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項目 内容
ID J2801502
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1923/09/01
和暦 大正十二年九月一日
綱文 大正十二年九月一日(一九二三)〔関東大地震〕
書名 〔宮良當壯全集20 日記抄〕○東京市(本郷区向ケ丘弥生町)宮良當壯著S59・4・25 第一書房発行
本文
[未校訂]九月一日(土)晴、朝風強し 図書館整理のため例の如く
朝七時より学校へ行く。吉田吉郎氏唯だ一人見えて、
沢田・伊川・築の三氏未だ見えざりき。いつもより風
強くして溽熱堪へ難し。今日は土曜日なれば正午まで
なり。沢田先生は見えざりき。丁度もう一冊にて此の
日の仕事を終へて弁当を食べて帰らんとする正午頃、
俄然大地震あり。洋館はすぐに潰れると聞きゐたれば
予は真先に屋外へ飛び出でたり。力の限り駆けて建築
物より遠ざかり校庭の杉と丸太につかまり居る間も尚
も揺れて、御料地の石垣は此方へ倒れて一大凄音を発
したり。大建築は高煙突と共に尺余も揺れて今にも壊
れんばかり、倒れんばかり、折れんばかりなり。右手
の窓はどうつと地に墜ちて破砕し、諸方の壁は欠け落
ち、硝子窓は悉く破損し、吾々のゐたる図書館は書架
悉く倒壊して書籍は散乱し、狼藉ともいふも愚か、恰
も大砲にて撃ち砕かれたるが如し。恐ろし凄じといふ
も及ばず。予についで吉田、築氏屋外に退かれ、伊川
氏は最後まで踏み止られしが余りの震れ方に得堪へず
して走り出でられたり。事務室の方よりも諸氏屋外に
逃れ、弁当を持ちし侭の人もありき。二階より転落せ
し者もありきと。稍々時を経て揺り返しあり。初めの
ものよりは少し弱かりき。それより裏庭へ行く。小使
の婆さんは腰も立たぬ程なりき。時計は落ちて散々。
二宮氏の報告によれば氷川社辺にては壁に圧殺せられ
たる者二人ありといふ。それより半時間程吸江寺の裏
の墓地に数十人の住民と避難す。時に東方に当り火煙
揚り、火薬庫でも爆発するが如き大音響数回、そして
二十三回ありき。諸方に果して失火あり。一時半頃学
校より四谷へ廻る。電車も止りたれば徒歩なり。今日
は第一土曜日なれば十二時より博文館へ行くことにな
りゐたりしが、この騒ぎのため止めて四谷より帰宅す。
玉川電車も電車なければ徒歩なり。
 帰宅すれば蝶子は青木様、瀬戸物屋さん等と一緒に
裏の竹薮にゐたり。野宿の覚悟にて、蚊帳を釣りゐた
り。竹薮の中には外に新ノ辺、宮崎さんも割拠しゐた
り。今夜よりは電燈もなければ何処も皆闇なり。蠟燭
の火を便りとす。文明の絶頂より太古の生活に戻りた
るが如し。青木文四郎氏及宮崎主人は夜半に至るも未
だ帰宅せず、一同心痛す。万一の事がなければよいが
と祈る。帝都の空は赫然として凄然、ために田舎の竹
薮も映えて、明るきばかりなり。時と共に怪聞、奇聞
を耳にす。伊豆の大島爆発すと。朝鮮人諸所に放火す
と。この夜は戦きながら一睡もせず。
九月二日(日)晴 朝に至るも尚まだ、帝都も火は熄まず、
益々燃え盛るばかりなり。西南方にも同じく煙高く騰
る。これは横浜方面の火災か。風聞す。横浜は地震後
間もなく火災起り、焼死する者算なしといふ。東京に
ても火災十数ケ所より興りて漸時焼土と化しつつあ
り。街路の軌道上に陣取る者算を知らずと。又鮮人の
みの放火の外、社会主義の鮮人を使役して居る事を挙
げ、諸方にて検挙頻々たりといふ。
 地震は尚ほ止まず、中央気象台は焼失せしかば帝大
の今村博士の報あり。伊豆の大島の爆発、されど今後
