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項目 内容
ID J2900037
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1498/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1498/09/20
和暦 明応七年八月二十五日
綱文 明応七年八月二十五日(一四九八・九・二〇)〔伊勢・紀伊・諸国〕
書名 〔民衆史研究第55号〕一九九八・五・二三民衆研究会編・発行矢田俊文著
本文
[未校訂](明応地震と太平洋海運)はじめに
 地震による津波被害は、地震のうちでも、一〇〇年か
ら一五〇年の間隔で発生するプレート境界に起こる南海
地震・東海地震・関東地震(1)によるものが大きい。一〇九
六年(永長元)十一月二四日に起こった永長の地震は東
海沖の地震で、津波が伊勢・駿河を襲い、伊勢の安濃津
が被害を受けている。一三六一年(康安元・正平十六)
六月二四日の正平地震では、津波が阿波の由岐湊をおそ
い、一七〇〇余戸の家屋を流失させている(2)。
 一四九八年(明応七)八月二五日の明応地震の津波に
よる被害は、紀伊から房総の海岸にまで及んだ。紀伊で
は港湾都市和田浦が壊滅した。紀ノ川の河口が現在の位
置になったのは、この時の津波によるものと考えられる(3)。
伊勢でも港湾都市安濃津が破壊された(4)。遠江の港湾都市
橋本もこの津波により壊滅した(5)。
一〇九六年、一三六一年、一四九八年、いずれの年も港
湾都市が大きな被害を受けている。地震によって被害を
受け、記録・伝承などの形式でその被害の様子を読み取
ることのできる地点は、被害を受けた当時、人と家と富
が集まっている場所であった。地震による被害が津波で
ある場合は、被害を受ける場所は湊や港湾都市である。
よって、中世の地震による津波被害を研究することは、
湊や港湾都市の研究をすることにもなる。
 しかし、被害を受けた地点は、その地がかつていかに
繁栄していたとしても、その地の家屋・寺院とともに文
書・記録が失われている可能性が高く、同時代の史料だ
けでは復元は困難である。そこで、地震津波によって被
害にあった地点の研究をするには、同時代に作成された
ものではない史料や考古学等の隣接諸科学の成果を取り
入れながら研究を進める必要がある。本稿はその試みの
一つである。
 明応地震で被害を受けた地点については、すでに私は、
紀伊和田浦、伊勢安濃津、遠江橋本という三つの港湾都
市の復元を試みている(6)。本稿の二は、明応地震で被害を
受けた港湾都市駿河小川湊の復元の試みである。
 今回は、港湾都市の復元だけではなく、プレート境界
に起こる南海地震・東海地震・関東地震によって被害を
受ける地域が太平洋沿岸であることに注目し、被害を受
けた個別の地点だけではなく、被害を受けた地点を含め
た中世太平洋海運の復元を試みる。一の考察の対象は、
一三六一年の地震の被害を受けた由岐湊であるが、土佐
沖から九州ルートという太平洋海運の実態解明にとって
重要な地点なので考察の対象とした。
一 一三六一年の地震津波と阿波由岐湊
 一では、「はじめに」で述べた、一三六一年(康安元・
正平十六)六月二四日の正平地震による津波が阿波の由
岐湊をおそい、一七〇〇余戸の家屋を流失させた、とい
うことをあらためて検討する。
 一三六一年六月二四日の正平地震で、阿波の由岐湊を
津波がおそい、 一七九九余戸の家屋を流失させたという
内容は、太平記の記述にもとづくものである。太平記の
記述が事実を記録したものなのかどうかを検討する。
 古本系の元玖本太平記の由岐湊の記述は、次のような
ものである。
ア 諸国恠異之事
六月十八日巳刻ヨリ、同十月ノ比ニ至マテ、大地夥
ク動テ、日々夜々ニ止ム時無ナシ、山崩テ谷ヲ填メ、
海傾テ陸ト成リシカハ、神社・仏閣倒レ破レ、牛馬・
人民死傷スル事、幾千万ト云フ数ヲ知ス。総シテ山
川・渓谷・林野・村路、此災ニ不逢ト云フ所ナシ、
