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項目 内容
ID J2800843
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔ふるさとのあぶらひ〕○滋賀県甲賀町H10・3 油日創意と工夫の郷づくり委員会発行
本文
[未校訂]災害
安政の地震
地震の模様
地震史によると「安政元年(一八五四)
六月十五日安政の大地震、伊賀、伊勢、
大和、近江、規模六・九、暁(二時)伊賀、大和の諸國
大地震、[就中|なかんづく]伊賀西北部、大和東北小部、山城南東端、
近江南部を包括する長さ約八里(三一・四キロメートル)
幅四里半(一七・六七キロメートル)の区域は震害特に
甚だしく山崩れ地割れ土地の隆起陥没等を生じたり」と
なっている。また「震災地を通じて壊燒家屋五千、死者
一千三百五十二人」(地震観測法)となっている。さらに
「近江の國の被害は、大津浜通り米倉大破、尾花川辺な
ど人家残らず壊れ死者多し(中略)草津石部辺破損おび
ただしき由、信楽震い強く家潰れ圧死五十~六十人もこ
れある由なれど山中ゆえたしかには知れず」(以下略)(滋
賀県災害誌)などとなっている。
 また滋賀県地学ガイドによれば震央三重県柘植附近M
六・九死者伊賀上野五百九十三人四日市百五十七人奈良
二百八十四人郡山百十人、断層を生じ最大一・五米沈下
す、となっている。
神宮寺の倒壊
この地震で折から改築中であった神宮
寺本堂が倒壊する惨事となった。堂宇
は翌安政二年再建に着手し同四年(一八五六)八月五日
僧、昌誉上人のとき上棟完成している。また上野極楽寺
山門もこのとき倒壊し再建されている。(上野誌)
 なおこの年秋十一月にも東海道沖、南海道沖でM八・
四の大地震があり古老の言い伝えによると度々竹藪に避
難したといわれる。
油日大明神と境内寺院の被害
安政元年(一八五四)
六月地震は油日大明神
と別当成就院、照養院にもかなりの被害があった様子が
嘉永七年(一八五四)九月山門総持坊(叡山)に宛てて
次の文書に残されていて興味深い。
恐れ乍ら書附を以て願上奉り候
一、油日大明神御納戸近年借財相嵩み難澁仕り罷在候処、
先達て御届け申上候通り当六月中大地震にて社堂向き
残らず末社並びに両院諸堂社、御本社の高塀石垣の向
き惣崩れ無難の建物壱ケ所も御座無く大破に及び甚だ
難渋至極仕り候、然る處当年御納戸へ成就院講落札相
成候に付、先年拝借仕居候弐百両之内へ返上納仕る可
き旨申上置き候得共右の仕合に相成候に付何率御憐愍
を以て大破の場所修復並に残金の分借財済方に御貸下
げ成し下され候様伏て願上奉り候、尤も返上の儀は御
納戸様より神楽講に壹口分加入御座候に付落札之節返
上納仕る可く候、何分にも氏子一同難渋の儀に付修復
手当の勘定御座無く候に付何率出格の御憐察を以て御
貸し下げ成し下され候様三方一同願上げ奉り候、右願
の通り御許容成し下され候得ば諸修復行届き並に御納
戸借財かなり形附申す可きと一同有難き仕合せに存じ
奉る可く候
嘉永七年寅九月
氏子惣代 油日村庄屋小左ヱ門印
社役惣代上野嘉七印
山門総持坊 御役所 当行事 成就院
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 二
ページ 269
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 滋賀
市区町村 甲賀【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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