[未校訂](注、既出なき図・表・文書を拾い出して掲げる)
清水湊地震前之全図
地震津浪変地掛絵図(清水市)
小林村変地之図(沼津市)
田地変じて湖水となる(沼津市)
図130-6 1854年安政東海地震による安
倍川流域の山崩れ分布絵図
図307-2 前の図と同じ
現在の地形図に記入
安倍川流域の山崩れ
安倍川沿いの旧家に保存されていた古絵
図によると、地震によって安倍川流域に生
じた山崩れの分布が描かれている(図130―6)。それを現在
の地形図にあてはめて書き直したものが図307―2である。
絵図は地震の翌月に当時の安倍川流域36か村の名主が集
まって地震による一〇〇か所以上の山崩れ被害を幕府に
届けたものであるが、山崩れの分布を見ると大谷崩をはじ
め現在の崩壊地とほぼ同じところが各所で崩れているこ
とが分かる。このことは地震による山崩れも大雨による山
崩れも崩れの原因がなくならない限り同じ場所が崩落す
ることを意味している。また、安倍川は最上流部まで崩壊
があったが、大井川流域では記録がない。しかし、天竜川
流域でも水窪や佐久間まで山崩れが知られているので、安
政東海地震による山崩れは静岡県の山地一帯に及んだと
考えることができる。
この掛川における安政東海地震の様子を伝えるものと
して、浄土真宗広楽寺の過去帳の中に当時の住職の記録
したものを見ることが出来る。この過去帳は安政東海地
震による広楽寺檀徒の死者が記されたり、また死に至る
までの原因等についても記された貴重な記録である。
(前略)
十一月四日大地震有城の天守閣も居城と共に倒る
已下大地震ニテ死去
広現 十一月四日 二藤町幸八
妙典 同月同日 同同人妻
妙俊 同月同日 同作兵衛妻
十蔵之店下也
右三人一処にて死屋梁之下となり死去
其上焼亡誠ニ目も当られぬ阿りさま也
是ハ幸八之妻前日ニ産を致候故是を抱き退かん
とせしと見候三人とも取組合て死去也
連証 同月同日 加茂村幸右衛門
妙厳 同月同日 同同人娘
妙原 同月同日 下俣町平蔵妻
地震即死ニ而葬式ハ翌安政二年二月十二日ニ執
行
妙致 同月同日 原川平右衛門母
妙稽 同月同日 二藤町勘兵衛娘
十一月十五日掛川城再築始まる
十一月二十七日安政と改元
(中略)
(注、以下「新収」 別巻五―一、一〇五二頁にある)
駿河国沼津城去寅年11月4日地震之節破損所覚図(厚木市 神戸潔家
所蔵)この図によると大手門の左右の石垣をはじめ本丸門の左右の土
居、二重櫓土居 二丸門土居三之丸門土居等々、激しい被害を受けて
いるとこがうかがわれる。
伊豆長岡町北江間村の津田家では、嘉永七寅年十一月
「御普請所破損ケ所附書上帳扣」という文書を所蔵して
いる。この文書によって江間用水(江間堰)の、地震に
よる破損か所について見よう。
覚
字岩崎一 石圦樋水門 不残崩落 壱ケ所
井路破損分
字谷戸一 磯七土橋 崩落 壱ケ所
同所一 井路長四拾三間 同断 壱ケ所
同所一 土手長三間 同断 壱ケ所
同所一 土手長七間 同断 壱ケ所
同所一 薬師橋 同断 壱ケ所
同所一 友八前土手三間 同断 壱ケ所
同所一 番人橋 同断 壱ケ所
同所一 井路八間半 同断 壱ケ所
字楠一 金毘羅橋 同断 壱ケ所
同所一 石垣八間 同断 壱ケ所
字坂之上天徳橋一 土手二間 同断 壱ケ所
同所一 参七橋 同断 壱ケ所
同所一 樋場向前 同断 壱ケ所
同所一 樋之上方積石四間 同断 壱ケ所
字墹之上一 次兵衛屋敷三間 崩落 壱ケ所
同所一 茂八屋敷添二ケ所 同断 壱ケ所
同所一 文七屋敷向前二間 同断 壱ケ所
字長岡携下一 積石六間 同断 壱ケ所
同所一 長岡橋 同断 壱ケ所
同所一 谷戸洞橋 同断 壱ケ所
同所一 白石上井路八間半 同断 壱ケ所
