[未校訂]安政大地震
御用金、増寸志上米の徴収により、財政難打
解を目指したのであったが、安政の大地震に
よりその目論見も瓦解してしまった。
安政二年(一八五五)十月二日夜四ツ(十時)頃に襲った大地震は、
江戸を破壊し、松山藩江戸藩邸の長屋を多く潰してしま
った。この時の死者は五十嵐安次郎(御右筆五十嵐與右衛
門の長男)という青年一人であったが、建物の被害は甚大
で、莫大な費用を要した。
江戸藩邸の再建の普請奉行は、郡代北爪五郎兵衛、元
〆鈴木伴亀で、御一紙方佐藤又次郎、五十嵐熊平がその
下役となり、工事の監督には徒目付桑原岡右衛門、足軽
目付阿部重平が当った。
特にその金策には五十嵐熊平が当ったもののようで、
上州に出張し、その商人らの資力に依存した。また、金
銭出納のことも、この五十嵐と佐藤又次郎の二人が委せ
られ、とかく不正の噂もあった。
家老土方翁右衛門は、このことで、元〆鈴木伴亀に注
意をうながし、二人に金銭のことを委任し過ぎないよう
戒めていたが、鈴木はこれに耳をかさなかったといわれ
る。
五十嵐と佐藤は、鈴木の放任のなかで、職人との契約
金の一割を着服し、そのことが露顕して訊問に付され、
安政四年(一八五七)両人は家名断絶の処分を受けた。これに縁座し
て、北爪は監督不行届ということで引込隠居を命ぜられ
たが、鈴木伴亀は大殿様、藩主の信任が厚く、その為、
その責任を追及する者がいなかった。
江戸藩邸の再建、羅災家臣ヘの手当などの費用に苦し
んだ松山藩では、この不祥事による人心の動揺にも苦慮
しなればならなかったのである。