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項目 内容
ID J2801518
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1964/06/16
和暦 昭和三十九年六月十六日
綱文 昭和三十九年年六月十六日(一九六四)〔新潟〕
書名 〔西山光一戦後日記〕西山光一一九九八・二 東京大学出版会
本文
[未校訂]7 農業被害の様相
 地震被害は、上記のほか商工業関係各部門、交通通信
関係各部門、電気、ガス、上下水道、教育関係、衛生、
公営施設関係等々、生活基盤に直接かかわる広範な部面
に及んでいるが、ここでは小新という坂井輪地区の北端
西川河口部に位置する農業集落の地震災害を位置づける
ため主として農業部門の被害に絞ってみていきたい。
 まず新潟市の農林水産業関係被害を示したのが表13で
ある。農林水産関係被害四九億九八〇〇万円のうち農業
関係は八五%であり、農業被害のうち六割近くが農地関
係で住宅被害の二倍になる。六月一九日という挿秧活着
後の一番除草という時期でもあり、全面水没地を除けば
立ち直りも出来たため、水稲や畑作物の被害は三億に達
しなかった。個人施設も稲作地帯の秋収期に当たらなか
ったため被害は軽かったと言えよう。
 また、国営の栗の木排水機や、新川沿いの大排水機場
などの被害は殆どなかったが、集落営や土地改良区営の
小型の排水機場で、局地的にはその地域の死命を制する
ようなものが破壊された場合もあった。これは軟弱な地
下水を含む地帯での基礎杭等の打込みが確実な支持盤ま
で達していないためであった。新潟市の農業被害はまさ
に軟弱地盤地帯災害であり、この点一メートルも地盤が
隆起し用水路を失って三ヘクタールの貴重な田を皆無に
した震源域の粟島と対照的であった。
 表14は地位域別被害状況である。
 被害の地区別では最大が石山、大形地区の通船川沿岸、
次いで南浜、浜松の旧加治川跡耕地に大部分が集中して
いる。前者は一七三〇(享保一五)年、現阿賀野川松ヶ
崎河口掘削放流まで、信濃川、阿賀野川二大川の河口が
合流したり、分流したりして移動した地帯、すなわち新
潟市沼垂と松ヶ崎間の石山地区、大形地区のデルタ地帯
であった。そして松ヶ崎放流後は阿賀野川流離の代償川
として新潟町民が新発田藩に掘らせた通船川となってい
た。しかも水流の関係で修復させたりした川筋まで、軟
弱地盤地帯となっていた。このため現河川堤は倒壊、陥
没、決潰し、旧河川跡には、圧密性を失った流砂泥の中
から古杭が浮き上がってきたり、重い工作物は沈んでゆ
表13 新潟地震農林水産業
被害
区分
住宅
水稲
畑作
畜産
個人施設
任意組合
農協関係
農地〃
流通〃
小計
木材流失
貯木場施設
小計
漁港
水産関係
小計
合計
被害額
百万円
1,208
192
97
2
238
0.4
13
2,482
9
4,242
240
32
272
37
447
484
4,998
表14 新潟市農業関係地震被害地区別概況
地区名
農家戸数
倒壊
個人施設被害


用排水
農道
用排水機樋管


被害合計






延長
被害額
延長
被害額
件数
被害額
石山
鳥屋野
曽野木
両川
大江山
大形
松浜
南浜
濁川
坂井輪
内野
赤塚
中野小屋

662
409
467
454
680
573
202
623
363
557
503
653
630
6,791

8
1



30
27
2
5
10



83

20

9


37
33
3
30
17



149
万円
1,815
455
324

328
6,201
6,620
420
2,244
3,338
10
307
60
22,119

66
16
33

7
144
61
12
61
94
1
10
2
507

41
5
15

12
96
42

36
47

22

315
ha
36
18
45
10
0.1
202
53
169
70
41
0.7
1
2
646
10万円
142
41
114
29
0
677
152
412
284
74
5
9
2
1,922
ha
8
3
12

0.1
94
41
38
33
10
0.2

0.0
239
万円
44
17
39

0
333
203

118
173
37
0

0

965
m
45,939
13,972
41,516
11,899
18,151
16,165

12,000
7,410
12,500

189,552
万円
25,335
13,010
27,660
9,270
19,690
14,440

6,000
5,928
7,507

128,840
m
80
110
50
230
92,390
(含石山)