地震の恐れなしといふ。唯だ勢力を得て市民を呪ふも
のは猛火なり。焼け出されてわが郊外に避難する者
続々として来る。栄華の巷に美衣美食に馴れしと思は
れる者が、痛ましくも白き足に荒草鞋を穿きて頰被り、
背に一包の小物を負ひ、疲れ果てたる足を引きずりな
がら落ち行く。それを見送り、涙を拭ふ田舎人。哀れ
なる婆の主は田舎人は実に幸ひなりといへり。食ふ物
も乏しくなり、昨日より僅かに握飯を二つ三つ食みし
のみなれば老も若きも力なく話し合へり。青木氏は真
黒になりて夕方帰宅せり。予は本日四谷を見舞へり。
夕刻より鮮人騒ぎありと。
 都の火は猶ほ熄まず。田舎に落ち来る人の数は刻々
に増す。始めの程は落人に涙注ぎし者も今は馴れて常
となれり。予は隠元や馬鈴薯を背負ひて四谷へ届けた
り。兄は夜警に疲れゐたり。それより小石川茗荷谷の
岡村氏を訪ふ。家が少し傾きしのみにて先づ無事。家
族は近所の庭に避難中なりき。『大日本地名辞書』(六
巻)及び『アイヌ民謡集』を受く。博文館は焼失せし
が、この本のみは助けたりとの事なり。又十円拝借し
て一時の凌ぎをつけることにしたり。それより本郷真
砂町の金田一氏を訪ぬ。無事。春日町の公設に木炭あ
れども運ぶ人なしとて窮せらる。予手伝ひて持ち来る。
江戸川にて放火鮮人二、三人捕はると。新聞紙に火を
点じて床下へ投ずるといふ。人心兢々。春日町にても
一人捕へられ両手を背にして縛られゐたり。飯田町の
旧校舎や砲兵工廠等焼失。水道橋畔には白髪の老婆の
仰向きたる焼死体あり。少し来れば又下駄の鼻緒の切
れた傍に死体あり。二十代の壮者と思しき屍軌道上に
俯臥して倒れゐたり。又焼けたるトタンにて覆へるも
の三あり。ドブの中に俯せる者一、池の中に俯せる者
二。電車の焼かれたる下には小犬の焼死せるあり。さ
しも軒を連ねたる神田の書肆も灰と化して尚も煙を立
てつつあり。
 渋谷へ来れば伏兵あり。道玄坂に至れば、三軒茶屋
より彼方は横浜より押寄せたる鮮人と砲火を交へ、抜
剣、殺伐、倒底行くべからずと。鉢巻きして竹槍を携
へる男達は砲兵隊にて一夜を明かして明朝帰宅すべし
と告ぐ。而して青年団の様に鉢巻をせよといふ。大橋
の輜重兵聯隊の前に来れば玉電の改札係の男、予等を
怪しと認めて本部へ伴ふ。三十分程調べらる。これは
青年団と称する者の言により鉢巻せる罪か。戦きなが
ら三軒茶屋を経て来れば、何の事もなし。
 今夜は朝鮮人が襲来するから決して光を発してはい
けない、一同静かにして呉れとの達しが自警団からあ
つた。それで吾々は竹薮の蚊帳の中で目をパッチリ明
いて今に鮮人の夜襲があるのではないかと息を殺して
聞き耳を立ててゐた。余り遠くない所で発砲のやうな
音が聞こえ、半鐘を連打する音も聞こえる。一種の凄
絶な気分に包まれて身を締めてゐた。竹の葉末から落
ちる水滴にもハッと肝を冷やす。同じ蚊帳に野宿して
ゐる隣家の青木さんの誰かが頻りに高鼾を発する。ま
た自警団から自警団へ何かを伝達するけたたましい声
が木霊のやうに闇夜を劈く。竹薮の側を通る鮮人は、
鼾声を聞きつけて今に踏み込まないかと一種の恐ろし
さと、鼻をつまんでやりたくつてつまめない心とが戦
つてゐた。やがて又隣の蚊帳に陣取つてゐた瀬戸物屋
の茂ちやんが泣く。お神さんが朝鮮人が来るといつて
威す。その中に夜が明ける。何の事もなかつた。流言
蜚語で戦いたのであつた。
九月三日(月)夕刻驟雨 今夜より家の中に入りたれども
地震なほ屢々ありて飛び出すこと数回。一睡もせず、
電燈なければ微かに蠟燭を点ず。鮮人山に隠れたりと
て挙村して早朝より山狩りをなせりと。されど何れも
妄説にして信ずべからざりき。社会主義者の放火あり
