八・四といわれ
る(『県史』別編二)寅年の大地震の様子をみてみよう。
葛山村
葛山村には、寅年の大地震の際の領主旗本松
平伊予守から下賜された「[従|より]御上様、当寅大
地震ニ付御救割合帳」が残っている(『同』三―一七二号)。
当寅十一月四日朝五つ時、[古来稀|こらいまれ]なる大地震につき村
内大破損致し、御注進申し上げ候処、御上様より御救い
御慈悲として下され候義は、高百石に付金六両当たり、
御部(奉か)行一同え下し置かれ、[有難|ありがた]く[頂戴奉|ちょうだいたてまつ]り候
四日朝五つ時という時間は、次の茶畑村の史料でも確
認できるが、今でいえば午前八時頃大地震は起こった(県
内には四つ時と記す史料もある)。このとき村高四一七石
余の葛山村に対し、御救い金として金二五両一分余りが
下賜されている。葛山村では、このうち銭八貫五百文(銭
一貫文は一文銭一〇〇〇枚に相当する)ほどを格別[難渋|なんじゅう]
であった政吉・金右衛門・伝左衛門の三名に優先的に分
配し、残りの居宅は皆で順に修築する(史料では「送り
廻しに家直し」とある)ので、そのために[釘|くぎ]を三種類三
二四八本・計一四貫九〇三文購入している。残金の半分
は一軒当たり銭九〇八文宛七〇軒に分配し、残りを高一
石につき銭一八一文四分として失地(地震による荒れ地
か)の復興に充てている。この金で、馬屋・下屋・その
他破損個所をも直すのである。
茶畑村
それでは、実際の被害はどの程度であろうか。
小田原藩領の茶畑村の場合、領主側の潰れ家
見分の際の案内帳が残っている(『同』三―一七三号)。
それによると、名主甚太郎家では居宅と小家七軒・隠居
屋一軒が潰れたというように、被害を一軒ごとに合計し
て書き上げてある。全体は次のようになる。
二百十九軒 この訳
八十二軒 ○居宅本潰れの分
四軒 隠宅本潰れの分
五軒 土蔵大痛み
百四軒 ○小家の分
二十四軒 ○居宅半潰れ
数え方は必ずしも正確ではないが、居宅本潰れと半潰
れを合計した百六軒が、今回の地震で居宅に被害を受け
た家である。この頃の茶畑村の家数は一三六軒なので(柏
木正男氏所蔵「小田原領駿河国駿東郡御厨茶畑村切支丹
宗門御改御帳」嘉永六年)、村の七八パーセントの家が住居に被
害を受けていることになる。
小田原藩でも、この災害に対し貸付金という形で援助
を行った(『市史』三―一七四号)。対象は神山(御殿場
市)・石脇・佐野・公文名・茶畑・麦塚・二ツ屋・平松新
田(以上七か村は裾野市)の八か村で、総額は三三〇両
二分にのぼっている。その金額を八か村で比べてみると、
茶畑村が一四九両二分で全体の四五パーセントを占め、神山村
二両・石脇村八両、佐野村六三両・公文名村五七両に比
べても圧倒的に多額である。これは茶畑村が他の村に比
べて家数が多く、先の調査のように極めて多くの被害家
屋が出たためでもあろう。
この他、麦塚村では田方で「[地震荒|じしんあれ]」という名目で年
貢引きが行われ、葛山村では[野馬|のま]や[猪鹿|いのしか]よけの土手が崩
れるといった被害もみられる(『同』三―一七五、一七六
号)。