2.610
25,250
1,700

122.420
万円
5
44
3
10
17,526

250
5,000
300

23,168
6
10
1
3
2
3

4
6
4

39
万円
715
865
150
130
315
6,700
600
900
255
10,630
注(1) 倒壊の全半は全壊、半壊。
(2) 個人施設等の作は作業所、収は収納所。
(3) 田の作は作付被害面積、被は被害金額単位10万円。畑作は同様被害金額単位万円。
(4) 用排水の延長は被害用排水路延長、損害額の単位万円。農道も同様。
(5) 用排水機樋管件数はケ所。被害額単位万円。
(6) 典拠 新潟市昭和41年11月刊「新潟地震誌」より加工。
くという不同沈下の状態となり、周辺の七〇〇~一〇〇
〇ヘクタールが湛水地帯となってしまった。応急的に破
壊された通船川を中間で閉じ、一つは都市復旧用の排水
に使い、一つは潰滅排水機に急設した排水機で農業用に
排水するという有様であった。南浜、濁川地区も同じく
新潟市北部地区であるが、大正初期に廃川となった旧加
治川河川敷内造成の耕地が、一〇〇メートル位の長さで
いくつか陥没し、地下水も湧出し、一帯を湛水させた。
畑作地も浜畑で崩れたり、畝が乱れたりする災害が発生
したのは、新潟市では阿賀野川河口域の北部地帯であっ
た。農業における地震災害も結局は地盤災害であること
が判然としてくるのである。
 さらに表15で、信濃、阿賀野両川末流部での水稲単作
地帯で稲作にどんな影響を与えたかを確かめてみよう。
 被害の地区別は表14同様、信濃、阿賀野両川合流跡地
帯および加治川埋め立て地帯が第一位、亀田郷が第二位、
西蒲原寄りが第三位となる。そして耕地被害面積に対し
北部地区、中(亀田郷)部地区のすべては減収面積の合
計が多く、坂井輪地区および以南の、内野、赤塚、中野
小屋地区は減収面積が耕地被害面積より少ないか、ほぼ
等しいことが特徴である。これは河川堤防の破壊や、噴
出水により湛水・冠水被害が少なかったためである。
表15 昭和39年度水稲被害状況調査
地区名
栽培面積
耕地被
害面積
減収率
100%
99~90
89~70
69~50
49~30
29~0
減収合
計面積
石山
鳥屋野
曽野木
両川
大江山
大形
松浜
南浜
濁川
坂井輪
内野
赤塚
中野小屋
ha
912
540
750
595
780
513
51
294
313
847
170
530
1,050
ha
29
18
45
10
0.1
207
51
87
91
47
0.6
2
2
ha
20.4

