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項目 内容
ID J2700315
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔古地震探究〕萩原尊禮編著H7・7・20 東京大学出版会
本文
[未校訂]六 嘉永七年(安政元年、一八五四)十一月四・五日地震
嘉永七甲寅霜月四日五日[1]大地震津う波独物語
(玉井形部翁記、南部町巽寛氏蔵、小谷六三氏解読に補正)
嘉永七甲寅年霜月四日・五日大地震よりつなみ見覚ゑ、
爰ニしるす、われ妻しけハ弐才なる房楠をつれ、里なる
西本庄大野江ゆき、同家大野にて出産ありて一男亀之助
出生、歓旁々、しけも少々不快ニ付、よふしよふかたかた
あそひニさんし、弟隆平ハ若山、俊平ハ京都ニ修行ニ□
シ、ときしも霜月四日の晴天ニ、われハ邪気ニて、朝サ五
ツごろあさはんをすまし、便所ヘ□きしニ、怱地震ゆりい
だし、大ニ驚、便所より我家のくらを見るニ大震動を見
て、□直ニ門外ニ出て母を招び、母ハわれかわ家ニゆき居
るとおもひ、便処よりわれを□□□□をよひよひうろう
ろいたし居候ゆへ、直ニにわニおり、母の□□□□□□
□□□□お八重下女小守などみな門のそとへいだ□□□
□□□□□□□□よそ壱時半余計ニて地しん止み、家内
□□□□□□□□□□□□□□□しけるに、若吉者つな
みがきたる塩のさし引□□□□□□□□□□□しらせに
諸道(具脱)万たん荷物にいたし、孫太夫家しき□□□□□□□
□□□の人抔大ニわらひ居けるに、あくれば五日も晴天
ニて、われハ昼まで□□□□□□とおもひ候て、養生人秋
津川竹数増蔵も昨のふの地震ニおどろきて先帰りくると
申、今又さへはや井原五郎四郎子手指不都合にて療治を
受ニまゐり在之、是も同様四日の震動ニおそれ、四日夜
ハ我宅ニ泊り、五日ひる頃下の権兵衛方江ゆき、尤此の療
治いたす、子どもニ女弐人附そひて、子とも三人つれニて
まゐり在之処、壱人の老母ハ権兵衛方江残シ置、川林の
嫁右の子を連れ吉田加茂伝江ゆく、かも伝息六助殿と田尻川、林嫁と姉妹にて店久娘也
此五日の夜、川林嫁メ子どもつれ、加茂伝の家内と壱所
ニ、猪の山ニて野宿いたし候よし、あとにてくわしくきく、
我其日昼后、病家□嘉油□同所於民ト申人宅、夫より新
町堺弥此節大忠の隠宅居住し、見舞ゆき、同家裏口え出、
酢孫の長八妻熱病長八女房、當処万右衛門娘、ニて見にゆく迚、同家裏口
の井戸場えゆきけるに、同家長八母さつま芋小樽ニ入、
あらうとて裏口ニてでかける時ニであひニなり、同母親壱
度のあひさつの不満タ中ニ極大なる地震ゆりいたす、尤
七ッ半頃、同家隣山安之かべくずれ、我もす孫母も驚、
此内江不入、其まま浜道ヱ心さし帰る時、池永勇次□(女)房
是千弥母なり居られ候家のかわら若しもや落もせんと心附、吹庄
の□□□□□□けるに同家の戸袋のかべ落、家内うろ附
在かと□□□□□□□□は人ごえにて、余儀なくて出、
屋の裏の畑□□□□□□□□□□□□の方見るに、家内
みな外ニいで大ごえ□□□□□□□□□□□□□□□す
さまじく、人こえもすさまじく、宅ニハ母□□□□□□
