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項目 内容
ID J2800038
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1498/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1498/09/20
和暦 明応七年八月二十五日
綱文 明応七年八月二十五日(一四九八・九・二〇)〔伊勢・紀伊・諸国〕
書名 〔明応地震と港湾都市〕矢田俊文著「日本史研究」412号一九九六・一二・二〇日本史研究会
本文
[未校訂]はじめに
(前略)
 明応地震についての研究論文はほとんどない。明応地
震について一番最初に書かれた論文は、一九二三年に書
かれた喜田貞吉氏の「永正の今切れ」であろう。この論
文は、一九二三年九月一日に起こった関東大地震(マグ
ニチュード七・九)直後の同年十一月の『社会史研究』
第十巻四号(日本歴史地理学会)の特集「日本震災史」
のうちの一つである(1)。しかし、この論文以後、明応地震
は歴史学の分野では研究の対象となったことはなかっ
た。
 歴史学からの論文はなかったものの、地震学の分野で
は、都司嘉宣氏の「明応地震・津波の史料状況について」
(一九八〇年)(2)、「明応地震の津波は和歌山をおそった」
(一九八一年)(3)がある。
 その後、私は都司氏の論文「明応地震の津波は和歌山
をおそった」と都司氏編集の地震津波史料集「紀伊半島
地震津波史料―三重県・和歌山県・奈良県の地震津波―」
(4)に学んで、「明応七年紀州における地震津波と和田浦」(5)と
いう論文を書いたことがある。
 その論文で、私は、地理学の古景観復元研究(6)を基礎に、
中世和田浦の位置を推定し、次のようなことを明らかに
した。
 明応地震以前は、紀ノ川の河口は砂丘で塞がれていて
現在の位置にはなく、和歌川・水軒川を通って南から海
に抜けていた。紀ノ川の流路は、はじめは土入川から和
歌川を通って和歌浦に注ぎ、次には土入川・水軒川を通
って大浦に注いでいた。紀ノ川は明応七年八月二十五日
の地震によって砂丘を突き破り、河口が図1のように西
に開いたものと考えられる。
 和田浦は、賀茂社紀伊浜御厨内にあり、坂東丸などと
いう関東と紀伊を行き来していたことを想定させる丸号
の船を持つ港湾であった。そしてその港湾は、海に面し
た港湾ではなく、西に向かって流れる紀ノ川が砂丘によ
って海に注ぐことを遮られることによって形成された内
水面の港湾であった。それが明応七年八月二十五日の地
震津波で壊滅し、和田浦の住民は寺社とともに湊地域に
移住し、戦国期に新たな港湾都市を建設した。
(1) この特集に載った論文は、木宮泰彦「日本震災史慨
説」、西岡虎之助「王朝時代の地震とそれに対する思
想」、大森金五郎・龍粛「鎌倉時代より南北朝時代ま
での地震」、喜田貞吉「永正の今切れ」、花見朔巳「慶
長・元禄・弘化の地震を中心として」、藤井甚太郎「安
政震災後の救済」、沢田章「安政震災当時の社会相」、
西岡虎之助「支郡に於ける地震」である。しかし、
この論文以後、明応地震は歴史学の分野では研究の
対象となったことはなかった。なお、喜田には、ほ
かに、「遠江国浜名湖口の沿革」『歴史地理』一巻一
号、一八九九年、がある。
図1和田浦関係図(原図は日下雅義1980)
(2) 都司嘉宣前掲「明応地震・津波の史料状況につい
て」。
(3) 都司嘉宣「明応地震の津波は和歌山をおそった」
『科学』五一―五、一九八一年。
(4) 都司嘉宣編「紀伊半島地震津波史料―三重県・和歌
山県・奈良県の地震津波史料―」『防災科学技術研究
資料』六〇、科学技術庁国立防災科学技術センター、
一九八一年。
(5) 拙稿「明応七年紀州における地震津波と和田浦」
『和歌山地方史研究』二一、一九九一年。
(6) 日下雅義『平野の地形環境』古今書院、一九七二年、
同『歴史時代の地形環境』古今書院、一九八〇年。
(中略)
一 遠江橋本と明応地震
 図2中世浜名湖湖底遺跡と明応地震以前の浜名湖の原
図は、向坂鋼二氏の作成の図が基礎となっている。向坂
氏の古代浜名湖推定図に、中世浜名湖湖底遺跡を載せた
ものが、図2である。
 古代と中世とでは湖の水位は異なるので、中世の浜名
