[未校訂]1 津波と飢饉
宝永の津波
紀州は、地震国とされるほど地震の発生
が日常化し、しかも周囲を海に囲まれて
いるため、常に津波の被害にさらされていた。江戸時代
にも数多くの地震や津波が田辺の地を襲った。田辺に記
録があるものでも、元禄十二年(一六九九)九月一日に
「寅中刻大地震」とある。また、同年十二月八日には「八
日之夜明時分より浦々江あびき強上り、新庄御公儀御蔵
などへ潮入申由、其外新庄跡之浦など田地麦作破亡有之
由、爰元堀土橋まで潮入ル」(『田辺町大帳』)とあり、北
米で起こった地震(都司嘉宣・上田和枝・佐竹健治「日
本で記録された一七〇〇年一月(元禄十二年十二月)北
米巨大地震による津波」『地震』五一―二)による津波の
影響で、潮位の上昇が見られ、新庄村や跡之浦では田畑
にも被害が出たようである。
その中でも、とりわけ大きな被害を受けたのが、宝永
四年(一七〇七)の大地震である。『田辺町大帳』によれ
ば、十月四日未の上刻(午後一~二時ごろ)に大地震が
あり、土蔵や古家などをゆり動かし、ほどなく津波が押
し寄せた。居宅には床から五尺ほども波が打ち寄せ、老
人や子供のなかには波にさらわれた者もいた。また牛・
馬・犬・猫・鶏が多数死亡し、田辺の町で二四人の死者
が出た。町方でも特に本町筋は半数以上が流出し、片町・
紺屋町でも過半が流出し、江川は残らず流れたため、飢
え人が多数出た。地震津波の時、蓬萊山など近くの山に
いた人の話によれば、山から下を見れば、町江川の人家・
漁船・廻船などがおびただしく山の[麓|ふもと]へ流れ着いていた。
日暮れまでに二~三度大波が打ち寄せ、「天地も崩ルル様
ニ覚へ」、命が助かったことのみを安堵した。そのうち引
き潮となって日暮れに向かうと、山から見れば、[松明|たいまつ]や
[提灯|ちょうちん]を持って道具類を拾い、[櫃|ひつ]・戸棚・長持ち・[簞笥|たんす]の
ようなものを打ち砕き、盗み取る音が聞こえ、それを咎
める者もなかった。町中には人気がなく、盗人が入り込
み、流れ残った家財道具なども多数盗み取られているよ
うであった。いずれにしても前代未聞の無秩序による大
混乱が起こったのである。
その被害のようすは、次のようであった。大橋・小橋
は崩れて、伊作田村あるいは夙浦にまで切れ切れになっ
て流されていた。翌五日の人家被害調査によれば、町方
で被害を受けた家数四二一軒のうち一六四軒が波に流さ
れ、一三八軒が地震で[潰|つぶ]れ、一一九軒が大破した。蔵は
八一か所のうち六か所が流され、七五か所が潰れた。江
川において被害を受けた家数は、二八〇軒であり、その
うち五五軒が潰れ、二二五軒が流された。蔵は一六か所
のうち九か所が潰れ、七か所が流されたという。流され
て水死したのは二一人で、七人が町、一三人が江川(う
ち男三人、女一〇人)であり、江川では馬一疋が流され
て死んだ。
被害者への救済には、米が貸し下げられた。江川では
庄屋・年寄・渡し守・肝煎などに二五俵、町方では片町
へ九俵、袋町へ七俵、紺屋町へ一〇俵、本町へ六俵、南
新町へ一〇俵二斗の合計米六七俵二斗が下された。さら
に、「町江川小屋掛ケ仕竹木藁縄之為代」とあるように、
被災民のための仮設小屋建設費用として米二五俵が下さ
れたようである。
田辺の町・江川以外の被害状況については、「宝永四年
亥十月四日 大地震大波書上ケ」(田辺市立図書館所蔵文
書)によって田辺組の状況が明らかになる。西ノ谷村で
は五一軒が被害を受け、そのうち二一軒が流家、一九軒
が潰家、一軒が流蔵、一軒が流稲屋、三軒が潰稲屋、二
軒が流牛屋、三軒が潰牛屋、一軒が流馬屋であった。他
に船二艘が流船となり、二人(男一人、女一人)が流死
した。目良村では、一一軒が被害を受け、そのうち五軒
が流家、一軒が流稲屋、三軒が潰家、二軒が流牛屋であ
った。津波は松原村の御蔵家一軒も襲い、そこに納めら
れていた米三八俵が被害を受け、そのうち一四俵が濡米、
二四俵が流米になった。糸田村では、四軒が被害を受け、
そのうち三軒が流家、一軒が流稲屋であった。神子浜村
では、七八軒が被害を受け、そのうち二六軒が流家、一
七軒が流稲屋、一三軒が流牛屋、一六軒が潰屋、六軒が
潰稲屋、五軒が潰牛屋であり、一人が流死し、牛一疋も
流死した。湊村では、六軒が潰れた。敷村では、三六軒
が被害を受け、そのうち二〇軒が流家、一六軒が潰家で
あり、一人が流死している。新庄村では、四二六軒が被
害を受け、一八五軒が流家、一九六軒が流稲屋、四〇軒
が流牛屋、五軒が流蔵となった。同村にあった御蔵二軒
も流され、そこに納められていた米一八〇俵が流された。
他に、三人が流死し、牛三疋も流死した。伊作田村でも、
一六四軒が被害にあったようである。
そして同史料によれば、田辺組では、二六〇軒が大破
で流され、五五軒が地震で潰れ、七人が死亡した。御蔵
三軒が大波に襲われ、そこに納められていた米二〇四俵
が流されたと田辺組の大庄屋から郡奉行へ報告してい
る。このように、宝永四年の地震は、大地震による人家
の倒壊などの被害だけでなく、むしろその後に起きた津
波による被害の大きさが特徴であったといえよう。それ
ゆえ、田辺領の沿岸地域において多大の被害を生じたの
であった。
宝永地震については、「地震洪浪の記」(田辺市立図書
館所蔵文書)にも、当時八歳の子供であった人が次のよ
うに回想している。「宝永四丁亥十月四日四つ時過、晴天
にて髪毛も動かぬ海面にて」「我等浜へ遊に参り候、鳥水
をあび、静かなる日と覚申候、浜ほり戻り飯給申処へ、
地震動り出し石垣はくわらくわら崩れ、暫くすると浜よ
り津波と呼わり、宮の上へ逃上り候」とあるように、波
静かな海面が地震の後の津波により一瞬に変化したよう
すがうかがえる。それほど、津波は何の前ぶれもなく、
突然住民の生活を一変させる恐ろしいものであった。
なお、それ以降も地震は田辺地方をしばしば襲ってお
り、『田辺町大帳』にその記録が見える。享保元年(一七
一六)十二月には、「極月六日之夜大地震」とあり、大き
な地震が田辺を襲っている。さらに同十二年正月二十三
日には「大地震数度」とあり、大地震が数度見られた。
同二十四日にも「夜地震数度」、同二十五日にも「夜同断」
とあり、数日この地震が続いたようである。いずれも、
夜に発生したようであり、その恐怖は相当なものだった
と思われる。