字古奈村入口一 番人橋上方石垣共 同断 壱ケ所
同所一 番人前土橋 同断 壱ケ所
同所一 土手九間 同断 壱ケ所
同所一 土手石垣六間 同断 壱ケ所
同所一 仁平橋 同断 壱ケ所
同所一 十左衛門石垣三間半 同断 壱ケ所
同所一 同人石垣拾間 同断 壱ケ所
同所一 甚左衛門石垣拾間 同断 壱ケ所
字古奈村一 は祢石垣十二間 崩落 壱ケ所
同所但打石有無相誤り不申候一 井路石垣拾八間 同断
同所但積直シ共一 堂之上ノ方石垣二間 同断 壱ケ所
同所一 同断向側拾九間半 同断 壱ケ所
同所一 井路積石拾間 同断 壱ケ所
同所一 心太庵石垣三拾壱間 同断 壱ケ所
同所佐山様屋敷添一 佐四郎橋 同断 壱ケ所
同所一 水吐下山崩 壱ケ所
同所一 水吐積石四間 崩落 壱ケ所
同所一 水咄上山崩 但少々 壱ケ所
同所一 同断山崩 同断 壱ケ所
同所一 山崩 壱ケ所
古奈村水咄上一 山崩 壱ケ所
黒柳下一 山崩 壱ケ所
字長岡村分一 最明寺前土手拾壱間 崩落 壱ケ所
字天野村之内一 法印前向側石垣拾間 同断 壱ケ所
同所一 漸正寺橋 同断 壱ケ所
同所一 八幡橋 同断 壱ケ所
〆井路山崩之分
凡四拾六ケ所 此外自普請之場所石橋石垣等崩
落個所数多御座候
右者去ル四日(嘉永七年十一月)大地震ニ而御普請所破損仕候ニ付奉書上
候処 相違無御座候 以上
嘉永七寅年十一月
豆州君沢郡北江間村
百姓代弥左衛門
沼津 組頭善右衛門
御役所 名主理兵衛
とある。北江間村から沼津御役所に提出した書上を見れ
ば明らかなように、江間用水の被災状況は相当深刻なも
のであることは明らかである。
そうした被災状況を取りまとめると表1の通りであっ
た。これによって見ると用水路に架かる橋が11か所も落
下し、用水路ならびにそれに附随する土手、石垣、積石
等が随所で崩落するという状況で、これらの復旧費は御
普請所というから、幕府の財政的支援によって賄われる
ものであるが、関係村々の人足を動員しても、用水が順
調に流れ、田畑を潤すにはかなりの時間を必要としたも
のと推測されるのである。(後略)
駿河国富士郡加島平野における各村々の場合
現在の富士市は旧吉原市、旧
富士市及び鷹岡町の二市一町
が合併したものであるが、この旧富士市は富士町、若松
村及び田子浦村の一町二村が合併して成立したものであ
った。この旧富士市域はかつて加島五千石といわれた、
表1 江間用水被害取りまとめ表
被災区分か所・長さ等被災状況
石圦樋水門1か所崩落
橋(土橋を含む)11か所〃
井路61.5間〃
土手40間〃
石垣積石132.5間〃
山崩6か所〃
表2 日向小伝太知行所及び相給領主及び知行高
(『富士市史資料目録』第3集による)
村名
平垣村松本村松岡村瓜島村十兵衛比奈村
領主名石高石石石石石石
日向小伝太577.300150.536230.28285.228122.755203.935
高木主水正77.743
松平采女26.384
韮山代官所53.587
大久保加賀守616.868
杉浦主税373.760
酒井采女85.468
石川又四郎178.217
秋山虎之助629.740
内藤駒次郎677.728
(注)弥生98石226は日向1人
図1 加島平野村々位置図(国土地理院発行
明治20年1/2万地形図「大宮」「吉原」を縮小・加筆)
県内でも有数の穀倉地帯であって、これを加島平野と呼
んでいた。
この加島平野には古郡重政、重年父子が17世紀の中頃
富士川に雁堤という堤防を構築したことによって、新田
開発が進み新しいいくつかの村々が成立していた、これ
らの村々の江戸時代における領主支配の状況は、幕府領
とか小田原藩領の村が一部にあるけれども、その大部分
は旗本の采地の村々であった。