湖の大きさは図2の通りではないが、図2のように、中
世の遺跡の地点をみるかぎり、古代とさほど大きな景観
上の違いはないと考えてよい。明応地震以前の浜名湖の
おおよその景観は図2のようなものであろう。
 図2で注目したいのは、浜名湖本体ではなく、浜名川
のあり方である。浜名川の西は砂浜によって塞がれてい
る。図2からは、現在と異なり、明応地震以前の浜名川
は新居町の西端のあたりに川口があり、東から西に流れ
海に注いでいたことがわかる。
 図3は、浜名川流域の遺跡分布図である。新居町教育
委員会岡本聡氏によると、表面採集の遺物の状況は、六
六~七〇の主体は近世であり、五七・五八・五九・六〇・
六四・七一は、中世の山茶碗が主で十六世紀の陶器は現
時点ではみつかっていない。
 さらに、岡本氏は、鎌倉~室町時代の遺跡は主に浜名
川沿いに形成された砂堤上に多数見られる。浜名川をは
さんで、現在の橋本の対岸に広大な範囲を有する五七・
五八・五九・六〇などの遺跡が認められ、これらの遺跡
には、山茶碗や施釉陶器が濃密に分布している。これは
中世橋本集落と密接な関連をもつもので、表面採集の遺
物からの判断だが、これらの遺跡は十六世紀以降のもの
が極めて小量であることから、明応年間(一四九二~一
五〇一)に度重なるようにおこった災害(地震・大雨等)
によって遺跡が途だえたのではないかと推測している。
 橋本は、浜名川に掛けられた橋にちなんだ地名である。
早くは、「日本三代実録」元慶八年(八八四)九月条に、
「浜名橋」と見える。「枕草子」にも「浜名の橋」とみえ
る。橋本は東海道の陸上交通の要衝としての宿で、鎌倉
期、「遊女」「あそび」「傀儡」がいた。「あそび」には、
「連歌などする君」がいた。
 橋本は陸上交通の要衝でもあったが、水上交通の拠点
でもあった。「東関紀行」では、橋本の情景を、「人家岸
に連なれり」と記述している。ここに描かれている岸と
は、浜名川の岸のことである。鎌倉期には、浜名川の岸
に沿って、家屋が建ち並んでいたのである。「李花集」に
よると、「橋本の松原湊」と見える。さらに、応永九年(一
四〇二)五月二十六日付足利義満御判御教書には、義満
が、「遠江・駿河両国渡」の橋本・天龍・大井・富士川・
木瀬川の「奉行職」を今川泰範に安堵し、渡の管理をさ
せている。橋本は太平洋と浜名湖を結び、さらに、陸路
の渡河点に開けた港湾都市だったのである。
 では、交通・流通の拠点としての橋本は、いつまで史
料で確認できるであろうか。将軍足利義教は富士遊覧の
さい、永享四年(一四三二)九月十五日に橋本に泊まっ
ている。寛正二年(一四六一)の大福寺不動堂建立記の
なかに、「大工橋本四郎左衛門」とある。橋本には職人が
いることが確認できる。
 以上のことから、寛正二年頃まで、橋本が港湾都市と
して機能していたことが確認できる。これ以後、交通・
流通の拠点としての橋本は史料からは消える。
 十六世紀の浜名湖西南部地域の流通の中心は今切・新
居に移る。今切は災害によって浜名湖と太平洋とがつな
がる地点をさす場合と、水運の拠点としての地名として
示す場合があるが、地域流通の拠点としての今切は、新
図2 中世浜名湖湖底遺跡と明応地震以前の浜名湖(原図は嶋竹
秋・向坂鋼二1976)
1・弁天島遺跡2・新居弁天遺跡3・ゼゼラ地区遺跡
4・ステモ地区遺跡
図3 浜名川流域遺跡分布図(原図は静岡県教育委員会1989)
57・久蔵橋向遺跡 58・橋向Ⅱ遺跡 59・橋向Ⅲ遺跡60・橋向Ⅰ遺跡 64・二本松
遺跡 66・念仏寺遺跡 67・元新居遺跡 68・御代官屋敷遺跡 69・御殿遺跡
70・大元屋敷遺跡
図4 橋本・新居関係図 A・小字元新居 B・小字日ヶ崎 C・小字角避
居と同じ地域を示していると考えてよい。
 今切の名は、天文二十二年(一五五三)閏正月十一日付
今川義元朱印状に、「今切渡」と見える。新居は、『言継卿
記』弘治三年(一五五七)三月十日条に、「新居里宿」と見え
る。永禄五年(一五六二)二月二十四日付今川氏真朱印状
に浜名湖水運の拠点の一つとして新居が見える。天正二年
には、徳川家康が「今切新居」の「船守中」に与えた「新給」
として「棟別惣郷中屋敷分」があるので、この時点で新居
は屋敷の密集地であったと考えることができるだろう。
