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項目 内容
ID J3000802
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔嘉永聞観史中〕大阪府立中之島図書館蔵
本文
[未校訂]諸國地震損亡夏の記
[附|つけて]いわく 当六月の地震甚しといへとも 冬の地震
に比れバ 損亡[地度|ちのはゞ]尚軽し 故に是には只地震とし
冬の部に大地震トすへし 又津浪の一條もありぬべ
き事なれハ 地震の[形勢|ありさま]さへも冬の條に詳にし
こゝには省略して只損亡を名状せん [看宦|みるひと]委細ハ後
にあらん
[且説|さても]嘉永七年 六月十四日夜子の半時より其時国々によって大同
小異あり諸国大に地震して 人家倒れ人多く損亡せり [大|おう]
[率|むね]を記さん 最甚しき国々ハ大和・伊賀・近江・越前・
山城・丹波・攝津等なり その余の近国ハ又[無異|ぶじ]とす
へからず
大和國奈良
六月十四日夜八ツ時過なり 大地震ゆりはじめ 大小
とも[数度|あまたたび]震動し 彼方此方と人家崩れ 又々朝六ツ
時に大ニ震 是が為に市街の並家 悉く倒れ大ニ驚く
人々ハ 早々廣き空地へ走出 又ハ野外や竹[篁|やぶ]によう
〳〵命ハ助りし人もあり 我家を出おくれ倒るゝ家に
打敷れ 或ハ落くる瓦にて怪我する者数をしらず 死
人も又々あまたあり 市中南ハ清水通り残らず崩 木
辻の四ツ辻より十軒ばかりくずれ 鳴川丁ハ八分通り
倒れ 北ノ方西手にて貝通りにて三分残ル 北半田丁
南北大くすれ 川久保丁 細川丁 北向丁 北風呂辻
子丁 此辺別して厳しく不㕝なる家一軒もなし 死人
凡百三十人 怪我人不知員といへり 春日大明神の石
燈籠 悉くこける 三笠山鳴動せり尚々[日数|すじつ]時々に鳴
渡る [市|まち]に鹿一疋も居ず皆山中に恐隠るゝ 元興寺五
重の大塔の [疊|ちゃう][上|〴〵]の家根落る 西の京の宝塔も上に
て少し傾く 興福寺を始め諸寺宮方の筋塀 悉く崩れ

同国郡山
同夜同刻大地震 南都に等しく町々無異なる家ハ 壱
軒もなし 柳町一丁目より四丁目迠凡七八十軒倒る
其外[丁|まち][々|〳〵]右に同じ 大崩弐百軒余ハ体もなく 半倒
の家凡七百戸あり 死人凡七十五人 怪我人多し
同国古市
同子の半時より大地震 翌朝まで度々大ニ震 町家残
らず崩れ 其上此所にハ殊に憐なる事あり 鳴呼凡夫
の為業や神ならぬ身は誰か知らん 去年の夏より秋の
末までの大旱魃に名にしあふ此国ハ海なき山国の 水
不自由にて耕作ハ愚か 食料の水も乏て一切火坑の〓
鬼ならで いと〳〵難渋なりしかバ 莊宦村長談合し
て 宦の御赦ありしかバ 雨雫の集合なす 山の凹な
る要利の地に大なる溜池三ヶ所堀 水を湛へし後の為
かくして[置|おけ]ハ行末に旱の時の用に立豈妙ならずや利な
らずやと喜び合て[為有皃|したりがほ] 是や時節到来して 我身の
為に禍をこゝに[業|なす]とハ 不知火の此も尽しか今夜さの
大地震動なす時に 彼溜池の水溢 渕くずれ 地震の
最中へ 洪水の落くる[如|ごと]に尚々驚怖し 何方が西やら
東やら途を失なふて[惘周章|あきれあわて] 家も人も流れ失 死傷の
人かずしれず 誠に〳〵憐至極ときく 大人百五十人
斗小児丗七人 怪我する人夥しとなん 亦長谷近辺ハ
地震の中に大夕立して 其水[螺|ほら]の出たる[形|ごと]く山家三四
軒流る
伊賀国上野城下
同時の地震して 当城大手御門大ニそんじ 市中凡六
分崩鍵の辻より 出火して黒門前まで焼失し 又嶋の
