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項目 内容
ID J2901145
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸・南関東〕
書名 〔高橋景保の研究〕上原久著S52・3・31 講談社発行
本文
[未校訂]6 安政地震の被害
(1) 役宅・住居の修復
1 修復拝借金
 安政2年(1855)10月2日四つ時江戸を中心にし
て一大地震が起った。いわゆる安政の大地震である。
 幕府は応急の措置を発令した。余震も漸く収った12月
に至って、景佑は「地震ニ付住居向大破ニ相成候者(1)」とし
て、手附手伝1名・手附下役1名の「高・姓名・宿所書付(2)」
を届出たが、更に3年正月15日に至って、部屋住ではあ
るがその居住家屋が大破した配下の者6名についての書
付を勘定吟味方葦名重次郎に渡した(3)。23日になって重次
郎から拝借金についての取計方が連絡された(4)。
 配下の者だけでなく、天文方の各人もまた少なからず
被害があった。2月に至って下役と同様に禄高・役職・
役宅を書き、天文方渋川助左衛門・山路弥左衛門・足立
左内・山路金之丞、天文方の見習渋川膳司の連名を以て、
修復のための拝借金は、高割りを以て下附されるのかを
問合せた。
右者昨卯年十月二日夜地震ニ付、御役宅向御道具類
小屋迠破損仕候ニ付、其砌夫々取調御修復之儀申上
置候、然る処銘々住居手前建之分一同破壊不少難儀
仕候、依之昨年拝借金被下金之儀ニ付、厚キ被 仰出
茂御座候ニ付、拝借御叔金之儀高割を以被 仰付被
下候儀ニ可有之哉、此段及□□(5)合也(6)。
 3月に至って拝借金の沙汰があって、請取証を提出し
た。
御役宅飯田町九段坂上住居大破相成候御鉄砲・御簞笥奉行格
一、金三両弐分 高弐百五拾俵
但、御役宅ニ付、四半減天文方渋川助左衛門
(山路弥左衛門・足立左内・山路金之丞略)
合金九両弐分
右者去十月二日夜地震ニ而御役宅住居罷在候処、大
破相成候ニ付、万石以下為拝借金高並之四半減請取
申処実正也。但返納之儀者来巳ゟ寅(7)迠十ヶ年賦返納、
皆済之節此手形引替可申候。仍如件(8)。
 天文方見習の渋川膳司も同様願書を提出した。この方
の拝借金は、部屋住のため四半減であった。
請取申金子之事
金壱両
但、部屋住ニ付四半減
右者去十月二日夜地震ニ而御役宅住居罷在候処大破
相成候ニ付、百俵以下為御救金請取申候処実正也。仍
如件。
安政三辰年三月 渋川膳司(9)印
2 修理の完了
 役宅や居宅の損害だけでなく、測器類の破損も甚しく
使用不能の状態にあって、かねて修理方を願出ていたが、
修理未了の間にも2月の火星退衝、3月の月食の予定期
日が次第に迫るに及び、景佑は正月28日登城の節作事奉
行中川飛弾守に修理促進方の書付を手渡した。
九段坂測量御用御測器類其外共、去十月二日夜大震
ニ而頽壊いたし候ニ付、其節取調廉々御修復申上置候
内、子午線之儀者測量御用中日夜必要之品ニ付、一先
御仮物を以御修復御座候様仕度段申上置候儀ニ御座
候。然ル処来月廿八日火星退衝ニ御座候間、右本日前
晴天十日程も試測仕候儀、殊更三月十六日月帯食之
儀も同様試測いたし、暦面与合之儀御届申上候間、
前条御測器来月十四五日頃迠ニ御取建無之候半而者
欠測ニ相成、甚御差支之筋ニ御座候間、此儀尚又御達
申候(10)。
 即日修復の手配がなされて(11)、2月13日には修理完了の
旨を届出た。
去冬十月大震ニ而御測器類破損仕候ニ付測量相休居
候処、此程追々右御測器御修復御出来相成候間、昨
十二日ゟ測量相始申候、依之此段御届申上候、以上。
二月十三日 渋川助左衛門
渋川膳司(12)
(2) 自費建築物の再建
1 再建の願出
 景佑は測量所構内に侍部屋・中間部屋を自費を以て建
てていたが、これがまた大地震で全潰した。それを再建
してよいかどうか作事奉行に問合せたところ、差支えな
いといわれたが、同所は将軍のお成の道筋に当るがそれ
でもよいかを、更に徒目付斎藤直蔵を以て目付まで絵図
面を添えて内意を確かめた。
元飯田町九段坂測量調御用所御搆之内別紙絵図面之
通、自分入用を以侍部屋・中間部屋壱ケ所取建置候