と聞く。又吾妻橋、大橋、神田橋、その他の大橋梁は
皆爆弾にて破壊せりといふ。本所などにては大津波が
今に来るから二階へ上れと言ひふらしてその隙に放火
せりといふ。横浜は全滅、鎌倉も又然りと。
九月四日(火) 東京より落ち延びる者算なく、久しく空
屋なりし杉山、福田の跡も秋葉といふ罹災者の一家族
十数名にて塞がりたり。その他近くの借家は皆満室と
なれり。
 風聞―本所、深川にてはバナナ一本九十銭、米一
升二円といふ。又ある所にては梨を一個五十銭にて売
れりと。罹災民之を買ひて食ふ。その中一人食ひ終り
て蹶然起つてその暴利漢を斬り倒し、而して衆に向ひ
て曰く、予は今この無慈悲極る奸商を殺せり。相当の
罪に伏すべしと。衆一言もなし。折しも警邏来る。死
体を見てその由を問ふ。殺人者具さに説く。査君「仕
方がないね」と一言を残して立去れりといふ。又聞く、
飢に泣く子あり。一紳士菓子を与ふ。その子は哀れに
も忽然として死せりと。先の怪紳士は菓子に毒を含め
たりといふ。又井戸に毒を注ぐ者あり。水を乞ふ若者
あり。腹痛なれば薬を飲みたしと。衆人井戸側に伴ひ
来りて水を与へ、薬を呑めといふ。若者却々呑まず。
頻りに責む。若者意を決したるものの如く、掌中の一
包を嚥下すれば忽ち死せりと。これ井戸に毒を投ぜん
としてわが喉に毒を投ぜるものなりといふ。この事伝
はりてより各々夜の中に翌朝使用すべき水を汲み置
き、人に後れて井戸の水を使ふやうにせり。人使ひて
死せざるを見て自ら使ふようにせり。
 本所の糧秣廠に非難せし者三万二千五百人無残にも
焼死せりと。その他吉原の娼婦一千人、浅草公園等に
も死体累々山積し、とても焼き尽くせぬといふ。死骸
取片づけ人夫賃一日十円といへど、一日すればもう再
び出来ぬといふ。
九月五日(水)晴 四谷より麴町へ廻れば六丁目停留所よ
り東方悉く焼けたり。三丁目の木全君方も勿論焼失、
目下新宿の津の国屋こと駒井重次郎方に立退中なりと
いふ。神田千代田町も焼けて中山太郎氏は西片町の高
比良方へ立退く。博文館も丸焼けで、仮事務所は本郷
区弓町の大橋進一方に置くと立札あり。直に尋ねしに
尚ほ上へ下への大混雑にて、長谷川氏も見えず。住所
を記入して来る。それより土持君方を訪ふ。直ぐ前ま
で焼け尽くして早や仮小舎さへ出来てゐる。それより
西片町の高比良家に中山氏を訪ふ。帰途池田・辻・堀
江の三家を見舞ふ。
 今夜より竹槍を携へて夜警をすることとなれり。世
は騒然として宛然昔日の戦乱の状を呈す。夜警の交代
制につき、郵船会社上りの斎藤氏と特務曹長上りの白
川氏との間に意見を異にして議論風発。
九月六日(木)晴 連日の疲れに今日は空しく過せり。周
囲の人々の伝へ来る新奇なる物語は只だ肝を寒からし
むるもののみなり。此処を去る十町余に駒沢といふ停
留場あり。その次を新町といふ。この新町に可なり富
裕に暮せる老婆あり。昨夜この老婆の家に一人の書生
風の男来りて哀れにも都の火に焼け出されて住むに家
なし。乞ひ願はくば今宵一夜の露を凌がさせ給へと泣
く〳〵請ひぬ。この老母素より心篤き者なれば気の毒
がりて、いざ這入給へとて早速蓐を延べ蚊帳を釣りて
休めたり。然るに件の男夜半に入りて蓐に石油を注ぎ
て火を点じたと。老母周章、近くの衛兵に訴ふれば兵
士飛来して不逞極まる犯人を捕り押さへ、漸く鎮火せ
しといふ。奇怪なり。
 又曰く、下町にて焼死を辛くも免れたる人の話とて
或人語る。時に火焰濛々、一人猛火を免れてドブの中
に突伏す。やがて又火熱に堪へかねて今一人その後に
続きて突伏す。更に又一人来りて突伏す。間もなく我
に帰りて背に冷気を覚えれば、見るに後に突伏せる人