中ニモ阿波ノ雪ノ湊ト云フ浦ニハ、俄ニ太山ノ如ナ
ル潮漲来テ、在家一千七百余宇、悉ク引キ塩ニ烈テ
海底ニ沈シカハ、家々ニ所在、僧俗・男女・牛馬・
鶏犬、一モ残ラス底ノ藻屑ト成ニケリ、(下略(7))
アによると、阿波の由岐湊は一七〇〇余宇以上の家数
を持つ大きな湊で、その湊のすべてが地震による津波で
波にさらわれ海に沈んだとある。
 一三六一年の地震は、「後愚昧記」「愚管記」「忠光卿記」
「康富記」「嘉元記」など他の史料からも確認できる(8)ので、
一三六一年に地震が起り各地で被害があったことは間違
いない。
 しかし、太平記以外の史料は、四天王寺金堂や法隆寺
などの被害を記すだけで、由岐湊の被害には触れていな
い。太平記の記す由岐湊という湊は本当にあったのであ
ろうか。
 太平記以外に由岐湊の存在を記すのは平家物語であ
る。屋島に籠城した平維盛が船に乗り、紀伊へ渡る前に
立ち寄ったのが由岐湊である。
 長門本平家物語巻第十七には、
イ権ノ亮三位中将維盛は、与三兵衛重景、石童丸と、
武里と云舎人、此三人を召しぐして、忍びつゝ屋島
のたちを出で、阿波ノ国雪ノ浦より鳴門の沖をこぎ
渡り、和歌の浦、吹きあげの浜、玉津嶋明神、日前
国懸の御前を過ぎて、紀伊ぢの由良の湊といふ所に
着き給へり(9)、
とある。長門本と同系統の広本系の源平盛衰記巻第三十
九にも、「忍びつつ屋島館を出でて、阿波国由木浦にぞ着
給ふ(10)」とある。太平記だけではなく、平家物語にも由岐
は湊としてあらわれることから、由岐湊は存在したと考
えてよかろう。
 では、由岐湊は太平記が記す一七〇〇余戸の家数を持
つような大きな湊だったのであろうか。
 文安二年(一四四五)兵庫北関入舩納帳(11)から、太平洋
沿岸部の阿波国南部・土佐国の船籍地と船数を抜き出せ
ば、次のようになる(12)。
阿波国南部…牟岐(一四)・海部(五六)・宍喰(二〇)
土佐国………甲浦(二六)・先浜(三)・なわり(一〇)・
前浜(一)・安田(一)
 十五世紀には、阿波国南部・土佐国の太平洋沿岸から
兵庫津に物質を船で送るルートがあったことが確認でき
る。
 さらに、網野善彦氏(13)は、康永三年(一三四四)二月四
日、紀伊国冷水浦住人後藤三が船以下の勝載物を薩摩国
新田八幡宮執印に奪い取られたと訴えていること、貞和
三年(一三四七)六月六日、南朝方の熊野海賊数千人が
薩摩に攻めよせていることから、船が紀伊より土佐沖を
通過して九州に行っていることがわかり、そしてこれは
少なくとも鎌倉後期までには遡りうるとしている。また、
宮脇さゆり氏(14)は、種子島氏の法華改宗以前、種子島には
熊野修験が入っていたことを明らかにしている。これら
の指摘は、土佐沖を通って九州に到る流通ルートが存在
していたことを示している。よって、一三六一年頃に、
太平洋沿岸の阿波南部に人家が建ち並ぶ湊が存在してい
てもおかしくはないことがわかる。
 では、由岐を人家が建ち並ぶ土佐沖・九州ルートの太
平洋海運の物資の集積地としての湊と考えることができ
るであろうか。
 まず、地形を考えてみよう。図1Aは、大池である。
文化十二年(一八一五)の地誌「阿波志 巻十二(15)」)雪池
の項には、「毎風濤起、村民置舩于此」とある。大池は良
好な避難港であったと記されている。現在でも、大池は
海とつながり、船が係留されている。「海部郡誌(16)」も、大
池があるために、沿岸が激浪の時でもその影響は少なく、
優良な避難港で、かっての由岐湊は今の大池が内港で、
中心集落も大池沿岸にあったものと推測している(17)。大池
は中世から港として利用されていたと考えてよかろう。
 次に、由岐が土佐沖・九州ルートの拠点の湊なのかど
うかを考えてみよう。由岐地域には、徳島県唯一の九州
型板碑がある(図1B・図2(18))。石川重平氏は、この板碑
は安山岩で鎌倉末期の形態であるとし、さらに、天然の
良港の由岐湊が、海上交通のターミナルとして栄え、九
州地方との経済交流のあったことを示すものだとする(19)。
