[未校訂]第三節 災害と村々
(一) 元禄大地震
(前略)
地震当時の当地域の様子を、茶畑村の名主柏木甚右衛門
が書き残した「覚書帳」の記事からみてみよう。
一七〇三(元禄十六)未年十一月二十二日、晩八つ時分
(午前二時頃)に大地震が起こった。小田原城は「すきと」
(すっかり)潰れてしまい、その上火事で焼失した。石垣
も皆崩れ、町屋も皆潰れた。その上、筋かい橋から本町・
高梨町・青物町まで残らず焼け、町外れの家は潰れるだけ
で済んだ。御家中家臣の家も残らず潰れ、その半分は焼失
した。箱根町も皆潰れた。御厨地方は、茱萸沢村より北の
竹之下村までは家が全壊であるが、こちら側の神山村から
下は潰れた家はない。但し、戸や羽目・壁は損傷した。ま
た、家によってはだいぶひずみが出て歪んだままの家もあ
った。
この記述によると、小田原城を始め小田原地域の被害が
大きいのに対し、裾野市域は幸い比較的小規模の被害で済
んだようである。先の死亡者数も駿河領は一桁少ない。
このことは、公文名村有井陽一氏所蔵文書でも「元禄十
六年[未|ひつじ]ノ十一月[廿|にじゅう]一日[之|の]夜大地震、冨士山ノ[麓|ふもと]ハ[別而|べつして]強
ク、家タヲレテ(倒)人馬多ク死ス、小田原御城も町[共ニ|ともに]同時ニ
タヲレテ、焼却ス、人馬[夥|おびただしく]敷死、城主ハ大久保加賀守殿
[也|なり]」とあっさりと触れているだけで、市域内の被害は記録
されていない(「高田氏重代之旧記」)。
ただし、深良用水の[隧道|ずいどう]には、初めての大きな被害が出
た。翌一七〇四(宝永元)年の茶畑村柏木甚右衛門の口上
書では、肝腎の箱根掘り抜きの隧道部分に崩落が見られ、
新川土手も破損したようである。これに対し、御宿村の湯
山平次郎・茶畑村の柏木甚右衛門(この両名は水配人であ
る)が立ち会い修復普請を沼津代官に願い出たところ、
村々名主の連判を差し出すよう指示があり、早速御宿の湯
山家で名主の[寄合|よりあい]を持ち、連判の願書を差し出した。この
結果、間もなく補修普請は完成し、田地の仕付けも無事終
了したという。
しかし、地震は収まったわけではなかった。甚右衛門の
記録によれば、十一月から翌年六月にかけて、四・五日に
一度、三日・四日に一度といった地震が頻発し、それは翌々
年の[酉|とり]年まで、十日・十五日に一度という具合に続いたと
いう。甚右衛門は、これ以前の一六八五(貞享二)年十月
二十六日の朝、「大ない」(地震のこと)があったことも記
録している。