は死し、又前なる者を見ればこれも息絶えてこの世の
者にはあらざりきとぞ。第二に走り出でて中に突伏せ
る者は即ち話者なり。真実に遠ざかれる話に似たれど
も或は誠か。只だ話者は少し話上手なり。
 白米買いに行けば四日前に既になしといふ。味噌、
醬油、砂糖、塩等全く絶えてなかりしが、今日漸く玄
米を駒沢小学校にて売ると聞く。されど昨日、世田ケ
谷にて玄米の握飯を一つ試食せしが舌触り極めて粗な
り。故に予等は玄米よりも麵類を佳として該小学校に
至りしに麵類は早くに尽きたりといふ。故に製麵所へ
至りて特に小量を分譲せられたり。又折よくも吉田吉
郎氏より白米一升ばかりと馬鈴薯とを寄贈せられしか
ば大いに助かりたり。
九月七日(金) 久しく暗黒の世界に住んでゐると燈火を
欲望することが切である。玉川電燈は今日から約一週
間の契約で八王子電気から引借して一般市民に燈明を
供給することになつた。但しこれは街燈を主としたも
のであるから各家にては一燈十燭のものを点ずること
が出来るといふ事になつた。然るにある家などではそ
れより大なる球をつけたため、吾々の所では僅かに線
が赤く見えて今にも消えるばかりで、人の顔さへ定か
でない。併し蠟燭を節約し得るだけでも有難い。
九月八日(土)晴 明日は夜番であるから、明後日岡村さ
んと中山さんとへ野菜を持つて行かうと思つてゐる所
へ、隣の青木さんが市電も通つてゐると云はれたので
明日行くことにし、夕闇のなか瀬戸物屋さんから馬鈴
薯や牛蒡や茄子などを売つて貰ひ、予は隠元を取つて
用意した。電燈は八時か九時頃についたが、電車を止
めてから又つけるとの事で、宵の中は矢張り蠟燭を点
じた。
 伝聞―本所被服廠跡で焼死した無残なる人々の中
には金指輪をはめてゐた人がゐたが、ある欲深の人非
人は指が腫れて指輪がとれないために指を引きちぎつ
てバスケットの中に一杯持つてゐたさうである。これ
は検挙されたために分つたといふ。その中には死体取
片づけ人夫として傭はれた者もあつたと。
九月九日(日)晴 却々の暑苦である。昨夜用意した野菜
を担ひで、岡村さんと中山さんとへ出掛けた。幸ひ三
軒茶屋から渋谷まで電車があつた。そこから青山一丁
目まで歩いた。交通巡査が長い物は何だと頻りに調べ
る。牛蒡だといつても却々納得しない。これは銃剣刀
槍の類を所持する者でないかと疑つてのことである。
足袋の底が破れてゐたために小石が這入つて大いに難
渋した。蝶子が間に合せのゲートルを作つて呉たので
大いに助かつた。四谷から市ケ谷を通り、飯田町を経
て茗荷谷の岡村さんの家へ着いた。途中石切橋の所で
大浜信泉兄に会つた。大曲の所は地が割れて尺程陥落
してゐた。岡村さんでは丁度野菜が払底してゐる時で
あつたから大いに喜ばれた。又西片町の高比良さんに
避難してゐられる中山さんへ行つた。この辺の地理は
よく知つゐるので幽霊坂から竹早町、白山御殿町へ出
た。中山氏は焼跡へ行かれてゐたので奥さんに会つた。
中山氏はカードのみを出して書籍は全部焼いたとの事
である。惜しい事限りがない。それから浅嘉町の橋本
進吉さん、曙町の藤島武二さん、富士前町の松村武雄
さん。木村自転車屋や神明町の吉田善太郎君、佐藤、
中村唯一さん等を見舞つた。山下玉之助さんは下谷で
焼け出されて吾々のゐた家に立退いてゐた。神明車庫
前から電車にのり、逢初橋で降り折口さんの所を尋ね
た。四日に帰られて今日は鶴見へ荷物を取りに行かれ
て今夕帰られるとの事であつた。それから三橋へ来て
降り、徒歩焼け落ちた神田橋を通つて桜田本郷町の加
藤圭介君方と善太郎君の会社を訪ふた。何れも危険を
目前にして辛うじて助かつたといふ。「共保」などは三
