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項目 内容
ID J3000435
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔五和町史〕○熊本県天草郡五和町史編纂委員会編H14・12・25 五和町発行
本文
[未校訂]寛政の大津波江戸時代の当地の災害で最大のもの
は、寛政四(一七九二)年の雲仙崩れ
に伴う大津波であろう。当地に津波が押し寄せて、家屋・
田畑が押し流され、人畜にも被害がでたのは四月一日で
あるが、その原因となった対岸の嶋原雲仙岳異常は、そ
の前年の一〇月ごろから始まっていた。「寛政の大変災」
(『嶋原半島史』下巻)は次のようにある。
 前年の一〇月八日の地震以来、毎日三回から四回は地
下が鳴って地震が続いたが一一月一〇日ごろから、地震
がだんだん強くなって眉山の土石が少しづつ崩れおち
た。あけて正月になると山岳がしきりに鳴動してやがて
大砲のような響きを聞くようになった。
 正月一八日夜中一二時ごろはげしい地震と共に一大音
響を発して普賢祠前に大噴火が起こった。噴煙は濛々と
して天をも焦がす光景であった。
 その後噴煙は次第におとろえたが鳴動はますます強く
なり、二月四日には穴迫谷が鳴動してしきりに岸壁が崩
落、六日になるとさかんに泥砂を噴出し九日になるとつ
いに火を噴出した。溶岩は谷を伝って東方に流れる。こ
の光景を見た住民は非常に驚いたが次第に慣れてきて、
遊観者も殺到し、にわか茶店酒舗もでき、歌謡三弦の音
が山野に充満するありさまであった。
 ところが三月一日午後四時ごろ非常に大きな地震があ
った。そして眉山が唸りだし、そのたびに眉山の岩石や
砂が崩れ落ち、この夜は三〇〇度余の地震があり障子の
外れるほどのものが六度もあった。二日も三日も同様で
人々は他村に避難するものもでてきた。この地震のため
に嶋原方面には東西に亀裂が出来て、しかも始めは一
~二寸の幅であったものが地震のたびに一尺程にもな
り、深さは計り知れないほどであった。石垣もほとんど
崩壊し安徳村や今村などでは家屋も崩壊し人畜の被害も
多くなった。三月九日には眉山の一角が八~九〇間ほど
東の方に崩れ落ちた。
 しかし三月中旬になると地震もややおさまったので、
避難していた人々もおいおい自宅にかえっていたとこ
ろ、四月一日午前七時頃突然二度の大地震と共に大音響
がおこり眉山の前半が頂上から麓まで裂けくずれて前海
に落ち込んだ。山からは山水が溢れ出し、海からは津波
がおしよせ、それが一つになって嶋原市街のほとんど全
部を壊滅し、阿鼻叫喚の修羅場と化し、罹災者の惨状は
じつに言語に絶するものがあった。
 このときの被害は地震による被害も勿論であるが、も
っとも大きかったのは地震に伴う眉山の崩落と、そのた
めにおこった津波の害であった。
 当時天草は嶋原藩預かりの時代であったし、しかも雲
仙岳は目と鼻の対岸で、津波は直接天草にも押し寄せた
ので天草にとっても大変であった。この時の天草の被害
については、同じ『島原半島史』に次の様に書いてある。
托地天草郡、流蕩民屋三百七十余戸、溺死三百四十
三人(男百四十八人、女九十五人)屍牛馬百九匹(牛
四十五匹・馬六十四匹)耗水陸田六十余町、云々
また、富岡町庄屋、荒木市郎左衛門日記には、
一、同年四月朔日、夜六ツ半時(午後七時)頃、此
の辺冨岡あたり高潮にて、平日より潮之高さ弐尺
(約六〇センチ)ほども余計にみち、直ちに引く。
両度満ち磯辺へ干し有之候麥など流し申候
一、二日昼頃に成り、郡中本戸其他須子・赤崎・大
浦辺より追々御届け申来り候は、夜前津波にて海
辺附き家打流し、死人何程と申す数不知候由、大