 十六世紀後半の新居はどこにあったのであろうか。新
居宿は元禄十二年(一六九九)と宝永四年(一七〇七)
の暴風雨・地震により、それぞれ元禄十五年と宝永五年
に町場移転を行なっており、現在の新居の町場は宝永四
年以後のものである。元禄十五年以前の町場は、浜名川
と浜名湖が合流する地点にある元新居(図4)地域にあ
ったと考えられる。
 元新居地域には御殿遺跡(図3―69)があり、その遺
跡から出土する遺物は、ほぼ十七世紀におさまる。御殿
は元和四年(一六一八)に、あらたに造営されたものであ
る。十七世紀の新居は、元新居地域にあったのである。
 では、十六世紀後半の新居はどこにあったのか。文書
では、浜名湖と太平洋をつなぐ今切と新居がほぼ同様の
地点として説明されているので、やはり元新居(図4)
のあたりか、それよりも東にあったと考えられよう。
 中世前期から十五世紀後半まで繁栄していた港湾都市
橋本が、文献史料から消え、橋本地域から十六世紀の遺
物が消えた。そして、十六世紀後半には、今切・新居と
いう流通の拠点地域が史料に現れる。きわめて近接した
地域で大きな流通の拠点の移動が起こっている。これは
どのように理解したらいいのであろうか。この地域で十
五世紀後半と十六世紀後半の間に起こった大きな出来事
としてマグニチュード八・二~八・四の地震がある。日本
の日付では、明応七年八月二十五日の地震である。この地
震による災害で橋本は潰れ、そして、橋本の人々は今切・
新居の地に移って新たな都市を作ったのではなかろうか。
 このような推定を直接示す同時代の史料はない。しか
し、後の史料がそのことを証明してくれる。
ア「神宮寺由緒書上」(享保十四年八月)
一、応永年中之大地震津波故、日ケ崎ノ郷町屋・寺院
共ニ漂流仕、其後、日ケ崎ノ郷ヲ荒井ノ宿ト改テ、
寺ヲハ、当時二世越山格和尚之建立ニ而、寛正二辛巳
年開闢ト、前々より書上申伝候、此外ニハ由緒無御
座候、
イ「遠江風土記伝」
荒之崎(中略)
宝永四年関司政愈書曰、応永十二年、大波破此崎、
或曰、文明七年八月八日、明応八年六月十日、甚雨大風、潮海与湖
水之間、駅路没、日箇崎千戸水没、在関東南十町計白洲浜住吉八王寺之森間、
尾崎孫兵衛者之祖、繫柑樹杪、存命矣、其孫今住橋
本、永正七年八月廿七日、波涛中断於駅路、又、破
橋矣、従是以来、湖水変、為潮海、橋本駅屋没、置
新井宿也、宝永四年十月四日地震、挙波三度、各高
一丈計、崩関、潰家三百四十八戸、溺死廿一人、亡
船四十八艘、渡海絶五日、吉田城主牧野祭酒之臣富
永政愈、為関戌、当難所誌置也、宝永四年十二月筆
記、
ウ「遠江国浜名郡神社明細帳」
静岡県管下遠江国敷知郡新居宿字源太山
村社
湊神社
一、祭神須佐之男命
一、由緒当社ハ延喜式神明帳ニ所載遠江国浜名郡
明神大角避彦神社也ト云伝フ、宝暦三年ノ棟札ノ文ニ
曰、遠江敷知郡新居町湊社、所祭神一坐角避彦神社
也、其創社、不知祭於何代何時、文徳実録曰、嘉祥
二年秋八月戊申詔、以遠江国角避彦神、列官社、先是、
彼国奏言、此神叢社、瞰臨大湖、水所漑、挙土頼利、
湖有一口、開塞無常、湖口塞則民被水害、湖口開則
民致豊饒、或開或塞、神実為之、請加崇典、為民祈
利、従之云々、今此駅、雖隷敷知郡、往時浜名郡ナ
ルヘシ、其外、古来伝フル処ノ神体ヲ入レシハ角形
ノ竹筒(大和錦ノ囊ニ入ル)ニ角避比古命ト記載アリ、旧社領
ハ、同宿諏訪神社領高拾五石ノ内壱石当社領ニ書分
トナル、中古、今切関所鎮守トシテ、関門中ニ鎮祭
セシ処、暴浪ニ依リ、関所ヲ移ス時、現地ニ遷セシ
ト云、明治六年三月、村社ニ列ス、(下略)
エ「遠江国浜名郡神社明細帳」
静岡県管下遠江国敷知郡新居宿字中町裏
郷社
諏訪神社
一、祭神 健御名方命
一、由緒 創立年度不詳、社記云、延喜式神名帳ニ所
載遠江国浜名郡猪鼻湖神社ナリト、当地ハ明応・永
正・元禄ノ度大浪ノ変ニ罹リ、屢遷座セシヲ以テ、
古文書等散佚セリ、安永・寛政年間ノ棟札ニ、其社
名ヲ記載セリ、旧朱印高拾五石ヲ有セリ、明治六年
三月、村社ニ列シ、同十六年八月廿八日、更ニ郷社
ニ列ス、(下略)
オ「遠江国浜名郡神社明細帳」
静岡県管下遠江国敷知郡新居宿字泉町裏
無格社
住吉神社
一、祭神三坐
底津綿津里神
中津綿津里神
上津綿津里神
一、由緒 創立年度不詳ト雖モ、宝暦十二年五月、再
建ノ棟札アリ、元日ヶ崎ノ東ニ鎮坐ノ処、海涛ノ為