方焼けてゐた。虎の門で電車にのり青山六丁目へ来、
それから徒歩で四丁目の公設へ行き、電車が来たので
四丁目から終点まで来て、玉電に身を托して六時に帰
宅。罹災者は無賃である。博文館が焼けて学資を未だ
受けざるため吾々も同然であつた。夜は番に当つてゐ
るので又出掛けた。
九月十日(月)雨 吉田吉郎さんとの約束で、七時半頃か
ら青山の沢田先生宅を訪ねた。それは先月七日から図
書館の事務を執つてゐるのに、未だ給料を貰つていな
いために、此際成可く早く貰ひたいといふ事を吉田さ
んからいつて貰つたのである。明日兎に角学校へ行く
から、今日は出勤日数を二宮氏か平野氏へ分るやうに
して置いて呉れとの事であつた。先生宅は無事。伊川
氏は昨日来訪あつて、辛うじて一命を助かつたとの事
であつた。所有は全部焼失とのこと。吉田氏と学校へ
行く。山崎正之助氏へ出勤日数を示す。桑原氏来訪、
樋爪氏も共に焼失されたといふ。惨話多し。
九月十一日(火)晴八時より吉田吉郎氏と共に学校へ行
く。山崎氏の取計ひにて給料を二十三円受く。二十二
日分の給料二十二円及五日分の弁当料一円なり。今泉
君来校。折口先生、當陳兄寄贈の『沖縄一千年史』を
持参せられたりといふ。神風の照本氏神奈川より来校
ありて、該地の無警察状態を物語る。それより渋谷終
点より電車にのり本郷弓町の博文館を訪ふ。明十二日
は編輯部員の会議あれば長谷川天溪氏も来会あるべし
といふ。序に折口氏を下谷に訪ふ。今朝大阪へ立たれ
たりといふ。されど『沖縄一千年史』は受取りたり。
中島君を訪ふ。新宿御苑に十日間起臥せりといふ。引
越の如く荷造りをなせり。高崎君来訪ありて帰省せる
由。津の国屋に木全氏を見舞へば千駄ケ谷の中村なか
方に転避せりといふ。
九月十二日(水)晴 博文館へ行く。丁度会議中。長谷川
天溪氏は玄関まで出でられて十五日以後に来て呉れ、
私が居なくても生方君をして分るやうにして置くとの
話であつた。
 罹災民を相手に奸商跋扈す。九段上にては「社会奉
仕、ゆであづき大丼一杯五銭」と立札をして客を呼
ぶ。試みに入りて見るに、甘味の微量なる淡汁の底に
ゆであづき。加之に小豆は大小混和して虫の沸けるも
のあり。到底喫すべからず。社会奉仕も危険なり。
 軍隊より六人来りて瀬戸物屋の店に陣を張る。それ
を機として夜番は三分立せり。一は火の見塔の下、一
は稲荷神社の神楽殿、一は従来通り変電所前。呉服屋
組十八家、斎藤組十二家、変電所組十五家。何れも三
日に一度の制なり。
九月十三日(木)晴、夜豪雨あり 夜に入りて山口屋、自
転車屋等に電燈点ぜしに予等の方へは来らず。故に変
電所へかけ合ひに行く。所員は七、八十アンペアも来
れば毎家一点燈を許すけれども三、四十アンペアしか
来ないから渋谷辺ヲ成可くつけるやうにしてゐるとい
ふ。青木氏の夜番。近来稀に見る土砂降りにてトタン
屋根の楽騒然、安眠する能はず。
九月十四日(金)晴 竹薮組の夜番と思ひの外、消防組に
転じたり。出勤人員六人。予と呉服屋とは九時より十
一時半巡警、二時まで監視、四時半まで休眠。大野と
八百亀とは第二に巡り、憲兵とウドン屋とは最後に巡
る。十二時瀬戸物屋の奥さん夜食を炊ゐて来る。
九月十五日(土)晴、夕立あり 地震は十日頃に終熄すと
新聞に報ぜられしもその後矢張り毎日絶えずあり。今
夕のものは可なり大にして跣足のまま屋外に飛び出す
者ありき。余りに慌てたるため驟雨上りの裏庭にいや
といふ程尻餅をつきたる者もあり。
九月十六日(日)晴、夕立あり 博文館へ行く。停滞なく
学資二十五円を得たり。大橋氏は本石町の店舗、麴町
の本邸並に図書館、小石川の工場の一部(鉄筋建築倒