処、去十月二日夜大震ニ而皆潰相成候ニ付、此度掛紙
朱引之場所ニ引建直シ致度御座候ニ付、御差支之有無
御作事奉行に及問合候処、何等御差支之儀無之旨申
聞候、乍併右者 御成 通御ママ御道筋ニも可相成哉ニ
付、其段御問合申候。御差支之筋も無御座候ハヽ御
支配方に相伺可申心得ニ御座候。
辰六月 渋川助左衛門(13)
 これに対して当番目付松平久之丞から差支えない旨の
下ヶ札が付いて来た。ここに5月5日膳司登城の節、奥右
筆早川庄次郎を経て改めて越中守(14)に願出た。
元飯田町九段坂測量調御用所御搆之内、別紙絵図面
之通自分入用を以侍部屋・中間部屋壱ヶ所取建置、去
十月二日夜大震ニ而皆潰ニ相成候ニ付、此度尚又掛紙
朱引之場所に引建直し致度御座候。勿論御用之節者
元形之通取建返上可仕奉存候。右之趣御作事奉行に
間合候処、於同所差支無之旨申聞候。乍併御成之節
通御御道筋ニも相成候ニ付、一応御目付にも同様之趣
承合候処、是又差支無之旨申聞候。即別紙絵図面壱
枚相添此儀奉伺候。尤伺之通被仰渡候ハヽ普請取懸
リ日限等御作事奉行并御目付江相達可申心得ニ御座
候。依之此段申上候。以上。
辰五月 於新部屋 渋川助左衛門(15)
2 工事の督促
 8月に至って漸く修理が開始されることになり、5日
四つ時には晴雨に拘らず大工頭松嶋守左衛門以下9人が
大工頭梁を連れて現場に打合せに赴くことに決定し、文
書が取交わされた(16)。しかしそのような進行状態では9月
1日に予定される月食測量に間に合わないので、8日に
至って工事の促進方を申出た。
元飯田町九段坂測量調御用所、去十月二日大震ニ而
損レママ之ヶ所此度御修復御座候内、子午線并象限儀上
屋之儀者、来ル九月一日日食測量ニ差支候故、来ル廿
五日迠ニ御出来御引渡相成候様致度候。此段御達申
候。以上。
八月八日 九段坂測量調
御用所
御作事方
(17)3 仮引渡
 10月に至って修理完了のものについて、仮引渡があっ
たが、勘定方・作事方・目付方の連書で提出された書付
は、作事奉行名で次の如きものであった。
中川飛弾守
九段坂測量御用所御道具上家并
御役宅向其外共御修復所之内
一、子午線儀上家象限儀上家共
一、司天臺并御用所
一、腕木門・潜門・裏門・丸太柵共
右出来候ニ付渋川助左衛門江仮引渡仕候。且此後
追々出来之ヶ所同様仮引渡仕置、出来栄見分之儀者
追而皆出来之上、一纒申上候様可仕候。依之此段申
上置候。以上(18)。
4 工事完了
 一切の工事が終了して完全に引渡されたのは、地震以
来1年以上を経た12月で、景佑は越中守(14)宛に次の届書を
差出した。
九段坂測量御用所御道具上家并御役宅向其外共御修
復出来ニ付、昨十六日御作事方ゟ請取申候。此段御届
申上候。以上。
十二月十七日 渋川助左衛門
(19)

(1)(2) 九段坂測量所「御用留」(安政3年丙辰、―
東北大学所蔵―)pp.12a~13b。
(3) 同上、pp.16b~18a。
(4) 同上、pp.18b~19a。
(5) 虫食、不明。
(6) 「御用留」(安政3年)pp.34b~35a。
(7) 安政4年(丁巳)から慶応2年(丙寅)まで。
(8) 「御用留」(安政3年)pp.56b~57a。
(9) 同上、p.57b。
(10) 同上、pp.22b~23a。
(11) 同上、pp.23b~24a。
(12) 同上、p.30a。
(13) 同上、pp.85b~86a。
(14) 若年寄、陸奥泉藩(2万石)主、本多越中守忠徳、
天保14年(1843)12月15日~万延元年(1860)
10月2日在任。
(15) 「御用留」(安政3年)pp.87a~b。
(16) 同上、pp.93b~95b。
(17) 同上、pp.95b~96a。
(18) 同上、pp.157a~b。
(19) 同上、pp.179a。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 580
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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