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項目 内容
ID J2900201
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海~九州〕
書名 〔歴史探訪 南海地震の碑を訪ねて〕H14・11・18毎日新聞社高知支局発行
本文
[未校訂](浅川観音庵地蔵台座銘)○徳島県海南町
(注 一四二頁に図あり)
(種崎久保家墓碑)○高知市種崎
為先祖代々 菩提
罹寶永四丁亥年之震災種崎全村忽為激浪所掃是故舊記墓
碑流失亦不存一物固而元禄年間之家主以久保弥五兵衛為
初代也
明治十九年十二月建之 六代目久保助五郎
宝永四丁亥年(一七〇七)[之|の]震災に[罹|あ]う。種崎全村[忽|たちま]ち
宝永四年一七〇七丁亥十月四日晴天日
暖ナル同未刻午後二時俄に大地震[暫|しばらく]有
り終テ後大海ヨリ高サ三丈[計|ばかり]ノ
大汐指込浦上村カラウト坂ノ
麓迠上リ即刻引汐ニ浦ノ中千光
寺ノ堂一宇軒殘る
南無阿弥陁佛〓
[有來|ありきたる]在家不殘一軒一軒も残らずモ海底引
落[猶|なお]又流レ出ル老若男女百四
拾人余悉ク溺死仕早依之おわりぬこれにより右亡
者[為菩提|ぼだいのため]ノ此石像ノ地蔵井菩薩一
躰致供養奉案地者也体くよういたし安置したてまつる
于時正徳二年
[向かって左側面]
(破線内は床板の下に隠れて見えず他資料による)
辰七月
奉寄進施主 浅川浦惣中
願主浅川浦 久五兵衛
伊助
幸右衛門
喜平
利助
五右衛門
大坂海部堀
えびや 平右衛門
大和屋 喜兵衛
激浪の[為掃|ためはら]う所、[是故|これゆえ]旧記墓碑流失し、[亦|また]一物も存ぜず、
[固而|さだめて]元禄年間[之|の]家主久保弥五兵衛を以て初代と[為|な]す也。
(須崎寳永津浪溺死之塚)○高知県須崎市糺町
寳永津浪溺死之塚
此の塚ハ昔寶永四年丁亥十月四日大地震して津浪起こり
須崎の地にて四百餘人溺死し池の面に流れ寄り筏を組む
[か|が]如くなるを池の南地に長き坑を二行に堀(掘)り死骸を集め
埋め[在|あり]しを今度百五十年忌の[弔|とむらい]に此處に改葬するもの也
其事を営まんとする折しも安政元年甲寅十一月五日又大
ゆりして海溢しける[か|が]昔の事を傳え聞き且記録もあれ[ハ|ば]
人〻思[ひ|い]當たりて我先にと山林に[迯|にげ]登りけれ[ハ|ば]昔の如く
人の[損|そこない]し[ハ|は][無|なか]りし也[惟|ただ]其の中に舩に乗り沖に出んとして
[逆巻|さかまく]浪に[覆|くつがえ]され三十餘人死したり痛ましき事也
何となれ[ハ|ば]衆に洩れて[斯ハ|かくは]せし[そ|ぞ]と云うに昔[語|かたり]の中に山
に登り落ちくる石にうたれ死し沖に出たる者[恙|つつが]なく帰り
しと云う事の有るを聞き誤認しもの也早く出て沖にある[ハ|は]
しら[す|ず]其の時に当たりて舩出する事[ハ|は]難かる[へ|べ]し[誡|いまし]む[へ|べ]
き事にこそ[将|まさに]昔の人[ハ|は]地震すれ[ハ|ば][迚|とて]津浪の入る事を[弁|わきまえ]
へ[す|ず]浪の高く入り[來|きた]るを見るよりして[迯|にげ]出したれ[ハ|ば]おく
れてかたの如き難に[逢|あえ]り哀れにも又悲しま[さ|ざ]らんや地震
