[未校訂] 安政二年江戸の大地震は十月二日の夜五ツ時(午後八
時)で地震と同じに出火し、その火口は三十数カ所に及ん
で、しかも翌三日の四ツ時(午前十時)まで火は消えなか
ったので、江戸から高松への第一報では、「すべて市中は
大半崩れ、大地さけ、死人、怪我人はその数知れず云々」
であったが、江戸高松藩邸は焼失を免れ、多少の損害は
あったものの他藩に較べると無事で何よりというところ
であった。だが、その頃高松藩は昨年の地震で損害を蒙
った皇居御所修理方を幕府から命ぜられていたので、一
層物入りのする時節であったから、この地震を口実に二
万両の献金方を、各郡大政所や各村の庄屋を通じて、百
姓農民にまで呼びかけたものである。
その村々からの献金は、別所氏所蔵の文書によったも
のだが、次の通りである。
このところに成合村のものがないのは、成合は当時「香
川郡西」であったためである。
一宮村の分 (註)当時銀六十目が金の一両、米一石に
換えられた。
一、銀五十目 神主田村隼人
一、同六十目 窂人堀岩之丞
一、同六十目 飛驒殿家来近森安次
一、同二百六十目 庄屋宗右衛門
一、同七十目 百姓小左衛門
一、同五百五十目 同弥平次
一、同百三十目 同宇右ヱ門
一、同八十目 同専造
一、同八十目 同丸左衛門
一、同八十目 同弥吉郎
一、同八十目 同半五郎
一、同六十目 大宝院
一、同五十目 百姓善七
一、同七十目 同律次郎
一、同六十目 同四郎兵衛
一、同六十目 同為次郎
一、同六十目 同亀造
一、同六十目 同今蔵
〆銀一貫九百二十目
三名村
一、銀六十目 来光寺
一、同八十目 一代刀指当時組頭高尾權右衛門
一、同二百八十目 組頭善六
一、同百五十目 百姓六右衛門
一、同六十目 百姓孫右衛門
一、同八十目 同三右衛門
一、同六十目 同庄助
一、同八十目 同与平
一、同六十目 同はな
〆銀九百十目也
鹿角村
一、銀百八十目 大膳殿御中小姓森惣七
一、同六十目 組頭平七
一、同六十目 百姓三平
一、同六十目 法恩寺
〆銀三百六十目也
寺井村
一、銀七十目 当時庄屋窂人山崎彦三郎
一、同七十目 組頭八三郎
一、同五十目 組頭伴五郎
一、同百目 組頭吉兵衛
一、同五十目 百姓長太郎
一、同五十目 同三九郎
一、同五十目 同仁兵衛
〆銀四百四十目也
注、以上は大政所別所嘉兵衛喜多伝六支配の香川郡東
の分で当時香川郡の西に属していた成合村のものは欠い
でいる。当時銀六十目は金で一両、米で一石に当る。
これは顔割であるので、この金額で凡そその家の資産
の割合がわかるようである。