これら幕府領、大名領、旗本領の村々は、単独の領主
が1村を支配するという場合は稀で、その大部分は一村
を複数の領主で支配するという相給の村が多かった。従
って安政東海地震のような災害に見舞われたとき、その
救助等を領主に願い出る場合、村人は領主ごとに願書等
を提出していたから、一村の被災状況を伺い知ることは、
大変な困難がともなっていた。
こうしたことを前提に、この地を領有していた旗本日
[向|ひなた]小伝太領における、安政東海地震の被災状況を見るこ
ととしよう。日向は加島平野に展開する平垣村・松本村・
松岡村・瓜島村・十兵衛村・比奈村・弥生村(住民なし)
等八村を領有していた。これらの采地の村々の支配は、
平垣村及び弥生村は単独支配であったが、他は相給であ
った。その状況は表2のとおりであった。
つまり平垣村及び弥生村を除き、松本村は日向・高木・
松平の3人による3給地、松岡村は日向・韮山代官所・
小田原藩・杉浦ら4人による4給地、瓜島村は日向・酒
井、十兵衛村は日向・石川らによる2給地、比奈村は日
向・秋山・内藤ら3人の旗本による3給地であった。
相給地の村の様子を知ることはなかなか難しい。村高
表3 大地震ニ付御救金米共書上控
(『富士市史資料目録』第3集による)
村名家数皆潰半潰小痛備考
松本村26軒16軒2軒2軒
皆潰名主1人百姓代1人
小痛2人長痛身元の者3人
平垣村55軒20軒18軒
3軒
(無事)
皆潰20軒中極窮12人
中の者8人
半潰窮民10人中の者8人
松岡村63軒47軒16軒皆潰名主2人高持4人
瓜島村10軒4軒6軒
半潰2軒名主・百姓代
半潰4軒身元者
比奈村26軒2軒2軒22軒
弥生村――――住民なし
十兵衛村――――記事なし
は領主ごとに分けられるのであるが、これには村内の田
畑を1年ごとに領主の数によって分ける場合と、また田
畑を耕作する百姓をも領主ごとに分けるという場合もあ
る。自然災害に被災するのは1人々々の住民であったか
ら、簡単に村の被災という理解に到達することの出来な
いこともままあるのである。
このような相給支配の展開という事実を前提とした旗
本日向小伝太領における、安政東海地震の被災状況につ
いて見よう。
大地震が発生し、村人たちの被災が激げしいと、領主
層はそれら被災者を救済する必要があったから、それぞ
れの立場から支配地の村々の被災状況を調査し、救済の
ための準備に着手するのであった。日向領にあっては嘉
永7年11月4日、早くも「大地震ニ付御救金米書上帳」
(松永家文書)とか、同じく「潰家並ニ窮民書上帳」(同
前文書)などの緊急調査を実施していた。
日向氏が采地の村々の被災状況の調査を何故実施した
のか、勿論それは被災者の救済ということもあったであ
ろうが、それ以上に考えられることは采地の村松岡は相
給ではあるが、富士川渡渉の富士川左岸の要地であると
いうことから、ここの被災の状況によっては東海道の公
私にわたる往来に支障が生ずるから、これをなるべく早
く復旧する必要のあったことや、いま一つは安政東海地
震によって、松岡村の対岸岩渕村等々を含めて
(安政東海地震)「地震の節 岩渕村下にて地所ゆれ廻わり、大水新開辺
へ本瀬流れゆき」(小池日記)とあるように、この付近を
南西から北東に走る活断層の動いたためか富士川右岸は
地盤が降起し蒲原地震山が出来たり、左岸でも松岡地震
山が形成されるなど、地所揺れ廻ると表現される程、格
別の地震の揺れが感じられ、それにともなう激しい被災
があったからなのであったと思われるのである。
こうした立場から、「大地震ニ付御救金米書上帳」に見
る日向領の居宅等の被災状況は表3の如くであった。こ
れによって見ると、皆潰(全壊)となった家数の多いの