 さらに、延宝二年(一六七四)十二月二八日西由岐浦
棟附人改御帳によると、西由岐浦一二七戸のうち二二戸
図1 由岐湊関係図(1907年測図)A.大池 B.九州型板碑
から三二人が薩摩へ稼ぎに渡っている(20)。真貝宣光氏は、
西由岐浦の住民が薩摩に稼ぎに出ていた理由について、
由岐と薩摩は黒潮を利用した海運により交流が行なわれ
ていたと理解している(21)。このように、由岐地域は九州と
交流があったことが確認できる。
 以上のことから、一三六一年頃の由岐は土佐沖・九州
ルートの太平洋海運の物質の集積地としての湊であった
と考えることができる。文学としての誇張があるとして
も、太平記の記述はそれほど間違っていないものと考え
ることが出来よう。
二 明応地震と駿河小川湊
 二では、紀伊和田浦、伊勢安林津、遠江橋本と同様、
明応七年(一四九八)八月二五日の巨大地震で被害を受
けた港湾都市駿河小川湊の復元を試みる。
ウ彼小河之末寺江有作善、日円幷衆中請云々、去八月廿
四日当寺出給也、同二十五日辰剋大地震、希代不思儀
前代未聞也、非之大波又競来、海辺之堂舎・仏閣・
人宅・草木・牛馬・六畜等、悉没水死畢、於彼時小
川末寺御堂坊等、悉被取大浪、只如河原成畢、然者
日円聖人・同宿以下悉没浪畢、必大浪ハ大地動之時
有之云々(22)、
エ高草山林叟院洞家遠江国石雲院末法檀地御朱印寺領七石
本尊如意輪観音
開山賢仲繁哲和尚 永正九年壬申六月廿四日寂 開基長谷
川次郎左衛門正宣 或政平
法名林叟院殿扇庵法永居士 永正十三年丙子六月朔日没
妻法名長谷寺殿松室貞椿大姉
(中略)
寺伝曰、益頭郡今隷志太郡小川村住人長谷川正宣は
今川家幕下家富栄えて世挙て法永長者と称す、恒に三宝
を信じ殊勝比類なし、曾て遠江国高尾山宗芝禅師
の弟子賢仲繁哲と云僧あり、法永此僧の道風を慕
ひ、文明三年辛卯の春、梵宇の地を小川村の東浜
にトして一精舎を構へ、寺を林雙院と名け、師を
請て主席たらしむ、(中略)不日にして寺を今の地
図2 九州型板碑(石川1981)
に移し、林雙を改て林叟となす、今の山神石と云
は則彼林叟の遺跡也、翌年(明応七年)秋八月八
日、果して大雨、同二十五日、大地震動海水大に
涌、溺死する者凡二万六千余人、林叟の旧地忽変
して巨海と成と云云(23)
 ウは、「日海記」日円上人入寂の項に記されている記事
である。「日海記」は、日蓮宗海長寺(清水市村松)の僧
日海が実際に見聞したことを記した記録である。ウによ
ると、海長寺の小川にある末寺は海辺にあり、明応七年
(一四九八)八月二五日の地震で堂舎・仏閣以下すべて
が大波に取られ河原のようになったとある。ウから、海
長寺の末寺が小川の海辺にあったことがわかる。
 エは、文政元年(一八一八)に完成した地誌「駿河記」
所引の林叟院の寺伝である。エによると、小川の法永長
者といわれる富豪の長谷川正宣が、小川村の東浜に林雙
院を建立した。その林雙院は明応六年(一四九七)に名
を林叟院と改め坂本に移ったが、林雙院(林叟院)の旧
地は明応七年八月二五日の地震津波により、海になって
しまったとある。
 地震津波によって潰れた海長寺の末寺(ウ)・林叟院
(エ)は、ともに小川の海辺にあったことがわかる。で
は、明応地震以前に海長寺の末寺・林叟院があった小川
の海辺とはどの辺りのことをいうのであろうか。焼津地
域でも石津地域でもなく小川地域の海辺にあったとする
と、城之腰・鰯ケ島地域がそれに当たるのではないか(図
3)。佐々木久彦氏(24)は、海長寺の小川の末寺は鰯ケ島にあ
り、林叟院の旧地は鰯ケ島の東(現在は海中)と推定し
ている。地震津波によって壊滅した小川の二つの寺院は、
ともに城之腰・鰯ケ島地域にあったと考えてよかろう。
 明応地震で壊滅的打撃を受けた中世小川湊はどのよう
な湊だったのであろうか。十五世紀前半には、初倉荘の
年貢米が小川湊から積み出されていた。十五世紀前半、
烏帽子屋道慶という屋号を持つものがいた。また、文明
十七年(一四八五)九月十九日夕刻に小川湊についた万
里集九は、大船が多く停泊し、道路は汚れ足の踏場もな