すれ[ハ|ば]津浪は起こるものと思[ひ|い]て油断[ハ|は]すま[し|じ]き事なり
され[と|ど]ゆり出すや[否|いなや]浪の入るにも[非す少|あらずすこし]の間[ハ|は]あるも
のなれ[ハ|ば]ゆりの[様|さま]を見[斗|はか]ら[ひ|い]食物衣類等の用意して[扨|さて]石
の[落さ|おちざ]る高き[處|ところ]を[撰ひ|えらび]て[遁|のが]る[へ|べ]しさり[迚|とて]高山の頂迄登る
にも及[ハす|ばず]今度の浪も古市[神母|いげ]の邊[ハ|は]屋敷の内へえも入
ら[す|ず]昔も伊勢[か|が]松にて♠数人助かりしといヘ[ハ|ば]津浪とてさ
のみ高きものにも[非す|あらず]是等百五十年以來二度迄の[例|ため]しな
れ[ハ|ば]考えにも成る[へ|べ]きなり今[茲|こヽ]に此の営みを成すの印旦後
世[若斯|もしかか]る折に[逢|あわ]ん人の心得にもなれかしと衆議して石を
立て其の事をしるさんことを余に請ふ[因|より]て其の[荒増|あらまし]を[挙|あげ]て
為に書付ける者也 安政三年丙辰十月四日古屋尉助[識|しるす]
(上台座)
(背面) (表面)
本願主
發生寺現住
智隆房祐圓
世話人
亀屋久蔵
鍛治(冶)清(清)助
橋本屋吉右エ門
(須崎八幡宮木札)○高知県須崎市西古市
覚写
一御八幡宮様
右は亥十月八日
豆刕岩地へ御上り[被成|なされ]候処土刕安田浦長左衞門聞付彼
の地へ舩乗り[込候而|こみそうらいて]御向迎土佐へ御送り[申度与|もうしたきと]神主へ申
し[達候得は|たつしそうらえば]然ら[ハ|ば]御[神樂|かぐら]御[鬮上ケ|くじあげ]申し所[弥|いよいよ]御國元須
崎浦へ御戻り[被成度与|まいられ]御[鬮|くじ]おり申すニ付[則|すなわち]舩[ゟ|より]御向迎
ニ[被参|まいられ]候[而|にて]子六月四日ニ長左衛門舩へ御乘[被成候得は|なされそうらえば]
同六日ニ志州鳥羽浦へ御着舩ニ[御座候然所|ござそうろうしかるところ]志和浦弥
一兵衞殿舩[居被申|おりもうされ]候[而|にて]右之段〻長左エ門[被|もうされ]申候而烏羽
浦[ゟ|より]弥市兵衛殿舩ニ而御國元へ御送り[被申|もうされ]候以上
寶永五子年六月十五日志州鳥羽御舩宿斉藤林之助

(注、右は表面の文で、御輿還御の次第について書いて
ある。側面及裏面は「新収第三巻別巻」五二九頁上
左四行以下~同頁末にある)
(須崎大善寺津野神社地蔵台座碑)○高知県須崎市西町
三界萬霊等
寶永四丁亥年大善寺は載十月初四日大地震加之洪波泝岡處々多水災
此洲﨑邑亦須叟可憐爲荒原鳴呼時耶業感耶溺死者男女始
三百三十有
一人爭先者亦入其數矣是歳當于三十三年爲資於如上若干
諸霊之無上菩提於當邑托鉢勸化經數月以地藏大士慈容二
尊造立之者也伏願法界自他平等者也利益
旹元文四年己未十月初四日
當邑主座 謹
本願化主 禪芯芻慧澤
姓氏福美 誌
石工大坂中村屋吉郎兵衞
寶永四丁亥年十月初(旬)四日大地震す。[之|これ]に加えて洪
波(大波)岡に[泝|さかのぼ]り、處々水災多し。此の洲(須)崎邑
(村)も[亦|また]、[須叟|しばらく]は荒原と爲し[憐|あわれ]む[可|べ]し。[鳴呼|ああ]、[時 耶|このよこしま]
なる[業|わざ]に[感|ふれ]る[耶|や]、溺死する者男女始三百三十有一人。先
を爭う者、[亦其|またそ]の數数に入る[矣|なり]。(事後も死者の続くさま)