は、活断層に近い集落であった松岡村で皆潰率75%と圧
倒的に高く、これに隣接する松本村でも皆潰率は60%と、
かなり高いことが分かる。つづく平垣村も皆潰率は高い
方であるが、富士川左岸から遠く離れた比奈村など被災
率は軽微であったと言える。
このように見て来ると、加島平野と一言に言ってもそ
の全てが同じように被災するのでは無く、それぞれの村
の立地する地理的位置によって、被災程度は相違してい
ることに注目すべきであろう。
いっぽう、日向小伝太の采地の村々よりやゝ東側の
村々を領有していた、旗本久世三四郎の采地の村々の場
合について見よう。久世三四郎は駿河国富士郡及び同駿
東郡に采地をもつ上級旗本で、富士郡にあっては蓼原
村・横割村・柚木村・本市場新田・津田村・高嶋村・青
島村・依田原新田等々の村々がその采地あった。これら
の村々の支配状況並びに村高及び家数等について、その
概況を見ると、
蓼原村 一、二九三石(天保郷帳)
久世 酒井 戸田の相給 家数一六八軒(明治五年)
横割村 六七一石(天保郷帳)
久世と内藤駒次郎 家数不祥
柚木村 四五八石(天保郷帳)
久世領 家数六四軒(明治九年)
本市場新田 一七五石(天保郷帳)
久世領 家数一二軒(内寺三)(明治五年)
津田村 二一四石(天保郷帳)
久世領 家数六四軒(明治十八年)
高嶋村 六石(天保郷帳)
久世領 家数五三軒(明治五年)
青嶋村 一三五石(天保郷帳)
久世領 家数五〇軒(『修訂駿河国新風土記』)
依田原新田 一七一石(天保郷帳)
久世領 家数三〇軒 〃
となっている。これら村々の情況の中で蓼原村、横割村
表4-1 各村「潰家書上帳」
(『富士市史資料目録』第3集)
安政3・8
村名戸主名居宅皆潰居宅半潰
蓼原村庄吉○
婦き○
要蔵○
半右エ門○
久左衛門○
与兵衛○
新兵衛○
源七○
太助○
喜八○
伊右衛門○
清右衛門○
幸八○
小計49
横割村惣七郎○
米蔵○
小計02
柚木村小右衛門○
甚助○
茂兵衛○
彦右衛門○
由左衛門○
小計23
本市場新田茂八○
元兵衛○
小計02
津田村
半助○
作右衛門○
津田弥吉○
善吉○
五郎兵衛○
藤七○
忠助○
久蔵○
庄七○
丈吉○
はつ○
常七○
弥七○
藤七○
小計68
高嶋村甚蔵○
小計10
青嶋村庄兵衛○
次右衛門○
才兵衛○
文兵衛○
兵助○
小計23
依田原新田彦兵衛○
茂八○
政右衛門○
忠兵衛○
幸蔵○
小計23
総計1730
のような相給村における相給領主に属する石高とか、ま
た百姓数(家数)の詳細は明確ではない。また村々の家
数についても、一定の年次で示すことは出来ないという、
いくつかの問題点はある。こうしたなかで安政東海地震
の被災状況を見るということは厳密さに欠けるという恨
みはあるが、こうした問題点を持ちつつも、安政三年八
月久世三四郎の八幡陣屋(現駿東郡清水町八幡)では、
采地の村々の「潰屋書上帳」(富士市「笠井家文書」)を作製し、居宅
皆潰、同半潰という被災区分に基いて調査し、その上で
これら被災領民に対して米を救援物資として支給してい
た。
ともあれ、この「潰家書上帳」に見る富士郡下の采地
の村における、領民たちの被災の状況を表示してみると、
表4―1・2の如くになる。
この表4―1・2に見る采地の村々の所在地は、JR
富士駅・東方一帯と、現富士市役所南側の潤井川の流れ
を挟んだ地域に当っていた。これらの地域は先にも指摘
したように蒲原地震山、松岡地震山をつくり出した富士
川河口右岸地帯から水神森(富土市富士川左岸)の方向
に走っていると言われる活断層線から若干東に離れてい
た。
そうした地帯にあっては、表によって明らかな如く被
