[未校訂](中世の兵庫津の町並み―兵庫津遺跡第15次調査の成果から)内藤俊哉著
1、はじめに
(前略)
今回は、私が調査を担当した兵庫津遺跡第一五次調査
の成果の中から、主として中世から近世にかけての兵庫
津の変遷について報告したいと思う。
なお、膨大な記録や出土遺物などは、現在もなお整理
中であるため、当然今後の検討の結果によってさらに補
強や場合によっては、変更もなされていくことを御了承
いただきたい。
2、兵庫津遺跡について
現在、兵庫津遺跡とされているのは、神戸市中央部の
海岸部に位置する、南北二・○、東西一・五キロメート
ルほどの範囲をもつ、平安時代から江戸時代にかけての
遺跡である。これは、ほぼ元禄兵庫津絵図(一六九六年)
に記載されている町域にあたる〔図1参照〕。
この遺跡における発掘調査の実施は、比較的遅くて一
九八八年になってからである。
その後、十数次にわたる調査が実施されたが、ほとん
どが小規模なもので、中世の遺物は出土するものの明確
な遺構などはほとんど発見されず、近世の町屋に伴う建
物跡等を部分的に確認するに停まっていた。
このような調査結果は、遺跡周辺の標高が現在でも海
抜二~三メートル前後であり、近世において町屋築造な
どの開発があまりに大規模であったために中世の遺構は
この段階で既に削平されてしまったという可能性も考え
られた。
ところが震災以降、復興事業の一環として国道二号線
への共同溝敷設が遺跡を北東から南西へ横断するように
計画された。そして、工事に先行して実施された兵庫県
教育委員会による発掘調査により一三~一六世紀の遺構
面が、それも海抜○メートル付近において確認されたこ
とは、画期的であり、大きな驚きでもあった。
このような成果を受けて、一九九九年、共同住宅建設
に伴い神戸市教育委員会では、今
回の発掘調査が実施されることと
なった。調査は比較的大規模な調
査であったこともあり近世から中
世におよぶ遺構面の存在が期待さ
れた。
3、 一五次調査の概要
調査地は、兵庫区七宮町二丁目
に位置する。ここは、元禄兵庫津
絵図によると宮前町の南側にあた
り、ちょうど七宮神社の鳥居から
真っ直ぐ南にのびる街路の突き当
たる部分になる〔図2参照〕。
調査面積は約七五〇平方メート
ルで、現地調査は、 一九九八年五
月から翌年一月まで九ヶ月におよ
ぶものであった。
この調査において、地表下約八
○センチで確認した第一遺構面から約三・○メートルに
存在する第八遺構面まで、一三~一八世紀にかけての計
八次にわたる生活面(遺構面)を確認した〔図3参照〕。
各遺構面と遺構面の間には、二〇センチほどの盛土(海
砂)が全面にわたってみられ、火災などにより被害を受
図1 遺跡位置図 矢印が調査地
図2 調査地周辺図
図3 土層断面概念図(第15次調査)
けるたびに
嵩上げによ
る整地が大
規模におこ
なわれたよ
うすがよく
判る。
このう
ち、第一遺
構面から第
五遺構面
は、織豊時
代から江戸
時代後期に
かけての町屋群と、それに伴う井戸、ゴミ穴など生活関
連遺構や陶磁器、金属製品などの遺物が多数検出された。
また、第六遺構面においては、大規模な礎石建物群、第
七・八遺構面においても鎌倉時代後期から室町時代と考
えられる遺構や遺物を検出した。
特に、第二遺構面において良好な焼土層、焼土面が検
出され、文献にも記されている「宝永の大火」(一七〇八
年)に比定されたこと、また第五遺構面では、焼土面と
共に慶長の大地震(一五九六年)に伴うと思われる地震
痕跡が確認されたこと、第六遺構面において特異な構造
をもつ礎石建物が検出され、多量の貿易陶磁器が出土し
たことなど重要な発見が多数あった。
5、近世の兵庫津
(前略)
この第五遺構面についても一部に赤変が認められ、焼
土層によって覆われていることからこの遺構面も火災に
逢っていることが判る。さらに、遺構面にたいして、大
規模な地震によって引き起こされる「噴砂」現象の痕跡
が確認された〔写真4参照〕。
焼土層、焼土面の存在や一六世紀後半を中心とする出
土遺物などから、この地震は「慶長の大地震」(一五九六
年)に比定される。いくつかの文献に記載されながらも、
一部で疑問視されていた兵庫津被災の記事が事実であっ
たことが、今回はじめて考古学的に検証された。
これらのことから、第五遺構面は、一六世紀末の「慶
長の大地震」によって被災した一六世紀後半の町並であ
ると考えられる。