壊、死者四十人)を失はれしも、新聞紙上の広告には
「多少の損害を蒙り……」とあり。且つ三万円を寄附
せられたるなど、その資産家の本領は発揮せられてゐ
る。予等貧寒の書生は二十五円の学資が中止になりは
せぬかと心配せる程なりき。予はそれより小石川茗荷
谷の岡村氏を訪ひ、三日に拝借せし十円を返す。岡村
氏は五円だけでも使ひ給へといはれしが予は固辞して
返済せり、岡村氏方にて水団を喫し、又梅干一壜と蠟
燭七本を頂く。又今日も地震ありき。
九月十七日(月)晴 朝地震に眼醒めたり。今日こそは静
かに机に向ふことが出来ると思つて書斎で勉強をして
ゐると、十時頃蝶子が東京方面に火事があるといふ。
裏の畑に出て見ると果して黒煙が北天を蔽ふてゐる。
これは日暮里方面だと見当をつけて引込んでゐると、
瀬戸物屋に陣どつてゐる兵隊さんが四谷塩町だと電話
がかかつて来たといふ。これ一大事と早速出掛けた。
途中で交通巡査に聞くと牛込御殿だといふ。三軒茶屋
の交番所のガラス戸にはチョークで「四谷見附附近」
と買いてあつた。通行人に聞くと渋谷だといふし、車
掌は「青山五丁目」だといふ。渋谷へ行つて聞くと電
話が不通のため不明といふ。電車に乗ると今日から臨
時切符を出してゐる。片道六銭、往復十銭、但し乗替
へ無効。経済上今日は四谷見附まで行つて歩くことに
した。四谷へ行くと火事は日暮里と分つた。兄さんが
新町から帰つて来ての話である。そこへ千駄ケ谷の叔
父鎌さんも見えた。矢張り四谷の火事と聞いてである
といふ。帰つてから夕刊を見ると、三河島の大火、百
余戸全焼とあつた。瀬戸物屋の兵隊は、鮮人八百人の
監督のため目黒の競馬場へ移つたといふ。
九月十八日(火)晴、小震ありき 品川へ食糧が諸方面か
ら着いたので、わが野沢村の在郷軍人諸君はその運搬
に奉仕的苦労を分つた。そして他方と同じく罹災民及
び貧困者へ配給した。別に白米を米屋の手に渡さずに
府制の四十二銭定価で売ることになつた。予も買ひに
出掛けた。見ると罹災、貧困者が数十人一列になつて
配給の順番を待つてゐる。初めて来た者は予て貰つた
二寸角のボール箱を受付へ出す。受員が「四人、一升
六合、沢庵一本、味噌、罐詰一個」と白紙に記して渡
す。その人は列の後に並ぶ。米を計る者あり、罐詰を
加へる者あり、味噌を分つ者あり、沢庵を渡す者あり。
宛然戦場の観を呈した。被給者は「有りがたう御座い
ました」といひ、給者は「御苦労さんで御座います」
といふ。両者間の温情汲すべし。夜番、前半夜の番に
当り、十時まで巡警す。
九月十九日(水)晴、小震ありき 裏の畑に小松菜と小蕪
とを蒔く。伝聞―震災当時、市内にはチョークにて
種々の暗号ありき。軍隊よりの注意により抹殺するこ
ととなれりといふ。暗号に曰く。+〓は井戸に毒薬を
投ずることなりといふ。Aは爆弾投下といひ、ヤは放
火、カは強盗殺人といふ。
 電燈久しぶりにて復旧し、真に夜明けの感あり。夕
食もおいしかりき。
九月二十日(木)晴後雨 蝶子は九時半頃四谷へ行けり。
大震後初めてなり。電車終るも帰らず、心配して一夜
まんじりとさへ寝る能はざりき。
九月二十一日(金)晴、夕立 蝶子、尚ほ未だ帰宅せず。
杉本君と今日もパン食をして、兎に角四谷へ出掛けた
り。杉本君は焼跡を見に出掛く。四谷に至れば蝶子は
十時頃帰宅せりといふ。行き違ひなり。
 根岸、池田、大場の村の代表等、伝染病予防のため
諸所を消毒す。電車は五時から七時であつたが今日よ
り九時になつた。
 十七日午前零時半相州大山に山海嘯あり、八十一戸
埋没、八人惨死といふ。
 『東京朝日新聞』によると、東京憲兵隊分隊長憲兵