災の情況は必ずしも深刻なものではなかった。久世の采
地七か村の家数の概数は四四一軒余で、この四四一軒中
居宅皆潰は約4%、同半潰7%で、皆潰半潰を合計して
も約10%の被災率にとどまる。勿論この概数は、蓼原村
の酒井ならびに戸田に属する百姓家数、あるいは横割村
で内藤駒次郎に属する百姓家数が、どうであったのか明
らかではないので、被災率は以上の割合より、いくらか
は上回ると思われるが、そうであったとしても加島平野
に展開するこれらの村々の被災状況は、激甚なものであ
ったとは言えないのであった。ともあれ安政東海地震と
いう巨大地震のもたらす災害は、村や町の立地する地理
的位置等、様々の条件が総合されて災害に結びつくもの
であるから、災害の現れ方は一様では無いことを理解す
べきであろう。
表4-2 潰家並ニ窮民書上帳
嘉永7年11月 松岡村
名前間口間数皆潰半潰
源内6間半○
五右衛門6間○
幸太郎3間半○
庄左衛門6間○
利兵衛6間○
佐七5間○
仁助4間半○
兵左衛門5間半○
利八5間半○
平兵衛5間半○
弥平治5間半○
彦兵衛5間○
七兵衛5間○
宇右衛門4間半○
清助5間半○
利右衛門5間○
幸助5間○
窮辰五郎4間半○
〃和蔵4間半○
〃茂八4間半○
〃与七4間半○
〃孫七4間半○
〃清(宇八事)助5間○
〃重蔵5間○
〃曽七5間半○
〃善七3間半○
〃用吉5間○
〃栄助4間半○
〃彦右衛門4間半○
〃金右衛門5間○
〃甚兵衛3間○
〃専助3間○
〃清吉4間半○
名前間口間数皆潰半潰
〃惣右衛門4間○
〃常太郎3間半○
〃直平3間○
〃平左衛門3間○
〃藤蔵3間○
〃久右衛門4間半○
〃喜右衛門4間半○
〃十助3間○
〃茂兵衛3間
〃常吉4間半○
〃勇次郎4間半○
〃用蔵3間半○
〃仁平3間半○
〃元右衛門5間○
〃直兵衛4間半○
〃源兵衛5間○
〃粂吉4間半○
〃忠左衛門4間半○
〃伊兵衛3間半○
〃平五郎4間半○
〃与右衛門3間半○
〃源蔵4間半○
〃金蔵4間半○
〃音助4間半○
〃直吉3間半○
〃新蔵4間半○
〃源蔵5間○
〃六右衛門3間半○
〃兵三郎3間○
次郎右衛門
皆潰ニ者侯ヘ共古郡
長屋ニ住居仕候
〆63軒内48軒皆潰15軒半潰
45軒窮民ニ御座候12軒百姓渡世
4軒田畑少々持百姓渡世2軒名主格
図2 安政東海地震の津波に襲われた舞坂宿の図(舞坂町 渡辺担家所蔵)
ところで安政東海地震によって発生した津波による御前
崎の被害は、上岬・下岬・女岩・大山及び二つ家西組に
集中していた。それは広沢組の組頭忠右衛門が、周辺集
落の被害状況を下吉田奉行所に報告した文書を、後世の
ため写し置いたものによって明らかである。それを表示
して見ると表5のとおりであった。これによって見ると、
南西の方角から北東方向にむかって押し寄せて来た津波
は、上岬・下岬の集落をかすめて、被害は大山、女岩等々
の集落に集中しているかに見える。津波の動きと海の状
態とが重なりあって相当に複雑なものであったらしい事
がわかるのである。
表5 地震損地潰家並大破方書上帳 嘉永7年11月 広沢組 組頭忠右衛門 写置也
集落名人名等損地漁船居家及び別家
上岬見仕田多分ニ小破
3反5畝00
又蔵潰
権六潰
富八潰
要蔵潰
下岬7畝00
粂右衛門潰家
徳右衛門2艘流失
1艘大破
広沢組多分ニ小破大破潰家無
女岩組下田
3反9畝21号
藤左衛門1艘大破居家・別家大破
藤右衛門1艘大破居家別家震込
三蔵居家大破
五右衛門潰家1軒別家大破
甚平居家大破別家小破
文平1艘大破居家大破別家小破
源〔〕同上〃別家大破
仁〔〕同上居屋敷震込居屋敷大破
大新右衛門1艘小破居家大破別家小破
常吉居屋敷渡打込住居ならず
文右衛門同上
仁右衛門居家別家共ニ潰
