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項目 内容
ID J2700379
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及びその周辺〕
書名 〔松山町史 下巻〕H1・9・3(山形県)松山町編・発行
本文
[未校訂]安政大地震
御用金、増寸志上米の徴収により、財政難打
解を目指したのであったが、安政の大地震に
よりその目論見も瓦解してしまった。
 安政二年(一八五五)十月二日夜四ツ(十時)頃に襲った大地震は、
江戸を破壊し、松山藩江戸藩邸の長屋を多く潰してしま
った。この時の死者は五十嵐安次郎(御右筆五十嵐與右衛
門の長男)という青年一人であったが、建物の被害は甚大
で、莫大な費用を要した。
 江戸藩邸の再建の普請奉行は、郡代北爪五郎兵衛、元
〆鈴木伴亀で、御一紙方佐藤又次郎、五十嵐熊平がその
下役となり、工事の監督には徒目付桑原岡右衛門、足軽
目付阿部重平が当った。
 特にその金策には五十嵐熊平が当ったもののようで、
上州に出張し、その商人らの資力に依存した。また、金
銭出納のことも、この五十嵐と佐藤又次郎の二人が委せ
られ、とかく不正の噂もあった。
 家老土方翁右衛門は、このことで、元〆鈴木伴亀に注
意をうながし、二人に金銭のことを委任し過ぎないよう
戒めていたが、鈴木はこれに耳をかさなかったといわれ
る。
 五十嵐と佐藤は、鈴木の放任のなかで、職人との契約
金の一割を着服し、そのことが露顕して訊問に付され、
安政四年(一八五七)両人は家名断絶の処分を受けた。これに縁座し
て、北爪は監督不行届ということで引込隠居を命ぜられ
たが、鈴木伴亀は大殿様、藩主の信任が厚く、その為、
その責任を追及する者がいなかった。
 江戸藩邸の再建、羅災家臣ヘの手当などの費用に苦し
んだ松山藩では、この不祥事による人心の動揺にも苦慮
しなればならなかったのである。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 712
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山形
市区町村 松山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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