い、と小川湊の賑わう様子を記している(25)。
 明応地震が起きた一四九八年以前の小川湊は、屋号を
持つ商人が居住し、太平洋沿岸を航行する大船が停泊し、
物資が集積し、多くの人が居住する港湾都市であった。
 また、有光友学氏は、大永六年(一五二六)に連歌師
宗長が小川の長谷川元長を尋ね和歌千句を詠んでいるこ
となどから、小川湊は、有徳人長谷川氏を中心として栄
えた交易港であったとする(26)。
 この長谷川の居館跡と推定される地点は、地籍図に
「堀」「堀ノ内」の名称が残り、地籍図によってその規模
が把握され、発掘が行なわれている。(図3A小川城遺
跡)。長谷川氏の居館跡と推定された小川城遺跡(27)は、図3
にみるように、海とは少し離れており、万里集九が、大
船が多く停泊し、道路は汚れ足の踏場もないと表現する
小川湊の中心地とは思われない。
 では、小川湊の中心地はどこなのか。有光氏は石津湊
の位置を小川湊のすぐ南にあったとする(28)。しかし、有光
氏は小川湊の場所を特定していない。
 次の史料は、明応地震後に小川湊が見える文書である。
オ 清水湊爾繫置新船壱艘之事、
右、今度遂訴訟之条、清水湊・沼津・内浦・吉原・
小河・石津湊・懸塚、此外分国中所々、如何様之荷
物・俵物以下相積雖令商売、於彼舟之儀者、帆役・
湊役幷出入之役、櫓手・立使共免除畢(29)、(下略)
 有光氏は、オに見える湊は、今川領国における交易湊
として代表的なものであったとする(30)。オに小川が湊とし
て見えるということは、明応地震から約六〇年たった永
禄三年(一五六〇)頃には、小川が湊として復活してい
たことを示している。
 オには、石津湊が見える。この湊は、中世では史料オ
にしか出てこない。石津湊は、近世石津村内にある湊と
考えてよかろう。石津湊は現在の小川港(図3)に当た
ると思われる。和田も石津村内の地名であることから、
後掲史料カの和田湊は、史料オの石津湊に当たると考え
図3 小川湊関係図(1889年測量、1985年修正)A.小川城遺跡
られる。
 では小川湊はどこなのか。先に延べたように、佐々木
久彦氏は、海長寺の小川の末寺は鰯ケ島にあり、林叟院
の旧地は鰯ケ島の東と推定している(31)。
 明応地震の津波で消滅した小川の二つの寺院は、とも
に鰯ケ島地域にあった。鰯ケ島とはどういう地域なのだ
ろうか。近世の地誌で見てみよう。
 「駿河記 巻十二 益頭郡巻之一」の城之腰・鰯ケ島の
項には次のようにみえる。
カ両村町並家数三百二三十軒許連綿たり、漁家商家相
交りて繁華なる土地なり、南北に長く、東は海浜、
西の裏は堀川あり、湊へ小船を以って諸荷を積み、
沖に繫ぐ大船に運送す、
但、此湊は浅瀬にて、大船を入ことならざるを以
て、諸荷は小舟を以て沖積するなり、此処の廻船
大船は常に清水湊にかこふ也、伝云、昔は田尻太
和田港にて諸荷を積みたり、元禄年中より此湊諸
荷昌に積出すと云(32)、
 カによると、東を海浜、西を堀川にはさまれた城之腰・
鰯ケ島地域の内には三百二・三十軒の町屋が軒を連ね、
沖に浮かぶ大船に堀川を通って小舟が荷を運送している
とある。図3では堀川に沿って、城之腰・鰯ケ島二村内
の町屋が建ち並んでいる様子がわかる。図3は史料カに
記されている情景とさほど違いのない情景を示している
と思われる。
 カの堀川は、元禄年間から寛政年間に至る大工事で掘
り割られたもので(33)、図4の川は(34)、もとは城之腰・鰯ケ島
の町屋の集まる地区の東を流れていた(35)。
 史料カの「田尻和田湊」は、先に述べたように現在の
小川港(図3)で、戦国期の石津湊(史料オ)に当たる。
史料カの城之腰・鰯ケ島地域は、図3にみるように、小
川城遺跡と同じ川で繫がっている。小川城遺跡の付近を
通る川は、堀川(もしくは図4の川)と同じ川である。
さらに、小川城遺跡が長谷川氏居館跡で間違いないとす
るならば、小川城遺跡のある地域は、十六世紀前半には
小川と呼ばれていたことが確認できる。小川城遺跡のあ
る地域と城之腰・鰯ケ島地域は一つながりの地域であっ