メ、今ノ地ヘ遷坐スト云フ、(下略)
カ「遠江国浜名郡寺院明細帳」
静岡県管下遠江国敷知郡新居宿字泉町裏新居町
新福寺末
曹洞宗 隣海寺
一、本尊薬師如来
一、由緒永享八年三月、僧真達、日ヶ崎村ニ創建シ、
隣海庵ト号ス、明応八年六月十日、暴涛ノタメニ流
失後、当地ニ移ス、承応年間、僧能迪、新居山隣海
院ト改称シ、之レヲ中興開山トス、旧除地高弐石ヲ
有セリ、(下略)
 アは、享保十四年(一七二九)八月に、新居町白翁山
神宮寺が記し、新居町庄屋・組頭が「寺社御役所」に出
した文書である。
 イは、内山真龍が寛政元年(一七八九)八月に記した
遠江の地誌「遠江風土記伝」に収められた史料である。
この史料は、イによると、吉田城主牧野氏の家臣で新居
関の役人を勤める富永政愈が、宝永四年(一七〇七)十
月四日に起こった地震の二ヶ月後の十二月に書いたもの
である。
 ウ~カは、明治十二年(一八七九)作成の神社明細帳・
寺院明細帳である。神社明細帳・寺院明細帳は、明治十
二年六月二十八日、内務省が内務省達乙第五七号により、
地方庁に対して調製を命じたもので、指定した様式にし
たがって各神社・寺院の内容を提出させ、公簿として中
央と地方庁に備え付けられ、公認された神社・寺院は、
これに登録された。
 アには、応永の地震津波の記事があるが、一般的な記
述なので、それが神宮寺と関わりあるかどうかは読み取
れない。また、応永年中の大地震津波で「日ケ崎ノ郷町
屋・寺院」が流されたとあるが、応永年中は交通の拠点
としての橋本は機能しているので、応永年間の地震のた
めという記述は正しいとはいえない。
 イでは、明応八年六月十日に日ケ崎千軒が水没したと
ある。イは、直前に起こった宝永の地震による被害の記
述は具体的であるが、宝永以前については具体性に欠け、
一般的な記述に終わっている。
 ウは、「中古、今切関所鎮守トシテ、関門中ニ鎮祭セシ
処、暴浪ニ依リ、関所ヲ移ス時、現地ニ遷セシト云」と
ある。ウ湊神社は、「暴浪」により場所を移ったと記すが、
その元の場所は今切関所であるという。ウには、明応地
震のことは記されていない。しかし、湊神社は角避彦神
社であったと言い伝えており、その根拠として、宝暦三
年(一七五三)の棟札の文に祭神一座が角避彦神社であ
ったことが記されていることを上げている。ウでも引用
するように、「日本文徳天皇実録」嘉祥三年(八五〇)八
月三日条には、角避彦神は湖口を守る神として位置付け
られている。『静岡県史第三巻』(一九三九年版)は、嘉
祥三年当時、浜名湖は新居町松山辺り(図4)から海に
注いでおり、角避彦神社は新居町松山辺りにあったとす
る。小字角避は現在新居町に残っており、その小字角避
を地図に落としたものが図4である。小字角避は、現在
は浜名川の川口から離れた地域にある。しかし、明応地
震以前は、浜名川の川口に位置する場所にあった(図2・
4)。浜名川は浜名湖と太平洋を結ぶ川口である。この川
口は海流によって砂で塞がれる危険性をもっていた。
 小字角避の位置は、「日本文徳天皇実録」の、湖の口が
塞がれば、人民は水害にあい、湖口が開けば人民は豊饒
となる、という記述にうまく当てはまる地点である。『静
岡県史第三巻』(一九三九年版)も、「日本文徳天皇実録」
に記述される湖口とは、松山辺りの浜名湖が海に抜ける
辺りのことであるとする。角避彦神社は小字角避にあっ
た可能性が高いのではないか。角避彦神社が湊神社であ
ったとすると、湊神社は小字角避の地で明応地震の津波
にあい、今切に移動したことになる。
 エ諏訪神社は、「明応・永正・元禄ノ度大浪ノ変ニ罹リ、
屢遷座」したという。エでは移転の理由として、明応・
永正・元禄の大波を上げている。
 オ住吉神社は、もとは日ケ崎にあったという。移動の
原因を「海涛」のためとしているが、いつの「海涛」な
のかは記されていない。
 カ隣海寺は、オと同じく、もとは日ケ崎にあったとい
う。そして、移転の理由として、明応八年六月十日の暴
涛を上げている。ただし、明応地震は、明応七年八月二
十五日に起こっているので、その日付は異なる。
 以上、ア~カそれぞれについてみてきた。記されてい
る内容はさまざまである。しかし、ア~カの寺社が移転
したこと、その移転が「暴浪」「大浪」「海涛」のためで
