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項目 内容
ID J2700406
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及びその周辺〕
書名 〔白岡町史 通史編 上巻〕H1・3・25白岡町編・発行
本文
[未校訂]安政二年十月二日夜の大地震で、西里の畑は残らず地
割れをし、磯川と落堀は共に畑と同じ様に[悉|ことごと]く埋まり、
耕地は壊滅状態となった。農民はこの被害状況を地頭の
[川副鉦五郎|かわぞえしょうごろう]に報告をした。地頭は居宅・土蔵の屋根・壁
など破損したが、用人の[磯川佐左衛門|いそかわさざえもん]を遣わして、つぶ
さに村内の被害状況を見分させている。この見分に基づ
いて、埋まった磯川の床下げ浚立普請を行うこととし、
人足として農民を徴発している。その人数は八八人、延
人足数は一七〇三人三厘で人足一人に付玄米一升と塩味
噌料として一人四文を支給している。そのため下給され
た米は一七石三升三勺、永は六貫八一三文余であり、こ
れによって磯川及び落堀の普請ができた(細井昇家文
書)。
 また、この地震で野牛村観福寺の[宝篋印塔|ほうきょういんとう]が倒れ、そ
のため一〇世尊栄住持と世話人大久保七蔵外惣檀中で、
宝篋印塔(野牛 観福寺)
安政五年七月に再建したことが台石に刻まれている。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 740
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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