矢野よりも追々届け参り、田畑潰流し右に同じと。
一、同二日、当時御吟味方に付御廻村有之候島原表
より之出役郡奉行川村筋右衛門様・大目付服部平
兵衛様、当陣屋後滞留にて御座候処、二日昼九ツ
時(正午頃)町庄屋御呼出しにて、被仰付候は何
分島原表心許無し、依之御伺いの為島原へ罷越し
度く舟用意会所へ相談いたし、早々出来候様と之
儀に有之、かくて同日八ツ時(午後二時頃)御出
船にて、二江島迄暮(ママ)ツ頃御着、(筆者も)右舟に追
付き同夜は共に島へ滞舟、翌三日朝六ツ(午前六
時頃)堂崎沖へ参り様子相窺い候処、安徳沖へお
びただしき島数、地方より壱里半程も沖へ有り
皆々肝をつぶし候。何しても御城竝御家中町屋心
元無しと覚え、段々右嶋島之沖へかかり候処御城
は相見え申し候。夫より三会の方へ志し参り和田
町御門の下に舟揚り、一行町庄屋お供にて三の丸
へ罷出同日七ツ時(午後四時頃)三の丸に於て、
平野弥三郎様・川鍋左源太様に御逢い被遊候。(中
略)
右此節の大変古今に無之と申す儀に御座候。且又
海中に流れ有之候家財其外死人等、大瀬戸より肥
後地の方に掛け広き海に少しも透き間なく、勿論
肥後長州より三角迄津波にて打流し候家数何万と
申す数に及び、田畑荒れ所御城下町中皆山に相成
申候。云々
とある。
 当時富岡には御吟味廻村のため郡奉行川村筋右衛門と
大目付服部平兵衛がきていたが、この大変にあって急ぎ
帰ったのに富岡町庄屋荒木市郎左衛門が随行しての記録
である。
 この記録によれば、この時被害が特に大きかったのは
肥後地では島原対岸の長洲から三角辺までのようで、富
岡では二尺ほどの高潮とある。町域では津波の直接の被
害よりも、むしろその後数日にわたって流寄る死体の埋
葬が大変であったようである。
 当地の記録には、御領正蓮寺と鬼池光明寺の過古帳に
その記録がある。御領正蓮寺の過去帳には、
寛政四年子三月朔日ヨリ四月朔日マデ大地シン昼夜
不止シテ前山崩其ノ上津波、嶌原城下家悉滅、御城
鉄砲町残り、同嶌の内堂崎其他村々津波家流レ人損
数不知、肥後長州・川内其外村々人損家流ル事数不
知、凡肥後国中七萬石大破、天草破損本戸・上津浦・
下津江・筋(須子)大浦・大矢野迄家人数々津波 前
代未聞ノ大変
とあり、鬼池光明寺の過去帳には、「釋浄圓 寛政四壬子
年四月 右亡者潮ニオホレ候者沖ヨリツミ来当所ニ葬
ス」
とある。次に一三人の法名が列記され、その上欄外に、
浄圓以下ノ十三人嶌原崩ニテ波ニタタヨイ来レルヲ
トリ上ケ葬之、崩レノ事三月朔日ヨリ大地振昼夜不
断ニシテ四月朔日マテ古来希レナル事ナリ、朔日ノ
夜五時ツナミ出テ谷ナリ山崩テ九十九ノ島々夜中ニ
現ス、夫ヨリ手足ヲ破リ命ヲソコナフモノ数ヲシラ
ス、依テ潮ニ漂へルモノヲ拾ヒ葬シテソノ法名ヲコ
コニ示スト云爾
とある。日付は四月七日が四人、八日が二人、一〇日が
二人、一一日が一人、一八日が一人、一九日が一人記録
されている。
 関係遺跡としては御領大島と二江須の脇に写真のよう
な溺死者の供養碑がある。
参考文献
林銑吉編『島原半島史』下巻 長崎県南高来郡市教育委員
会 昭和二九年
松田唯雄「荒木日記に現れた雲仙岳の大爆発」『松田唯雄
遺稿集』(一) みくに社 一九八九年
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 337
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 熊本
市区町村 五和【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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