あったことは共通している。
 ウ湊神社・エ諏訪神社・オ住吉神社は、近世新居町の
主要な神社であり、新居町の夏祭り・秋祭りはこの三社
を中心に行なわれる。また、諏訪神社は、慶長八年(一
六〇三)十月七日付本多正純・村越直吉連署状によると、
「遠州新井湊之大明神」と呼ばれた神社であった。この
三つの湊神社・諏訪神社・住吉神社は、いずれも移動し
てこの地に来たと記している。さらに、オ・カによると、
住吉社・隣海寺のもとあった場所は日ケ崎であった。日
ケ崎は中世港湾都市橋本が存在し(図3・4)、ア・イに
みるように、のちに日ケ崎と呼ばれた地域である。そし
て、ともに海濤のために移動したと述べている。橋本の
地から逃れ、新居の地に移ったというのである。
 これは、先に私が明応七年八月二十五日の地震津波で
橋本は潰れ、そして、橋本の人々は今切・新居の地に移
って新たな都市を作ったと推定したことと符合する。
ウ・エ・オによると、新居の湊神社・諏訪神社・住吉神
社はもとから新居の地にあった神社ではなく、三社とも
移動してきた神社である。近世新居町の主要な神社三社
がすべて移動してきたということは、新居町全体が移動
したことを示す。
 このような寺社の移動から考えても、明応七年八月二
十五日の地震により港湾都市橋本は潰れ、そして、橋本
の人々は新居の地に移って新たな都市を作ったと考えら
れるのである。
二 伊勢安濃津と明応地震
 安濃津は中世前期より太平洋地域に自由通行権をもつ
流通の拠点であった。戸田芳実氏は、伊勢最大の港であ
る安濃津について、一地方港ではなく、東海道交通運輸
ルートの一環をなす伊勢湾・遠州灘航路の発着地で、そ
こから西北へ向かう陸路は、東海道の関駅から鈴鹿峠を
こえて近江へ通じていた。そして、安濃津の住人らは従
来から諸国を往来する商人集団で、彼らは安濃津を基地
にして、伊勢湾・三河湾・遠州灘・熊野灘などの海域を
航行する海商・海運業者であったとする。
 安濃津には市があり、海産物が取り引きされた。また、
安東郡に所在する神宮の常供田からの籾・餅を安濃津に
集荷して、船で移送していた。安濃津は物資の集積地点
であった。
 安濃津は、文明五年(一四七三)六月の時点で、港湾
として機能していたことが確認できる。また、「耕雲紀行」
応永二十五年条には、「その夜ハ、あのゝ(安濃)津につきぬ、念
仏の導場にやとる、こゝハ、この国のうちの一都会にて、
封彊もひろく、家のかす(数)もおほ(多)くて、いとミところあり、
当国の守護土岐の世やすとかや、御まうけ(儲)なといとなむ」
とあり、十五世紀の安濃津には念仏道場が存在し、家数
の多い地域であったことがわかる。流通の拠点としての
安濃津は、中世後期にも維持され、巨大な都市となって
いたのである。
 その港湾都市安濃津は、明応七年八月二十五日の地震
津波で潰れた。大永二年(一五二二)八月、この地を訪
れた連歌師宗長は、そのありさまを、「此津、十余年以来
荒野となりて、四・五千間の家・堂塔あとのみ、浅茅・
よもぎが杣、まことに鶏犬はみえず、鳴鴉だに稀なり」
と記している。
 中世前期から明応地震直前まで栄えた港湾都市安濃津
はどこにあったのであろうか。地理学の目崎茂和氏は、
砂州が出来ているところは、海岸に沿う沿岸流の方が川
より全体として強いので、川はまっすぐに流れないで沿
岸流の方向に並行して流れる。よって昔の川の流路であ
ったり、砂州が延びる方向によって、その内側が天然の
良港になるので、現在の海岸線のある砂州の内側とヨッ
ト・ハーバーの裏側(津興地域、図6)、あるいは乙部の
湿地帯が最も安濃津のあった可能性が強いとする。
 考古学でも、新田康二氏は、表面採集の結果、贄崎浦
遺跡(贄崎浦一帯、図6)は遺物の分布が散漫で、阿漕
浦遺跡(阿漕浦一帯、図6)においても、遺物の分布状
況は一部の地域に密集しているが、他のところでは散漫
で、濃密に存在するのは、ヨット・ハーバーから交通公
園の東堤防が切れる辺りであるとして、安濃津は津興地
域にあったとする。海岸の砂丘部の表面採集の結果では
あるが、考古学の側でも津興地域に安濃津があったと推
定している。
 その推定地である津興地域で、今年、港湾都市安濃津
の一部と思われる遺跡(安濃津柳山遺跡)が発掘された。
現地説明会資料によると、安濃津柳山遺跡は、海岸と並