たと考えることができる。
 そして、明応地震の津波で消滅した寺院が鰯ケ島地域
にあったとするならば、中世小川湊の中心は鰯ケ島付近
にあったと推測できる。カに描かれた城之腰・鰯ケ島の
情景は近世城之腰・鰯ケ島地域の湊の情景である。先に
掲げた史料オには、石津湊・小川湊は書かれているが、
城之腰・鰯ケ島地域の湊の記載はない。石津湊は、現小
川港であり、小川城遺跡とは川では繫がっていない。オ
の小川湊は、史料カの城之腰・鰯ケ島地域の湊のことだ
と考えられるのではないか。
 近世の城之腰・鰯ケ島は、海と並行に走る川(堀川)
に沿って開けた町であった。堀川は元禄期に掘られた川
である。それ以前の小川湊は、図4の川に沿って開けた
町であったのではなかろうか。この地が中世末からの小
川湊だったのであろう。そうであるとすると、海と並行
した内水面に沿って開けた湊という小川湊の情景は、明
応地震で消滅した紀伊和田浦・伊勢安濃津・遠江橋本と
同じ情景である。海と並行に走る川に沿って開けた鰯ケ
島付近が中世小川湊の中心であったと考えられよう。
 以上のことから、中世港湾都市小川湊は、紀伊和田浦・
伊勢安濃津・遠江橋本と同じく、海の近くにあり、直接
海に接しないで内水面の水路にそって開けた港湾都市で
あることが確認できた。
三 安濃津と太平洋海運
 私は、明応地震以前の安濃津は、海の近くにあり、直
接海に接しないで内水面の水路に沿って開けた港湾都市
であることを既に明らかにしている(36)。しかし、その安濃
津が港湾都市としていかなる位置にあるのかについては
明確にしなかった。安濃津と同じ伊勢国にある大湊が太
平洋海運の拠点として評価されているなかで、明応地震
以前の安濃津が太平洋海運に占める位置を明確にしない
わけにはいかない。
 現在、知多半島で生産された壷・甕などの陶器が全国
に運ばれたルートは、次のように考えられている。
 知多半島の各地で生産された壷・甕などの陶器が小廻
船で大湊に運ばれ、そこから大きな船に積まれて全国に
運ばれていった(37)。
 これは正しい理解であろうか。このことを検討しよう。
 まず、このように理解されるにいたった理由の一つは、
中世文書によって、中世に大湊からの船が東国に行って
いることが確認されたことにある(38)。大湊からの船が東国
に行っていることは間違いないことである。
図4 安永元年以前城ノ腰・鰯ヶ島地域復元図
 しかし、これは中世に大湊からの船が東国に行ってい
ることが確認されたということであって、大湊が他の伊
勢の湊よりも抽んでた存在であるということではない。
 では、大湊以外に東国に物資を移送していた湊があっ
たのだろうか。中世、東国に物資を移送していたと推定
できる伊勢国の湊には安濃津がある。
 安濃津について、戸田芳実氏(39)は、伊勢湾沿岸にあって
知多半島の先端と向かいあう安濃津は、一地方港ではな
く、東海道交通運輸ルートの一環をなす伊勢湾・遠州灘
航路の発着港であり、安濃津の住人らは従来から諸国を
往来する海商・海運業者であったとしている。安濃津も
大湊と同様、太平洋海運の拠点として位置付けることが
できよう。
 次に、知多半島で生産された陶器が大湊に集められた
のかどうかについて検討しよう。知多半島の生産の中心
地となる常滑とその周辺から、伊勢に陶器が運ばれたこ
とを指摘したのは綿貫友子氏(40)である。綿貫氏が使用した
史料は、十八世紀末作成の「尾張徇行記(41)」である。「尾張
徇行記」北条村の項には、「甕ハ名古屋・美濃・三河・遠
江・伊勢・志摩ノ国其外へモ売ツカハ」すとあり、販売
する先は伊勢と記されている。しかし、販売先が伊勢の
大湊と記されているわけではない。さらに、同じ「尾張
徇行記」常滑村の項には、
一、此村ヨリ行程名古屋へ九里半、海港名古屋へ九
里、勢州桑名へ八里、同州白子へ六里
とある。この記述から、常滑村が船で結ぶ伊勢の地域は
桑名・白子(図5)という北伊勢であり、大湊のある南
伊勢ではないことがわかる。
 寛文十一年(一六七一)に作成された「寛文村々覚書(42)」