原という處より 大門原と云處まで 道の[面|おも]一圓に泥
水を吹出し [今時|こんど]の大地震に最大一甚しきと云々 死
人凡弐百余人 怪我人かずしらず
伊勢国四日市
同夜同刻よりゆりはじめ 朝まで大地震なる事前々に
同じ 昼五ツ時時分より出火して 崩家とも四百七十
軒斗り焼亡 両㕝の変に死傷の者数かきりもなし 凡
五百を以可数
山城国南方木津ノ辺
同十四日の同夜より大地震なり 虚空に墨を流すが[像|こと]
き雲東西南北に立登り 或は舞下り 笠置山より泥水
吹出し 大地裂割此辺一圓の大水となり 崩家十軒五
軒ほとづゝ 洪水に流れ身命を助るも 迯行に途なく
死亡の人相不分明 十五日の[午|ひる]時ころに洪水は跡な
くなりぬ
越前國福井城下
此は又六月十三日の辰ノ時過より 塩丁・鍛(カ)屋町辺失
火にて[今節|おりしも]烈き大風に 城下不残焼亡し 市街凡二百
町 寺院百ヶ所 両本願寺とも焼尽し 近郷の在家凡
十ヶ村ほど火災にかゝり 其夜四ツ時に[鎮火|ひヽづま]りけり
民家残り少なく 烏有となり [宛然|さながら]廣々たる武蔵野の
昔小金原も[是|かく]やあらんと 無尽の歎□方なし 旧話に
四阿も賤が伏屋ハ尚勝る 形ばかりなる板家根の仮に
儲る今日の混雑 建も直さぬ其内に 日も入相を程過
て [寝|ねよ]との鐘に旅ならぬ 艸の枕に草臥て前後も知ず
臥にけり かゝる所へ思きや天地も崩るゝ大地震 地
ハ烈割つ 残る家ハ皆々崩れて こゝにも死人七十五
人 怪我人かずもしらず 夢幻の憂世とて眼も当てら
れぬ㕝どもなり
近江国大津ノ宿
大津近辺も同時の地震大ニ震ひ 石場の船乗場の大[燈|とう]
[籠|ろう]湖水へたをれ 同所[監|かん]船所同く横死両三人あり
同国信楽
同大に地震し 人家土蔵大ニ破壊す 家数南北弐百五
十軒余 土蔵廿七八ヶ所 死傷の人又多し 且又丹波
ノ國亀山も 同地震なり 然れども此所にハ損亡を[聞|きか]
ず [題外|そのほか]にも大和・伊賀・河内・山城の南方山中又ハ
賤の離家なぞハ 谷へ転び落 崩れ倒るヽも多く 死
亡の人もありぬれと 記すに暇あらず推て可察
摂津国大坂
当地ハ六月の十三日に 午時過地震ちょっとゆり 十
四日の夜再び大地震 晨朝まて大小とも数度なり [然|さ]
れど崩家ハさらになし 壁塀のそんじ 戸障子の[〆明|しめあけ]
ハ人家の[横方|ゆがミ]しなるへし 庭前なぞの石燈籠ハ倒し方
多し 萬人誰か[恐|おそれ]ざらん 野宿川船に夜を明せり 市
中の門戸に鹿嶋大明神の御神詠(ママ)なりとて咒文の和哥を
はる 歌にいわく
[動|ゆるぐ]とも よもやぬけまじ 要石
[鹿神|かしま]の神のあらぬかぎりは
其後七月八日の頃までも 時に震ひ安き心はなかりけ
り 此度の地震ハ大和・伊賀・近江・越前・伊勢等ハ
甚しく 又山城・河内・摂津・丹波・和泉等を次とし
尚近国も[是無|これなし]とすべからず 余ハ枝葉の如し 誠に筆
にも述難大地震なるに 当浪華ハ人家とも且て損亡あ
らざれバ市民互ひに無㕝を悦び皆々[徒黨|つれだち]して[生神|うぶすな]の
社内にて 御千度をするめり 我や一と華美を錺り
町々を踊[歩行|あるく]一入賑わし○今條迠ハ地しんの一件を尽ス次より又六月としるべし
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 521
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 大阪
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