行に三列ある砂堆(図5)の真ん中の砂堆上に位置する
鎌倉時代から室町時代(十三~十五世紀)にかけての集
落跡で、この遺跡では、十六~十七世紀代の土器類はほ
とんど見ることができず、十八世紀頃に再度集落の形成
が進むまでに大きな断絶がある。特に、十五世紀後半ま
でさかんに建物を建てていたにもかかわらず、十六世紀
に入るとその活動がぱったり止まるという事実を確認で
きたことは重要で、明応大地震の起こったのが十五世紀
末なので、明応大地震による安濃津壊滅との関連から考
えても極めて興味深い遺跡だとする。
 私は、十三世紀から十五世紀後半までつづく集落であ
ったこと、十六~十七世紀の二〇〇年間の遺物がなく十
図5 「津東部」地域の地形分類図
(原図は吉田史郎1987) ・安濃津
柳山遺跡
図6 安濃津関係地図A・大字津興B・大字津南八幡町
八世紀に再び集落が形成されること、砂堆の上に載って
いてすぐ近くに後背湿地があること(図5)、安濃津の推
定地である津興地域にあること(図6)から考えて、安
濃津柳山遺跡は中世港湾都市安濃津の一部であると考え
る。
 安濃津周辺地域の明応地震以前の景観復元は行なわれ
ておらず、内水面の交通が具体的にどのようなものであ
ったかは不明である。しかし、次の安濃津の橋に関する
史料はいくらかその点を補ってくれる。
キ永享五年(一四三三)三月十六日付一井四郎左衛
門入道正祐・姉小路町円定請文
請申 伊勢国安濃津御厨御年貢事
合参佰貫文者
右彼御厨事、云地下、云橋賃、彼是相兼而、年中
参佰貫文仁所請申也、而於地下者、別而無定年頁、
(中略)件年貢事、春三ヶ月中佰貫文・夏三ヶ月
中佰貫文・秋三ヶ月中佰貫文、可沙汰進之、於冬
季者、歳末公方御進上之美物拾荷可進上之也、但、
如此、雖申定、万一橋賃員数有錯乱之事者、依彼
多少量、可定申者也、(下略)
 キでは「云地下、云橋賃、彼是相兼而、年中参佰貫文
仁所請申」といっているので、年貢の中身は「地下」と「橋
賃」なのだが、「地下」の内容については明確には記され
ていない。一方、橋賃については、但し書で、万一橋賃
の員数に錯乱があれば、橋賃の量にしたがって年貢高を
定め直すとあるので、安濃津御厨の年貢の多くは橋賃で
あると考えていいのではないかと思う。十五世紀安濃津
御厨の年貢の中身は橋賃であった。年貢の中身が橋賃で
あったとすると、十五世紀の安濃津は安濃津の中を通る
水路にかかる橋を中心に開けた町であったとすることが
できよう。
 橋がかかっていて、その橋の利用者から橋賃をとって
いることがわかるので、安濃津は内陸の川沿いにあった
都市と考えることができる。津興地域の南部は藤崎とい
う地域である(図6)。地形分類図(図5)をみると、藤
方地域には南北に低湿地が延びている様子がわかる。潟
の広がる藤方から舟で安濃津に入る水路があったと考え
られるのではないか。安濃津も遠江の橋本と同様の景観
を想定していいのではなかろうか。
 では、明応地震で壊滅した安濃津の住民はどうしたの
であろうか。そのことを示す同時代の史料はない。しか
し、後の史料には、そのことを推定させる記事がある。
ク「勢陽五鈴遺響」安濃郡巻之四
恵日山観音寺(中略)或云、往昔当寺モ阿漕浦ノ
海瀕ニアリ、大神宮御贄所ノ称ニシテ俗ニ一ノ厨
ト云処ナリ、明応年中波涛ヲ避テ、今ノ処ニ移建
タリ
ケ「大日本国誌」(稿本)
恵日山観音寺
安濃郡津大門町ニ在リ、境内千七百七拾五坪、真
言宗護国寺末ナリ、寺伝ニ云フ、和銅二年巳酉二月
一日、安濃津浦ニ漁夫観世音ノ仏像一軀ヲ網ス、時
ノ国司某上奏シテ一宇ヲ創建ス、往昔ハ今ノ津興
村辺ニ在リシカ、明応三年庚寅五月七日・七年戌午六月
十一日ノ地震ニ、土地海中ニ沈没セルヲ以テ、今ノ地
ニ移ル、慶長五年庚子八月、冨田知信信濃、守石田三成
部部(ママ)少輔ト戦フ時、兵燹ニ罹ル、十八年癸丑二月、藤堂高
虎和泉、守堂宇ヲ修理ス、寛永元年申、子大門今ノ仁王門ヲ
再建ス、歴世ノ祈願所タリ、貞享三年丙、寅藤堂高
久、高五拾石ヲ寄附ス、明治六年癸酉二月二十、八日無檀
無住ヲ以テ廢シ、十二年巳卯九月十、日請テ之ヲ復ス、
コ「勢陽五鈴遺響」安濃郡巻之四
大平山上宮皇寺寺町ニアリ(中略)当寺明応七
年以前ハ、阿漕浦ニ存シテ波涛ニ漂滅ノ後、コヽ
ニ迁セリ、
サ「龍宝山西来寺歴代記」
○初祖開山円戒国師