によると、常滑焼きを出荷する知多半島の北条・瀬木・
常滑村(43)の交流先(44)は次のように記されている。
一、北条村より道法 名(45)古屋へ九里半 舟路九里、
勢州白子へ舟路七里、同国四日市へ舟路七里半
一、瀬木村より道法 名古屋へ九里半 舟路九里、
大野村へ壱里半、勢州白子へ舟路七里
一、常滑村より道法 名古屋へ九里半 舟路九里、
勢州桑名へ舟路八里、同国白子へ舟路六里
 近世、常滑焼を出荷する知多半島の北条・瀬木・常滑
村と船で結ばれている伊勢の湊は、桑名・四日市・白子
であって大湊ではない。図5でもわかるように、小廻船
でわざわざ常滑焼を大湊まで運ぶという説明には無理が
ある。距離から考えても、北伊勢に位置する桑名・四日
市・白子に運ぶと考えた方が無理のない理解である。
 以上は、近世の史料による検討であるが、中世ではど
うであろうか。
 図5は、十三世紀中葉の三重県出土の尾張産陶器の碗
(山茶碗)の分布図(46)である。図5をみると、大湊が位置
する南伊勢から出土する山茶碗は尾張産と渥美半島産が
拮抗しており、尾張産の山茶碗は北・中伊勢が圧倒して
いる(47)。
 図5はもちろん碗(山茶碗)の出土状況を示すもので
あって、壷・甕の出土状況を示しているものではない。
しかし、北・中伊勢が圧倒している尾張産の碗の出土状
況からみて、知多半島から壷・甕は北・中伊勢に搬入さ
れなくて、南伊勢の大湊に搬入されるとは考えがたい(48)。
図5から考えると、南伊勢の大湊ではなくて、北・中伊
勢のどこかに知多半島産陶器の集荷地があると考えた方
がいいのではないか。
 では、知多半島産の陶器の主たる搬入先は伊勢のどこ
であろうか。 一九九六年、安濃津の一部と推定される遺
跡の発掘が行なわれ、興味深い山茶碗が出土した。同遺
跡の担当者の伊藤裕偉氏は、次のように指摘している。
 今回の調査で高台が内面に貼り付いたままの状態で出
土した碗(山茶碗)がある。この碗は、時期的には藤沢
良祐氏による山茶碗編年の第六形式から第七形式にかけ
てのもので、概ね十三世紀中葉頃に比定されるものであ
る。陶器類は、生産元の窯では十数個を重ねて焼成され
るもので、その際、上に重なった碗の高台が剝がれ、下
にあった碗の内面に付着する場合がある。そして、この
図5 伊勢国山茶碗出土位置(ベースマップは前山1994)
A.桑名B.白子C.安濃津D.大湊E.北条・瀬木・常滑
剝がれて貼り付いた高台は、指に力を込めればなんなく
剝がせることができる程度のものである。このような高
台が内面に貼り付いたままの状態の碗が出土したという
ことは、これらの陶器碗類が生産地で選別され、完成品
として出荷されたのではなく、生産地ではなんの調整も
されず、重ね焼きをした窯詰め状態のままで安濃津へと
運ばれてきたことを示している(49)。
 安濃津に知多半島の生産地から陶器の碗が重ね焼きの
まま集荷されているのである。図5の山茶碗の出土状況
から見ても、知多半島から山茶碗が集荷される地点を安
濃津に設定しても問題はない。
 知多半島から伊勢の安濃津に常滑焼が運び込まれたの
である。さらに、中世前期の史料で、太平洋海運の拠点
であることが確認できるのは安濃津であった(50)
 知多半島で生産される陶器を東国に出荷する湊は、大
湊ではなく安濃津が中心であると考えるべきである。
おわりに
 以上、一で、阿波由岐湊は、一三六一年の巨大地震に
よって壊滅する以前は、太平洋海運の物資の集積地であ
ることを明らかにした。二では、一四九八年の明応地震
で打撃を受けた港湾都市小川湊は、紀伊和田浦・伊勢安
濃津・遠江橋本と同じく、海の近くにあり、直接海に接
しないで内水面の水路に沿って開けた港湾都市であるこ
とを明らかにした。三では、明応地震以前、知多半島で
生産される陶器を東国に出荷する湊は、大湊ではなく安
濃津が中心であると考えるべきであることを主張した。

(1) 石橋克彦『大地動乱の時代』岩波書店、一九九四年
(2) 宇佐美龍夫『新編日本被害地震総覧(増補改訂版)』