大尉甘粕正彦(三二)は十六日職務執行の際違法行為を
敢行したため、関東戒厳司令官陸軍大将福田雅太郎、
憲兵司令官小泉六一、東京憲兵隊長小山介蔵の三氏に
停職辞令が下つたといふ。
九月二十三日(日)晴後雨 常ちやんと共に、夜番に出掛
く。九時より十二時。世田ケ谷方面に火事あり。初め
て火の見櫓に登る。寒風烈しく吹き到底登り尽す能は
ず、半鐘の所にて下る。
 明治二十四年建造なりき浅草十二階を爆破せりと。
九月二十四日(月)暴風雨 午頃より風雨愈々荒み、夜に
入りて甚だしくなり、恐しくさへなれり。座敷に雨漏
る。本日まで電車は無賃なりしが、明日よりは罹災民
も改正賃金を徴収する由。
九月二十五日(火)晴 當陳及當奉二兄より来電。地震を
聞きて心配し来れり。直ちに無事なる事を返電すべか
りしに、駒沢局へ至れば世田ケ谷局へ行けといひしか
ば時間の都合上明日に延せり。野沢辺の小学校今日よ
り漸く始まる。
 『東京朝日』によると、甘粕憲兵大尉は去る十六日
夜某所にて無政府主義の巨頭大杉栄及外二名を殺せり
と。
九月二十六日(水)晴 午後に至り初めに小震あり。漸く
忘れたる頃又可なり大なる震動あり。人々皆屋外に飛
び出せり。その揺り返しも又可なり大なりき。杉本君
は午前中に水戸へ出発せり。その時今月分の家賃とし
て十円受取りたり。常ちやんは明朝学校へ行くとて今
夕四谷へ帰る。
九月二十七日(木)晴後雨 東京市政調査会では紐育在住
のビアード博士に宛て「震火災の為め東京市首脳部の
大半は滅亡した。此際最も短き期間に於て来朝の上御
高教を仰ぎたい」旨の依頼電報を打つた。これに対し
ビ博士より折返し帝都復興に関する都市計画の二大方
針に付電送して来たといふ。その電文は(一)新道路を設
定せよ、(二)建築を禁止せよ、と極めて簡単なものであ
つた。右に就て市政調査会側は理事会を開き審議の結
果、左の如き解釈を施すこととなつたといふ。(一)新道
路の設定はこの際既設道路に拘泥せず全く白紙の下
に、丸之内を中心とせる交通網を樹立すること、(二)焼
跡に於ける本建築は此際バラック式ならば兎に角半永
久的のものは都市計画線確立の後に譲ること。右ビ博
士の意見は直に復興院にも反映し、帝都復興に関して
も前記方針にて進むこととなつたといふ。ビ博士は十
月五日横浜着の予定で、同博士夫人は災害後のわが国
社会事業に尽力するとのことである(『東京朝日』)。
 伝聞―鮮人騒ぎの時、朝倉文夫氏の門弟等は長髪
なので誤られて捕えられるのを恐れて一斉に断髪した
さうである。
九月二十八日(金)雨後晴 風邪のため夜番を大場氏へ断
りに行くと、先達ての暴風雨の時は皆休んだから一日
送りとなつたとの事であつた。
 沖縄から郵便が数通来た。去る二十四日頃から東海
道線を経る郵便が配達されるやうになつたらしい。
九月二十九日(土)晴 漸く快晴になつた。予は諸方へ大
震見舞の返事を書く。
十月一日(月) 岡村さんから縫物を頼んで来たから、僕
は蝶子に代つて金田一さんへ奥さんの物を届けながら
行つた。金田一さんでは又綿入を二枚頼まれた。今日
は蝶子から一円二十銭の請求書を出した。所が仕立料
一円五十銭と電車賃三十銭を下さつた。岡村さんでは
罹災者及家族の物を沢山頼まれた。
 岸本区長の名で配給米二人分八合を受けとることに
なつた。
十月二日(火)曇今日も地震がぐら〳〵つとあつた。中
島悦次君の母上が来訪。ノートを八冊返却せられた。
そして同君の蔵書の一部を学校の図書館で当分預つて
貰ひたいから話して呉れとのことであつた。
十月三日(水)晴 大震災以来渋谷で学校の理事の氷室氏
に出会ふことが屢々あつた。その都度同氏から「また