延徳二年庚戌ノ春、国師年四十八、本国ニ行
化シ玉フ、徳風ノ扇ク所、当津ニ於テ道俗競
ヒ集リ、説法教化ヲ乞願フ、因茲、観音寺ニ
於テ、浄土ノ教門ヲ弘通シ玉フ、道俗男女ソ
ノ法味ニ潤フ者称計スヘカラス、其中ニ深信
ノ者、国師ノ御止住ヲ願ヒ、一精舎ヲ草創シ
テ上ツル、国師乃チ西来寺ト名ケラレ、夏四
月十三日遷仏供養アツテ不断念仏ノ道場トナ
シ、高弟盛算上人ヲシテ住持セシメ玉フ(中
略)
○寺地 此時ノ津町不詳、故ニ当寺ノ境内モ何
レノ処ニ在ト定メ難シ、
(中略)
○三祖盛品上人
(中略)
○寺地遷 明応七年午ノ六月ノ大地震ニ、元津
ノ寺社・民屋、悉皆海濶ト成リヌ、因茲、津
ヲ阿漕浦古墳ノ西ニ遷ス、故ニ当寺ノ境地モ
倶ニ彼地ニ遷ス、寺院阿漕ニ在ルコト八十一
年、天正六寅年、今津ニ遷ス、
シ「勢陽五鈴遺響」安濃郡巻之四
龍宝山西来寺 寺町上宮寺ノ北隣ニアリ、信盛念
仏宗江州坂本西教寺末本尊阿弥陀仏 寺伝云、延
徳二庚戌四月、当津ニ念仏堂ヲ建立ス、当国三箇
寺ノ第一ナリ、(中略)当寺旧ト上宮寺ト同ク、東
ノ海瀕、阿漕浦ニ存セシナリ、
 ク・コ・シ「勢陽五鈴遺響」は、安岡親毅によって作
られた伊勢国の地誌で、完成は天保四年(一八三三)で
ある。ケ「大日本国誌」は、明治五年(一八七二)以後、
「皇国地誌」編集のために作成した「郡誌」「村誌」を内
務省地理局が最終段階としてまとめあげた州誌である。
サ「龍宝山西来寺歴代記」は、元文元年(一七三六)十
一月、西来寺二十一世真洲上人の代に、一世から二十一
世までの西来寺の「歴代ノ記録」を編集したものである。
 クでは、観音寺は、「阿漕浦ノ海瀕」にあると記してい
る。観音寺は安濃津にあったと記していると考えていい
だろう。そして、移転の理由として、「明応年中波涛」を
上げている。
 ケでは、観音寺は、もとは津興にあったと記している。
そして、「明応三年庚寅五月七日・七年戌午六月十一日ノ
地震」で、敷地が海中に沈んだため移転したと記してい
る。ク・ケの観音寺は、もとは安濃津にあり、明応の地
震が原因で移転したとしている。
 コ上宮寺は、明応七年以前は、安濃津にあり、「波涛」
によって消減したため移転したと記している。
 サ西来寺の「当津」とは元の安濃津のことである。「元
津」「此時ノ津町」ともいっている。史料サの作成者は、
近世津町を「今津」と表現し、元の津と書きわけている。
安濃津の観音寺(ク・ケの観音寺)で、天台宗真盛派開
祖真盛が教化をはじめ、その地に西来寺を建立したとあ
る。同寺は、明応七年六月の大地震により、寺地を移転
したと記している。
 シにおいても、西来寺はもとは安濃津にあったと記し
ている。
 ク~シによると、観音寺・上宮寺・西来寺はもとは安
濃津にあったこと。そして、明応年中の地震によって、
移転したと記している点は共通している。ク~シの観音
寺・上宮寺・西来寺は近世津町に所在する寺院である。
 近世津町二十九町は観音寺の氏子であった。明治四年
(一八七一)の神仏分離令で、二十九町は八幡神社の氏
子に編成換えされた。観音寺はもとは津興にあったとい
う。この津興は明応地震以前の安濃津があった場所であ
る。観音寺はその安濃津から津に移ったのである。
 コによると、上宮寺はもとは安濃津にあったという。
明応地震後の永正三年(一五〇六)に、専修寺の真慧が、
「伊勢国安濃津上宮寺実蔵坊一門徒之事」について、「直
参」を望む者に対する「帰伏」を「上宮寺実蔵坊」に命
じている文書があるので、上宮寺が安濃津にあったこと
は確認できる。この上宮寺について、平松令三氏は、高
田専修寺の第十一世真慧が寛正年中から安濃津地域を教
化したときに拠点となった寺院で、上宮寺の門徒には安
濃津の商人である柳屋・金屋・わた屋などがいるとする。
さらに、「耕雲紀行」にある安濃津の「念仏の導場」は上
宮寺だったのではないかとする。
 サ・シ西来寺は、史料サによると、天台宗真盛派の開
祖真盛が、延徳二年(一四九〇)、安濃津の観音寺で教化
を行ない、出来た寺が西来寺であるとする。また、同寺
は近世には末寺二〇〇ヶ寺に及ぶ大寺院となったとす
る。
 上宮寺・西来寺は伊勢国における高田専修寺派・天台
宗真盛派の拠点寺院の一つであった。また、観音寺は近
世津町住民にとって重要な寺院であった。
 このような伊勢国や津において重要な位置を占める寺