東京大学出版会、一九九六年、国立天文台編『理科年
表 平成10年』丸善、一九九七年、寒川旭『揺れる大
地』同朋舎出版、一九九七年
(3) 拙稿「明応七年紀州における地震津波と和田浦」
『和歌山地方史研究』二一、一九九一年
(4) 拙稿「明応地震と港湾都市」『日本史研究』四一二、
一九九六年
(5) 拙稿前掲注(4)論文
(6) 拙稿前掲注(3)・(4)論文
(7) 『元玖本太平記 五』前田育徳会尊経閣文庫、一九
七五年。本書をはじめ、太平記・平家物語の諸本につ
いては、鈴木孝庸氏にご教示いただいた。
(8) 『大日本地震史料 甲巻』震災予防調査会、一九〇
四年
(9) 『平家物語 長門本』一九七四年、「紀伊ぢの由良の
湊」は、船の進む順からいくと由良湊ではなく紀伊港
のことである。なお、和歌の浦から日前国懸社を通っ
て紀伊湊にいく順路は、現在の和歌川が紀ノ川の本
流で、紀ノ川が現在の河口になる以前の船が紀伊湊
にいく順路である。拙稿前掲注(3)論文参照。
(10) 『新定 源平盛衰記 第五巻』新人物往来社、一九
九一年
(11) 林屋辰三郎編『兵庫北関入舩納帳』中央公論美術出
版、一九八一年
(12) 船籍地・船数は、武藤直「中世の兵庫津と瀬戸内海
水運」林屋辰三郎編『兵庫北関入舩納帳』中央公論美
術出版、一九八一年による。この史料は、一三六一年
の地震以後のものなので、由岐湊は出てこない。
(13) 網野善彦『日本社会再考―漁民と列島文化―』小学
館、一九九四年、三〇八頁
(14) 宮脇さゆり「中世種子島における法華改宗につい
て」『隼人文化』二六、一九九三年。同論文について
は、柳原敏昭氏にご教示いただいた。
(15) 蜂須賀文庫本「阿波志」徳島県立図書館架蔵写真帳
(16) 『海部郡誌』海部郡誌刊行会、一九二七年
(17) 一九八四年、大池の南岸砂地深さ約二〇センチメ
ートルのところから、紐を通した古銭二七枚(開元通
宝~皇宋元宝)が発見されている(兵庫埋蔵銭調査
会・永井久美男『阿波南海 大里出土銭―海南町中世
期埋蔵銭の報告書―』海南町教育委員会、一九九四
年)。
(18) 石川重平「由宇の九州型板碑発見に寄せて」『町史
編纂室だより』五、一九八一年
(19) 石川重平前掲注(18)論文
(20) 真貝宣光「由岐町と九州とのかかわりについて」阿
波学会『総合学術調査報告 由岐町』『阿波学会紀要』
四〇号、徳島県立図書館、 一九九四年
(21) 真貝宣光前掲注(20)論文
(22) 「日海記」『静岡県史 資料編7 中世三』静岡県、
一九九四年
(23) 「駿河記 巻十三益頭郡巻之二」、坂本の項、『駿河
記 上巻』臨川書店、一九七四年
(24) 佐々木久彦『静岡県史 別編2 自然災害誌』第三
章第一節記録にみる災害の状況、静岡県、一九九六年
(25) 有光友学『静岡県史 通史編2 中世』第三編第四
章第三節陸海交通と伝馬制、静岡県、一九九七年
(26) 有光友学前掲注(25)
(27) 『焼津市埋蔵文化財発掘調査概報Ⅳ 道場田遺
跡・小川城遺跡』焼津市教育委員会、一九八四年ほか
(28) 有光友学「戦国前期駿遠地方における水運」『横浜
国立大学人文紀要第1類(哲学・社会科学)』四二号、
一九九六年
(29) 永禄三年三月十二日今川義元判物、寺尾文書、『静
岡県史 資料編7 中世三』静岡県、一九九四年
(30) 有光友学前掲注(25)
(31) 佐々木久彦前掲注(24)
(32) 『駿河記 上巻』臨川書店、一九七四年。文政元年
(一八一八)完成。
(33) 『焼津市史 上巻』焼津市、一九五五年
(34) 図4は、『静岡県史 別編2 自然災害誌』静岡県、
一九九六年、二二四~二二五頁、焼津海岸変遷図と
『焼津市史 上巻』焼津市、一九五五年、五頁、焼津
海岸浸蝕図を参考に作成した。
(35) 現在は図4にみるように、波に削られ消滅してい
る。
(36) 拙稿前掲注(3)・(4)
(37) 赤羽一郎「中世常滑焼とは何か」永原慶二『常滑焼
と中世社会』小学館、一九九五年、二二四頁。中野晴