是非図書館の整理の手伝いに来て下さい。沢田様も頻
りといつてゐましたよ」といはれた。又昨日は吉田様
からも同様の事をいはれた。何となく気が進まなかつ
たが、度々いはれると行かなければならないやうに思
はれた。それに昨日中島君から蔵書保管の件を依頼さ
れてゐる。七時に家を出て学校へ行くと事務の築君が
宿直で見えた。伊川さん、沢田さんも来てゐられた。
久しぶりに会つて見舞ひを述べたり言ひ訳をしたりし
てから、中島君の願ひを伝へた。幸ひ沢田さんは中島
君の父君の森向陵氏に絵を頼まれた事があつたので、
話は直ぐに叶へられた。そして案の定休み中手伝つて
呉れ給へといはれた。
十月四日(木)晴 午前一時に可なり大きな地震があつた
ので飛び起きて屋外へ出た。変電所や山口でも一時大
騒ぎであつた。余震終熄などと学者がいふのは全く信
用できない。九月一日以来数へ尽くせぬ程であつた。
 折口先生が突然学校へ見えた。八重山の話で大変面
白かつた。併し只一つ残念なことは、八重山の研究家
の間にお互ひに研鑽し合ふことなく、ある資料を得る
と之を独占して他に秘密にしてゐる事実を報告せられ
たことである。甚だ遺憾に堪へない。この悪弊を打破
して真に研究を達成するやう努めねばならぬ。
 『アイヌ神謡集』を読み乍ら学校へ行くと、折口先
生が譲つて呉れといはれたので、手離してお渡しした。
三時からは伊川さんの案内で折口先生の借家を探しに
世田ケ谷へ行つた。家はあつたが、囲いと屋内の修繕
との件がまだ話が出来ぬので決定し得なかった。
 今日は夜番である。池田さんが村の有志の寄附とい
つて、吾々借家住ひをして夜番に出る者へ白米一升と
金五十銭を配つて呉れた。ここの田舎の人々は外来者
に対して如斯親切である。下谷辺では避難者にまで夜
番をさせるといひ、四谷では地主は夜番に出ないで、
店子にさせるといふ。吾々はこれ等に比較して幸福で
あり、進んで出なければならない。大工の原田、憲兵
さん、お隣などはもう出て来ない。新聞には夜番を強
制的にしてはいけないと出てゐた。
十月五日(金)夜曇 学校へ行くと折口先生は今日も見え
た。先生は又八重山の話をされ面白かつた。八重山で
作られた唯一の歌は「青やまにいへふたところ見えわ
たり 古仁のうたこゑ山こえて来□」で、四箇から名
蔵へ行く途中の川原山の情景がよく表はされてゐる。
 夜地震三回あり。殊に最後の十時半のものは可なり
大。大震災での東京市死体収容数実に五万九千九百五
十二、内市火葬五万八千三百三十七人、遺族処分一千
五百九十七人とのこと。
十月六日(土)雨 午後二時頃博文館へ行く。長谷川氏に
会ひ学資を受取る。火災のため帳簿を焼失せしため、
今度来る時は原籍、氏名、現住所、学校名等を書いて
来て呉れとのこと。岡村氏へは学校の雑誌へ炉辺叢書
を紹介すべければ図書館へ寄贈せられたしといへば、
直ちに承諾せられたり。『アイヌ神謡集』を四十冊受け
て電車に乗らんとすれば砲兵工廠爆破のため午後五時
半まで通ぜずといふ。止むを得ず飛雨の中を神保町ま
で濶歩す。漸く立錐の余地なき電車に乗りて帰宅す。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 二
ページ 553
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 東京
市区町村 本郷【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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