□□□□帰りかけニ土手より宅を見るに、格別そんじ□
□□□□□□□□□□□□かりいそぎ宮の下四ッ辻ニて
宅の表を見るに、母初悴□□□□□□□守無事ていにあ
るを見、うれしく思ひ、母をまねき候ニ、はは初みなみな
じ□(し)んにおそれ居候事ゆへ、小ども我帰るをうれしくお
もひけん、我そばにきたり候得ども、母ハ老之事ゆへ歩
行も自由ならず、腰抜ケ躰ニ見受候ゆへ、急ぎ母の手を
ひき宮の下くらのだん孫太夫作附ケ田弐タうね程漸ゆき
候処、吉兵衛申土吉・清助父是増右ヱ門祖父ニは、なみ見江候故、年寄子供つれ爰ニて
もあぶなひゆへ、はやく御宮より山の上ニあがり候様申
呉れ、湊辺を見へ候(ママ)、吉五郎ト弥七の間高き事すさまし
く、並木のまつより三間余も高き様ニ見受候、なんとい
たさんとおそれ当惑、宮の社だんあがり、爰も覚束なく、
それより山ぇのほり、行者堂裏上ヱより下を見るに、中
内中はさつはり波の中となり、此時川わら新蔵妻おぬい
ひき入れて、みなみなおどろき、あり合わせの薬を吹込
呑せ、いろいろかいほういたし候処、暫いたし清心ニな
り、みなみな安しんいたす、最初宮のだんより川を見る
に、津なみの塩はやき事すさましく、音をたて真ニ走鳥
よりも早く見受候、渡しふねハ秋の野わけニて木葉の□
るが如く、実いきたるこゝちさらになし、右行者堂の上ニ
は時□□□□□□間に塩も減し、彼是夕くれとなる、夫
より孫太夫上□□□□□□□□□□母・小供寺の山ヱ
ゆうかせ(ママ)、此時同道の人ハ川□□□□□□□□□□□□
家内三人藤助五人義ハ家内□□□□□□□□□□□□□
□□青兄兵衛と合廿九人、我壱人わが家ニ帰ると申処、われ帰
るニ付□□□□□□□□□□□まいり合、其節安右衛門
西本庄是もひ(び)よう人、われあとに附き宅□□□□□□□□□□
どなり神々・神農・仏前如來・親先祖の位牌持チいで、御寺江あ
□□□□□□ニ参り野宿いたし、行灯ハ僕三吉ニ持せ、ひ
るなき候飯を持ちまいりて□□論、皆々の御衆江手のく
ぼニいたしあげ、其うちニも半時壱時斗間をおき震動い
たし、月の入前とおぼしき時大なる震どうニて、我れざ
したる元々宅より寺ヘあげ、植ヱあるいふきの木此時横ニ
なり、仲々いきたるこゝちなし、此大ゆり時宅ニあたり、
壱間ニ七間の細長き蘭小家くずれ候音慥ニ覚候、実ニ此夜
ハ大霜ニて大ニひえ甚しく、母初小とも皆々衆へ宅よりむ
しろ持セ来り、蒲団宅より持ち来、夫々総身にまき居候ニ
おそろしきとさむきと壱つニなり、みなみなふる居候、
時の方丈得♠和尚來りくれ、今のゆりはけしもからぬ事
とて、寺のつりかね寺ゆりニ付、おのづからゴンゴン五ツ
六ツもなりと申ス付、われらもきき候と申、先々酒を呑
迚、灯物の銚子ニさけこすこす壱杯入持チ来り呉レ、われ
先ニ茶わんに壱杯つぎくれ、さかなハこれとて蜜柑たく
さんいだしくれ、眞ニ□□き人に大人参呑せたるよりも
弥まし、跡ニも先ニも此うれしき事無し□□さけを呑み
婦人達にみかんあげ、みなみな大ニよろこひ、此夜の大
□□□□□高浜今きれニ星の光りていニて火見ゆる、此
火はたい□□□□□□□□□とあやしみ見候処、明朝若
吉ニ奉公いたし候□□□□□□□□□□□□□男清吉來