斧右衛門居家大破
吉五郎屋敷損地居家・別家共ニ大破
藤兵衛〃同上
左次郎別家不残潰
佐七1艘大破土蔵大破
権平居家別家共ニ潰
老助居屋敷浪打込
友蔵同上
二ツ家西組中下田合
3畝24歩
政五郎別家大破
又右衛門同上
六郎兵衛同上
三五郎同上
大山組中下田合
1反3畝27歩
畑3畝9歩
源兵衛潰家
不明人同上
仙吉居家別家共ニ大破
清蔵同上
源七同上
勘四郎同上
伊右衛門同上
政八同上
惣八同上
伊介同上
市大夫同上
吉五郎同上
田畑反別1町2畝21歩
妻良・子浦の津波と八木沢の津波
伊豆半島南部の[妻良|めら]・子浦は日和
待湊として有名なところで、安政
東海地震が発生した時、日和待をしていた廻船が地震や
津波に遭難したかどうか、大変興味のあるところである
が、残念ながらそうした記録を今日まで発見することは
出来なかった。
こうした廻船はともかく、妻良・子浦には津波等に関
する文書は殊の外少ない。こうしたなかで妻良には永代
帳という村の記録があって、この中に地震・津波のこと
が記されていた。それによって見ると、
同年(嘉永七)十一月四日五ツ時頃近来稀成大地震 四日四ツ
時頃ゟ九ツ迄大津波ニ而当村過半浪入多分の痛居家
八拾軒余住居難相成 其内約廿軒余大破損 其時五
左衛門 甚左衛門流失 其外物置 釜屋 小家 雪
穏廿軒流失 其の頃ゟ十二月廿日過迄 近所畑杯へ
小家をこしらい住居いたし候もの有之
という事が書かれていた。(中略)
戸田は当時総家数五九三軒で、うち流失二四軒、潰家
八一軒、大破三三軒で、その他中小破損家は村内一統に
及んだ(「安政二年三島助郷への使役請免の嘆願書」)。水死者は三〇人と記され、
このほかに内陸部の新田で一人の地震による死者を出し
ている。『戸田村誌』にはこのほか傷者25人、橋梁皆破七
か所、破船二五隻と津波被害が記されている。佐藤もん
女の口述によれば、地震発生のとき小山田地区の親戚の
法事のとき地震に遭い、急いで帰宅する途中、平右衛門
宅前で津波に遭い膝まで潰かった。地震後五分ほどで津
波第一波が襲ってきたこととなろう。家にたどり着くと、
第二波が襲ってきて、海水は家の中にまで入り、体が浮
き上がった。家の裏の木に取りすがって助かったという。
ここでもこの第二波が最大であった。戸田大浦地区の佐
藤彦三郎氏の祖先は家の梁のところまで浮き上がったと
伝えており、これからここで海水は標高五・一㍍まで上
がったと推定される。戸田市街地の背後にまわった海水
は、三光寺石段二、三段まで来たと伝承され、羽鳥(一
九七七)はここでの浸水高さを三・五㍍とした。
井田は、妙田寺過去帳に女性一人の死者が記録されて
いる。集落の南、「明神池」へ行く道の途中、「ヨコマク
リ」のところまで津波が来たという伝承があり、浸水高
さ四・二㍍とする。(中略)
福田・竜洋付近では、明治二十六年の長野村鮫島(現
磐田市)の記録に「大地の振動とともに海水一丈余引汐
となり、空地を生じたるに、いま引き返したら潮水再び
湧くがごとくに陸地に向て浸し、その勢潤々としてたち
まち海浜数十歩の砂浜を没し、なお止まるべくも見えず。
実にものすごきこと言んかたなし。然るに浜は誠に平穏
にして油を流したるごとしと云ふ」とある。この文によ
写真1 井 田(戸田村)
ると、最初に大きな引き波が観察されたこと、次にはた
ちまちすごい勢いで水が襲ってきたこと、そしてその有
様が風波と違って白い波も立てず静かに襲ってきたこ
と、など記録されており、津波の特性が見事に描かれて
いる。福田の記録に「激震の動揺止むや、沿岸の村落へ
は海嘯溢れ、平面より高きことおよそ一丈(三㍍)余。
ために海水浸入すること五町(五〇〇㍍)余に及べり」
と記されている。