久氏(「知多(常滑)古窯址群の山茶碗について」『三
重県埋蔵文化財センター研究紀要』三、一九九四年)、
綿貫友子氏(「品川湊と「問」「土倉」」永原慶二『常
滑焼と中世社会』小学館、一九九五年、一八五頁)も
同様の理解である。
(38) 綿貫友子「『武蔵国品川港船帳』をめぐって」『史艸』
三〇、 一九八九年
(39) 戸田芳実「東西交通」戸田芳実編『日本史2 中世
1』有斐閣、一九七八、のち同『歴史と古道』人文書
院、一九九二年
(40) 綿貫友子「尾張・参河と中世海運」『知多半島の歴
史と現在』五、 一九九三年
(41) 『名古屋叢書続編 第八巻 尾張徇行記(五)』名古
屋市教育委員会、一九六九年
(42) 『名古屋叢書続編 第三巻 寛文村々覚書(下)・地
方古義』名古屋市教育委員会、 一九六六年
(43) 北条・瀬木・常滑村の三村は、瓶釜煙役を賦課され
ている(「寛文村々覚書」)。
(44) 青木美智男『近世尾張の海村と海運』校倉書房、一
九九七年
(45) 名古屋以下は三行割で記されている。道法は、三村
それぞれの項に記されている。
(46) 前川嘉宏「三重県における山茶碗の出土状況」『三
重県埋蔵文化財センター研究紀要』三、一九九四年。
図5は藤沢山茶碗編年第六形式。第六形式以外でも
山茶碗出土の地域的傾向は変わらない。図5の数字
は、以下の遺跡の地点をあらわしている。
1山王遺跡(桑名市)、2丹生川上城跡(大安町)、3下
江平遺跡(菰野町)、4智積廃寺(四日市市)、5小判田
遺跡(四日市市)、6大木ノ輪遺跡(鈴鹿市)、7橋門遺
跡(鈴鹿市)、8大藪遺跡(亀山市)、9山城遺跡(亀山
市)、10大石遺跡(芸濃町)、11六大B遺跡(津市)、12
大古曾遺跡(津市)、13宮ノ前遺跡(津市)、14森山東遺
跡(津市)、15戸木遺跡(久居市)、16平生遺跡(嬉野
町)、17午前坊遺跡(嬉野町)、18王子遺跡(松阪市)、
19曲遺跡B地区(松阪市)、20草山遺跡(松阪市)、21鴻
ノ木遺跡3次・4次(松阪市)、22巣護遺跡(多気町)、
23本郷遺跡(明和町)、24蚊山遺跡左郡地区(玉城町)、
25寺原B遺跡(伊勢市)、26安養寺跡(二見町)
(47) 前川嘉宏前掲注(46)論文
(48) 常滑焼は近江・京都にも搬入されている。地理的に
考えて、大湊が常滑焼の集荷地で、そこから近江・京
都に搬入されたとは考えにくい。その点、常滑焼の集
荷地を安濃津と考えれば、近江・京都への陸路の搬入
も理解できる。
(49) 伊藤裕偉「陶器類から見た安濃津の物資集積と拡
散」『安濃津―本文編―』三重県埋蔵文化財調査報告
一四七、三重県埋蔵文化財センター、一九九七年、伊
藤裕偉「中世の港湾都市・安濃津に関する覚書」『ふ
びと』四九、 一九九七年
(50) 戸田芳実前掲注(39)。戸田氏による永長元年(一
○九六)十一月の大地震のとき、藤原宗忠が日記に地
方の被害の実例として、近江勢多橋の破損と「伊勢国
阿乃津民戸」を襲った大津波だけを記しているのは、
中央貴族からみた東国交通の要港としての重要性を
物語っているように思われるという指摘も重要であ
る(戸田芳実前掲注(39))。十五世紀から十六世紀に
かけて、北武蔵から上野の常滑燒の出土が激減し北
武蔵の十六世紀前半代の集落跡と思われる古井戸遺
跡などでは数万平方メートルにわたり発掘調査が行
なわれたが、常滑窯製品はほとんど検出されていな
い(浅野晴樹「陶磁器から見た物流」峰岸純夫・村井
章介編『中世東国の物流と都市』山川出版社、一九九
五年)。この関東における十六世紀前半の常滑焼激減
状況は、常滑焼の供給元の港湾都市安濃津の明応地
震による壊滅と関係があるのではないかと考える。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 15
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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