[未校訂]遠山地震
いまから二七八年前、享保三年七月二六日(一七一八年
八月二二日)に南信濃村を震源とするマグニチュード
(M)六・四の「遠山地震」がありました。この地震は南
信濃村和田の盛山(盛平山)の西斜面を通る中央構造線が
動いた地震です。さらに、中央構造線から派出し、遠山
川に沿ってのびている遠山川断層も同時に動いた可能性
があります。
この地震を最初に調査・報告したのは市村咸人の「遠
山峡谷に出山を造りたる享保地震資料(一九三三)」です。
地震は午後二時過ぎに起きています。盛山の下で茶摘み
をしていた和田本町片町家の五人は、崩れてきた岩石の
下敷きになって圧死しました。この時崩れた岩石は山裾
を埋めて、地震山となりました。和田小学校の裏山にな
っている「出山」がそうです。
出山を造った岩石は押出の下で遠山川をせき止めてし
まいました。このときできたダムはやがて決壊したので
南信濃村和田と遠山川の谷
前景は中央構造線が通る和田の町なみ、
遠山川の右岸側は夜川瀬の集落、洪水で
一夜でできた川原といわれる。
直線状の遠山川の谷は遠山川断層の通る
谷、遠景が下流にあたる。
和田小学校と出山
スギ林になっている丘は遠山地震のと
き、右側の斜面が崩れ落ちてきてできた
地震山、崩落した岩石中には貝化石が入
っていて有名。
崩れてきた巨岩が残っている出山
盛山の上部にあるチャートの巨岩が崩れ
てきている。出山の梅林の中に散在して
いる。
下流の夜川瀬一帯
に氾濫しました。
また、盛山の直下
にあった龍渕寺の
本堂は壊れてしま
ったと、享保五年
の過去帳に記され
ています。龍渕寺
に上っていく石段
の横に大きな岩が
出ています。地震
の前には、遠山川
がこの岩にぶっつ
かって深い淵にな
っていたので龍渕
寺といわれたそう
です。地震により
出山ができて、遠
山川の流れが今の
ように西側に移っ
たといわれます。
この地震は天龍村[坂部|さかんべ]の「熊谷家伝記」に記録されて
います。地震発生と同時に、山から跳ねてきた石に当た
って死んだ人は坂部と隣村の愛知県富山の間で五十人余
と書かれています。
「遠山地震」のとき、「熊谷家伝記」に書いてあるのは、
どうも跳び石らしい。跳び石ならばどこかに一つぐらい
残っていないかと思って天龍村の十久保に行ってみたん
です。そうしたら波田野茂富さんの畑に、それらしい岩
石を見つけました。波田野さんの家で、おじいさんの代
から地震の時の石だと聞かされていたといいます。石の
名前は「[出道石|でーどいし]」です。耕作のじゃまになるから割って
しまおうとしたとき、おじいさんが、
「これは地震のときに山から飛んできた石だから大事
にしておけ」といわれたので、そのままにしてあると話
してくれました。
また、十久保の一番高いところに、地震で真っ二っに
割れた水田が残っています。今は梅畑になっています。
地震の時水田が割れ、片側が二メートルほど下がってい
ます。
また、村沢崇さんの山には地震のときできた地割れが
あるそうです。地割れは3本くらいで、どれも同じ方向
に走っているそうです。
山坂の多い伊那谷では、地震の時に山地災害の多発が
非常に恐いと思います。それは地震と同時に襲ってくる
こと、襲われれば、ほとんど助かる見込みがないのです。
天竜村十久保の地震田んぼ
地震のとき、田んぼが割れて谷側の部分
が下がってしまった。↓印のところ。
天竜村十久保の出道石
十久保の波田野さんの畑にある。岩石は
ホルンフェルス、割れ目がたくさん入っ
ている。