り申スニは、山内ニは夜前□□□□□□□□□□□□□□
手辺通行いたし候人ありやと、北道法花寺ニ大□□□□
□□□□□□□れは仲々夜前寺ノ下土手ヱゆく人もなき
候様と存候□□□□□□□□□□ふしきなる火なり、是
ハ全ク鹿嶌諸神仏の御守り被下候□□□□□□□□のあ
りかたきを思れ(わ脱)よろこひ候、其夜の火われも見候、今切
レの間ニ見へ候火は、□□処ニ相違なきと心得候、寺の
下タ土手上下通るを見、又はま辺ニて弐三ツニ分れいろい
ろ高くなりひきくなり候迄ありありと見候、日高つくの
浦漁師度々戒子のだんニてつなみに取り切れ、無拠居沖
中、より來り候なみ鹿嶌山ニあたり、其なみ両方へ分れ、
残りし塩鹿嶌の前ニて集り、爰ニて又弐ツニ分れ、其中よ
り火の玉いで、あけがたに鹿嶋の御山ニ入候よし、同人
らはなし候よし、実ニ不思議なるハ、南道浦より埴田ま
で間、塩あからざるはこれ第一不思議、鹿嶌明神の御加
護なり、実ニ前の咄の津なみ前地震、新町酢孫裏井戸は
たニ合ひ、夫より宮の下タ辻より宅のかどニ参り、母小ど
も下男女つれ、くらのたんぇ参りて通なみ来る前、西の
方ニ当り、尤八王子の山のさき海のそこニて、誠ニ今ゆう
大ほうの数打ちの如く夥敷音いたし、尤音度々大稲妻よ
りもはげしくおもひ候、千鹿浦者塩あがらず、最初の地
震ニ者土けぶり甚しく候得とも、□てい地震斗のいたみニ
て家々に大損じなし、当村弥七家納家せつ□□さつはり
なかれ、居家は吟七前の中村氏馬久親は吟右衛門いふ所持の田之上ヱ流れ、□
□□□半分かれ止り、納家ハ中内伊平前ニ散乱いたしあ
り、そ□□□□□□□□□大工惣七・権兵衛・和平・吉
五郎・かじ平吉これら□□□□□□□□□□□□□大損
し、宿いたし候ゆへ蒲団多分あり、家□□□□□□□□
□□□□□居候、此家みちんニなる、戒藤納家弥助家、
宮の前にて散□□□□□□□□□□□家の中ハさつはり
そんし、中ニも少々宜敷処ハ屋根□□□□□□□□□□
□助・新蔵・孫兵衛・紺やニ同弟清兵衛皆ゆかより塩あ
かり、清兵衛□□□□□□□之中ニさかなこのしろ四五
疋も入あるよし、紺屋勘平兵衛今太平ニも壱〆目余のそ□□の
よし、大藤仏だん芝道孫太夫畑まで今岡崎なかれ來り、みちん
になり、其処ニ小舟壱杯なかれ來りあり、何れのふねと
も不分、桐野治平裏弥四郎田ニ小ふね壱杯なかれきたり
あるよし、山内八左衛門の咄に目津板のおり口塩來るよ
し、八左衛門家にそんしなし、千里浦抔ニもなみわり合
に少なきよし、神主愛田七郎兵衛宅そんじなし、愛田当
主忠蔵とのわれ直咄ニ者、誠ニ可思ハ観音之社御殿之御扉
両方さつぱりひらき在之候よし、これハ定而観世音の御
でましにもなり御加護なしくだされ候事なり、誠ニあり
がたき事ゆへ殿方ニも信心なされ候様とのはなしゆへ、
実ニありがたき事ニ而候、さて同霜月廿三日源吉家内初み
な寺ニ宿り、漸くわが家の方附ケもでき帰り候位之事ニ
て、皆野宿をいたし、寺ニとまり抔、真ニおそろしく候
事ニ合候、寺井戸の水塩からく、一向茶粥たきてもたべ
にくきくらひの事なり、□同□□今に塩気少々薄く候得
へとも、塩気あり、これ地震前に川のながれ□□かへい
たし在之処、不思議に水まし瀬もつつき、これもふしぎ