社が、当初から津地域にあったのではなく、移動してき
た寺院であるとすると、安濃津と津(近世津町)が別々
に流通の拠点として存在したと考えるよりも、安濃津か
ら津(近世津町)へ寺社とともに住民が移動したと考え
ていいのではないか。安濃津の住民は明応七年八月二十
五日の地震をきっかけに津(近世津町)に移り住み、津
をこの地の新たな拠点として作り上げていったと考える
ことができる。
 では、明応地震後、直ちに津(近世津町)に移動した
のであろうか。史料サは、そのようには書いていない。
 次の史料は、地震後の安濃津住民の様子を教えてくれ
る史料である。
ス「宗長手記 上」大永二年八月条
阿野の津を退たる里、塩屋のやうなる篷ぶきに何
似よりおくらる、又の日は、宮原盛孝よりむかへ
の人を待て逗留、此津の人々懇望にて、連歌あり、
かへる世を松やしらなみあきのうみ
此里、もとの津還住のあらまし事なるべし、
 「何似」は、伊勢亀山城主関氏で、この時隠遁してい
る関何似斎のこと、「宮原盛孝」は伊勢多気城主北畠氏の
家臣である。スの記事は、連歌師宗長が、安濃津を通っ
て亀山にいたり再び安濃津に引き換えしてきた時の記事
である。
 スは、亀山を本拠とする関氏と、多気を本拠とする北
畠氏の支配地域の境界が安濃津辺りにあるため、連歌師
の送迎の引き継ぎ地点が安濃津になっている様子を示し
ている。スは、北畠氏の迎えを待つため安濃津に逗留し、
安濃津で津の人々の懇望により連歌会を開催しているこ
とがわかる。すでに、元の安濃津は明応地震で崩壊して
いた。ス「此里、もとの津還住のあらまし事なるべし」
と、連歌師宗長が記しているように、この地域の人々は
元の津に還住することを願っていた。
 連歌師宗長が逗留した場所は、元の安濃津ではなかっ
た。元の安濃津は壊滅したが、安濃津の人々は生きてい
た。そして、独力で連歌会を開催しているのである。連
歌会の開催者は財力が必要である。移動先の場所で安濃
津の人々が連歌会を開催しているということから、この
時の安濃津の人々は財力をもっていたことがわかる。安
濃津は壊滅したが、安濃津の住人とその財力は残ってい
たのである。
 それでは、地震からのがれ再び連歌師宗長を招き連歌
会を開催するようになった安濃津住民の居住地はどこな
のであろうか。「宗長日記」大永二年条に、関氏と北畠氏
が連歌師宗長を引渡す地点として、「阿野の津の八幡」と
いう地名がでてくる。安濃津という地域の一部に八幡と
いう地域があったのである。「八幡」とは、津興地域の隣
にある地名である(図6)。元の安濃津が津興地域であっ
たとすると、さほど離れていない地点に移ったと考えら
れるのではないか。サ「龍宝山西来寺歴代記」には、明
応の地震で西来寺も潰れ、「阿漕浦古墳」(サ)、すなわち
現在の阿漕塚(図6)の西に移ったといっている。阿漕
塚は津輿地域の内にある。このことから考えると、安濃
津の人々の移転先は、津興地域内での小幅の移動だった
のではなかろうか。
 安濃津の人々は明応七年八月二十五日の地震によって
家屋が壊滅し、移転を余儀なくされた。その移転先は、
元の安濃津の近くであった。そして、その後、安濃津の
人々は津(近世津町)に移動したのである。津(近世津
町)への移転は二度目の移転であったのである。
おわりに
 以上、明応地震で壊滅した遠江橋本と伊勢安濃津につ
いて考察を行なった。橋本・安濃津は紀伊和田浦と同じ
く、川が砂丘に遮られて海にまっすぐに流れ出られない
ことによって形成された内水面に開けた港湾都市である
ことを明らかにした。また、地震の被害にあった橋本の
住民はすぐ近くに新居宿を建設した。同じく安濃津の住
民も近くに本拠をかまえ、のちに津(近世津町)を形成
した。紀伊和田浦の住民も近くに戦国期港湾都市紀伊湊
を形成した。地震被害からの住民の立ち直りがそれほど
遅くはなかったことを明らかにした。(後略)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 二
ページ 14
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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