Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2700463
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛驒・越中・加賀・越前〕
書名 〔細入村史 通史編(上巻)〕細入村史編纂委員会編S62・3・1 細入村発行
本文
[未校訂](2) 安政の大地震
 安政五年(一八五八)二月二十五日の大地震は、細入谷
は大きな被害を受けた。禰宜ケ沢上村の長久寺は山崩れ
によって押し崩され、和尚・小僧とも堂の下になり亡く
なった。片懸村大渕寺小僧二人は、飛驒桑ケ谷村次郎兵
衛の法要にいっていたところ地震に会い、家がつぶれ一
人が亡くなった。地震の様子を番人橋本作七郎は次のよ
うに記している。
安政五年二月廿五日夜九ツ時、大地震ニ而人々驚逃出
候処、追々数(かず)何程共なくゆり申ニ付、替々外ニ莚等
を敷、夜明し申候処、石垣・土蔵等ハ大崩、家は戸・
障子・壁・道具損じ、誠ニ人心地も無、心痛至極前
代未聞之事
 この地震を村肝煎は飛脚を立て富山に報告するという
ことであるので、そのついでに関所番人は小頭に次のよ
うな文面を書き託した。
以飛脚申上候、然は昨夜九ツ時頃大地震ニて御関所・
御長屋之内壁・石垣等所々相損じ申候、村方も土蔵・
往来・御田地等相損、一統当惑至極罷在候、御城下
表如何哉与奉存候、此段御届申上度、委曲ハ此人ゟ
御聞取可被下候 以上
二月廿六日 橋本作七郎
高桑武右衛門様 吉村茂兵衛
 猪谷村では、猪谷川より取入れていた用水が山抜けの
大被害をうけた。二十六日も地震は静まらず人々は外に
小屋懸けした。猪谷村では同日惣寄合をし、火の用心に
心掛けることを申合せ、また蟹寺村では山が所々崩れて
水溜りとなってるので、関所番人は吉四郎を遣わして様
子を調べることにした。しかし、道路は寸断され通るこ
とが出来ず、吉四郎は山峰を通り加賀沢村にゆき、加賀
沢村のかいがふちで山抜け込み、それより表村々にかけ
所々で山崩れ、水溜りとなっていることを調べて来た。
そこでそのことを神通川縁り村々へ心得として村肝煎よ
り次のように知らせた。
一 地震ニ而飛州西山中筋山ぬけニ而神通川水溜り
候、仍而神通川縁村々ニおゐて、其心得可被成候
以上
二月廿六日 蟹寺村
猪谷村
 この溜水は二十六日晩六ツ時頃に、大きな音を立て
て流れ出したが、数か所の崩れ込みの上を越し、押出
したので大水にもならず事なきを得た。ところでこの
地震で関所の上手、西禅寺にかけての見込林三〇〇本
ばかりの間、七尺ほど押下がり、余震によって、また
は雨が降ったとき崩れ落ちる心配があるので、関所近
くの家一〇軒ばかりを外に立ちのかせた。この地震で
は飛驒地方の被害も甚大で、横山番所も山崩れによっ
て潰れ、人も亡くなっていた。三月九日に富山藩より
損所見分のため田口兵治・安彦佐助がやってきて、当
日は蟹寺村を見分し、同村で泊り、翌十日加賀沢村の
見分を終え猪谷村にやって来た。そして関所見込林の
損所間数を調べ、西禅寺境内より、どうが洞の矢来垣
までの一四〇間の場所が切れ下がっており、その距離
は与三次郎の高、御番所の高、西禅寺の東通りの端縁
はそれぞれ八尺出ほどであることを実測した。そして
即刻、その場所に雨水が流れ込まぬよう村人足をもっ
て水除工事をした。そして更に、七〇人の人足で補修
することを村役人に申渡し、また、見込林の枝木伐木
を申付けた。田口兵治・安彦佐助は関所番人に対し、
関所山の手が危いということであれば用心第一のこと
を申渡した。関所番人は、用心のため家内などを村端
に小屋を作り寝泊りさせ、両人は関所に居ることを申
上げた。役人は、小屋に居る方がよいか、暫く百姓家
に同宿した方がよいかと問うたので、両番人は百姓家
に同居したいと返事したので、肝煎作十郎・組合頭六
右衛門宅に同宿すること、貸家料は後ほど渡されるこ
とになった。三月二十二日に寸断された飛驒往来の当
座の復旧工事費が渡された。蟹寺村六四〇匁、猪谷村
一五〇匁(内、用水復旧費八三匁)・片懸村八〇匁余・
庵谷村五四〇匁・岩稲村一貫三四〇匁であった。さら
に加賀沢の被害は甚大であったので米四五石、加賀沢
よりの往来修理に金一二〇両、更に、六月二十五日に
金六〇両が渡された。
 なお、このときの被害について絵図が作られ、御郡
奉行所・御家老中・江戸表に送付された。
 この大地震によって猪谷関所の被害は、門柱が東の
方に四、五寸傾き、石垣二か所崩れ、白壁の落ちた所
三か所、下も廻り土台三寸ほど下がるものであった
(橋本文書「安政五年大地震留」)。飛驒往来の復旧工事がはじめられた
が、山峡のこと故はかばかしく進行しなかった。加賀
沢村より飛驒小豆沢村に至る間の普請場所は、六月二
十五日の大雨で崩れてしまうことがあった。七月十三
日、富山藩より西嶋清治・田口伝右衛門が細入谷の見
分にきて、猪谷より蟹寺・加賀沢村に行こうとしたが、
往還が復旧しておらず「山尾」通ってでも行きたいと
尋ねたとき、猪谷・蟹寺・加賀沢の役人は「迚も往来
牛馬ニ者六ケ敷場所」と返事したが是非ということで、
三か村より人足を出し山内を伐りあけて案内した
(橋本文書)。その後、猪谷村より蟹寺峠を経て山の峰を伝う
て加賀沢村に至り、また峰伝いに飛驒境まで新道を作
ることを計画し絵図面まで作ったが、藩はこれを許可
しなかった。飛驒往来はこのような大被害をうけたの
で、細入筋の往来を通る人は一人もなくなり、人々や
荷物は八尾より大長谷の切詰を通り、飛驒角川に向う
ようになっていた。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 883
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
市区町村 細入【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.001秒