1.0
0.2

90.0
27.0
3.0
5.0




ha
13.3

1.5
――
30.0
5.0

4.0




ha
5.0

4.4
2.5

15.0
5.0

3.5




ha
0.2
1.5
8.0
2.4

20.0
3.0
1.0
5.0
10.3
0.3


ha

10.0
21.5
8.0

63.0
3.0
51.0
43.0
12.0
1.0


ha
28.0
18.9
10.0
11.0
0.1
120.0
1.0
37.5
43.0
5.0
5.0
1.4
1.9
ha
66.9
21.5
55.3
24.1
0.1
338.0
44.0
92.5
103.5
27.3
6.3
1.4
1.9
8 小新の地震被害
一、住宅、農舎など
 小新集落での住宅全壊等の被害は全くなかった。四〇
〇メートル位浜寄りの二級国道村上、柏崎線が青山、小
針で砂山裾と水田の間を通るところで、暫くの間常時地
下水の湿り出すところがあり、そこの山裾の土地が滑り
出し住宅が幾戸か倒壊した。またその上砂山の崖崩れが
被さるという形で四名が死亡し、さらに地下水噴出口に
落ちて片手を出しただけで全身が埋まり死亡したという
犠牲者も青山の崖下の道脇ではあった。
 そうした事故に駆けつける人はいても、当初自家は無
疵と思い込んでいる人が多かった。が落ち付いてみると、
最初は持ち上げるように襲ってきて、次いで激しく横に
揺すられたため、壁の割れ、器物の落下、下屋や中門と
本屋の取付けのはづれ、鴨居取付けの空きなどが生じて
おり、あちこちに水平の狂い、前後の傾斜等の異常が発
見された。
 被害が大きかったのは、やはり西川堤防上の排水江の
近くの住宅等であった。中組高田平五郎家では、戸の開
かぬ場所、閉められぬ場所、屋根や梁のゆるみ、土台の
外れ、床の浮き沈み等があったし、中組の上端、海老喜
市家は昭和二十六年建築の本屋六〇坪、中門一〇坪程の
比較的新しい家であったが、西川堤防沿いの裏方土台が
沈下し、堤防脇から三本の支柱を入れ、家の傾きを支え
るという有様であった。被災時期は夏であったが、やが
て西風の吹きだす冬は、高田家は整理した耕地を埋め立
てて移転し、海老家は西川の水が滲み出しててくる屋敷
で冬を越すが、炬燵に入りながら頰冠りをし、慓えなが
ら寒気に耐えて暮らし、ようやく四十五年に二メートル
程土盛りをし、家を建て直した。また金田清八家は、村
道の東側沿いの家であったが、揺れがひどく、家の主柱
に添柱をして凌いでいたが、やがて家を造り替えた。海
老家と金田家の造り替えが上組では早い方であった。
 西山光一家でも住宅の東西での段差四四~四五センチ
が生じ、見舞金を受けるが、地盤の良い場所(井戸水も
よかった)は別として、軟らかい地盤でなお茅葺きを残
していた家などは、多少の差はあれこうした被害があっ
た。そして農業用施設も三和土(たたき)、コンクリート、
戸前等のいずれかに狂いが出ていたが、農業に差し支え
るということはなかった。水道、ガスは一〇間日の休止
で復旧する。
二、農地とその施設
 除草期で昼休みの人が多かったが、弁当持ちの人、仕
上げがおくれた人は田にいる人もいた。女性は大体屈ん
で除草をし、男性は除草器を押していた人が多かったが、
女性は地震の初動時には目前の稲株にすがって耐えたも
のの、第二の揺れでは田の中へ尻餅をついてしまったの
が殆どであった。除草器の押しの男性はめまいを感じて
近くの畦畔へ尻を下して休んだという。それでもそのま
ま泥んこになって仕事を仕上げて帰宅し、始めて青山、
小針方面の異変を知り驚いた人もいた。しかし小新農地
では、陥没、滑動等で稲木の列が波打ったり、ハカチ(行
列)が変わったり、田の中で地下水の吹き出すのを見た
ということは聞かない。
 新潟日報が伝えた長潟郷の旧潟跡であろうか二反歩位
が陥没沈没し、最深二メートル余の湛水池となり、鮒釣
りをする人が訪ねたとされる場所も確認できなかった。
しかし排水溝畔側に建てたコンクリート畦畔の継ぎ目
は、水漏れがより多く、粘土を詰めて直したり、埋設六
年後の暗渠管路の排水が少なくなったりした。このため
小新排水機の増強、それへ集水する横江第二幹線の堤塘
の災害復旧になてらって、負担のない災害復旧工業事業
へ持ち込もうという寄合相談をしたことも事実であっ
た。
三、堤防および囲土手
 二〇〇〇メートル程の堤防が村落の背部に続くのであ
るが、当初樋管地点の弛緩対策の外は、大きな亀裂、断
層発生もなかったようであり、西川の河川中旧時より民
有地としてある字川原の囲い堤も、大した被害がないよ
うに思われた。このため小新の人々は村は砂盤で地震に
は強く、堤防や囲土手も然りと思っていた。
 しかし七月に入ってからの連日の雨で、「伝平川ら」「勘
助川ら」等に穴があき、高田脇樋管や田村脇樋管に樋抜
け防止をしなければならなかった。そして水戸止め工事
(全村賦役)で囲土手を強化し、さらに滲み出す土手裾
の透し水を恐れて、市役所や県の土木派遣所の専門的工
事を要請していく。七月の雨つづきは、小新村民に堤防、
囲土手の被害および、自家の雨もりなどを通じて、生活
への影響が深刻であることも自覚させた。地震後は水害
の恐れを村民に深く感じさせたといえよう。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 二
ページ 575
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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