是の[歳|とし]三十三年[于|に]当たり、上の如き若干諸霊[之|の]無上菩提
に資する(もたらす、よりどころ)[爲|ため]、當邑(村)に於
て托鉢勧化して数月を經、以て地藏大士慈容二尊、[之|これ]を
造立する者也。伏して願わくば、法界(あらゆる世界)
自他、平等利益ならん者也。
旹時元文四年己未十月初(旬)四日
本願[化主|ふくよし](導主)當邑(村)[主座|すざ]、
姓氏[福美|ふくよし]、禪[芯芻|ひっすう](比丘=僧)[慧澤|けいたく]、[謹|つつし]みて[誌|しる]す。
石工、大坂(阪)中村屋吉郎兵衞
(久礼熊野神社震災碑)○高知県中土佐町久礼
白鳳十三年
寅十月十三日
黒土のこをりヲチ入
寶永四年亥年
長沢ミドノコエ
ツナミ大坂〓ユノ浦
大川ユツメシヲ入百四十八年
ぶり
同♠六年四月廿八日ヨリ
七月二日マデ日でり
(山十月のゴトキ
イく末や時を
うつ際梅さ
くら
[碑|いしぶみ]や[幾世經|いくよへ]て
見る[苔|こけ]の[花|ハな]
高橋伊平
維時安政元甲寅年
十一月五日震午后五時潮
立漲入中通一𠀋二尺村
中札塲下町通流出
上□シリ日ノ川松ノ川〓シヲ入
七へん入
明治他三年トラ七月
廿七日大水中ノ通八尺
村内地所六分アレ
〓 誤字削刻跡
黒土のこをり=黒田郡
(下川口春日神社地震碑)○高知県土佐清水上市下川口
下川口春日神社地震碑
 『補註幡南探古録』によると、「亥の大変の記念碑、春
日神社鳥居の南約一間の所にありしが、往年大浪の為砂
礫の下に埋没すと云ふ。…奇人田中甫仲の建立せし者
ならん。のち大正六・七年頃、著者(亀井釣月)により
発掘、同所に建立。未完成で稚拙な刻字は《ほちろ様》
と同作とうかがわれる」とあり。
 田中甫仲は、宝永、享保の頃、当浦分に住む医者で、
何のためか自作の六字名号石を各所に建てたが、宝永四
年の津浪で埋没した。経年ののち偶然発掘された石は《ほ
ちろ様》と呼ばれて祭祀される。ほちろは甫仲老の転訛
との由。
 この他、安政の津浪碑が横吹峠(集落東、旧道を三崎
に向かう峠)に建っていたと『下川口誌』にあるが、明
治三十年頃すでに不明とのことである。
(鷣神社の潮位碑)○宿毛市大島浦
 この潮位碑は、大島の庄屋小野家に残る『小野家家譜』
の文言から宝永の潮位を、貝塚の浜田家に残る公的な文
書『甲寅大地震御手許日記』から安政の潮位を推定して、
平成七年神社を再建した時に新しく建立したもの。石段
は四十二段であるがそのときに、境内地をコンクリート
舗装して段差が大きくなったため、コンクリート石段を、
一段増やして現在は四十三段となっている。月日は旧暦
であるので、和暦の括弧内に入れるべきである。
 潮位の数字は徳島大学工学部村上仁士教授の調査によ
る。
平成七年十月神社新築記念
一八五四年(安政元年)十一月五日
の大地震で津波が此処まで押し寄せる
平成七年十月神社新築記念
一七〇七年(宝永四年)十月四日の
大地震で津波が此処まで押し寄せ
る 大島浦全戸流失
安政
宝永
【灰色花崗岩】
宝永の潮位
安政の潮位
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 141
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