と申居候□□□□□□養井原大半ながれそんじ、爰ニ前
あげ地大庄やつとめ候鈴木□□□□□□□□□し地士
此人ハ大宮小川藤九郎弟のよし、同処市右衛門方ニて居酒を呑居□□□
□□□□□□□□□衛門夫婦村次屋ねヱあがり、其まま
なが□□□□□□□□□□□□□□□町通大庄や田所と
ぬし惣までニて塩止り、同□□□□□□□□□□□□と
七百卅七軒、家敷町へんニてハ寺本辰田弐けん、寺□□
□□□□□□□□寺・本勝寺残り、片町半分・土降町・
紺屋町居家みな無しになり□□□□御城内安藤小平殿御
用ニて若山江ゆき畄主ニて、早や飛脚を立て招ニ□き、一
昨夜廿三日被帰候よし、田辺大和屋甚兵衛志摩來り、我
は家業ニて□□ニ同家江ゆき、同人我ニ噺をいたし聞候
故、爰にしるす、次ニきくに此度不思議なるは、湊出火
先江々々ゑやけゆかんとしける、同処御霊宮ハ蟻通神の
よし、社内ニ大なる楠あり、此楠木よりすさましく水吹
きいだし候て火をけし止む、誠に御神徳のおそるべきあ
りかたき御事なり、併も地震ニて者家はそんしなきよし、
東在新庄はさっはりなかれ、漸十四五軒残り、これみな
山の小高き中う尾ッ山の上ヱの家なりときく、当村吉五郎
家ハゆかより四尺余塩入、津なみの様、同家のふすまを
見るに、紙のぬれぬ処は無斗と見受候、此家裏に納家・
くら・ねひや十軒余の長さ、東のいろりに砂糖製の処ニ大
鍋三枚かけ在之に、津なみニなかれ壱枚も不見候よし、
同吉五郎方当主文吉申ス、此吉五郎家敷と大助之間ひき
く、これ昔し川筋ニて孫兵衛家の東シ今つぶらニゆく処
に、此頃迄行くなこわんの□納家あり、其やしきは今孫兵衛
甚兵衛と方に村より求め所持、此下タ今紺屋との間塩入、尤これ
もきく、半七子孫右衛門今□□□新田□ハ寺の下、今勘七所持の田の寺下道迄塩入候、
田者麦抔皆無ニて迷惑□□□□新屋吟七宅の裏道まで此
内ヘ者塩いらず、此吟七の息ニ馬久□□□□□□□□□□
与平長男熊平弟ニ喜平トおくら夫婦ニて、馬久方
おひさ□□□此おひさ南道□□□□□□□□□□□前の中村の小田ま
で、同家久ぼ入の田すじ海□□□□□□□□□□□□□
□□□□さし入、書す日ハ失念いたし候得ども、地震ハ
わすれず矢張□□□□□□□□□□□□んの山の上ニ大
なる家を拵へ、皆々の衆此中ニ居る、此時何れより□□
□□□□□□蔵子ふせんの川わらニてあしを嚙レつれ來
り、新庄宇右衛門子も耳ヱ飛附□□□□及びあしくわれ、
此子もつれ來り、両人とも薬用いたし全治す、此宇右衛
門咄ニ一昨日西本庄□助子ハ直ニ死トゆう、此狼の為ニ命
を被取候者在之候よし、其狼当村ヘ来り井の谷大蔵家の
入口ニて小べんを呑ミ、同家隣善四郎方の丑を目がけゆく
を大蔵之よふし半蔵追いかけ、たごおふこニて打、たご
おふこのツク狼の眼ニあたり、それより附ヶ込ミ打ころ
す、われも人も見ニゆく、此狼ハ西本庄音兵衛といゆう
仁が値壱朱位ニて買ひ持帰る、此時みな狼の見はじめな
り、地震も矢張おりおりゆり、あくれハ嘉永七改元、安
政二卯四月中ごろ、鹿嶌宮殿江地震之記を認メ、歌連中
か名ニよミ歌時分認記候者熊代氏、認連中者、岡崎才蔵・
芝健蔵・山内保助・志摩八重門・山崎喜平・池田團兵
松樹衛・森貞秀恭蔵・糸川猶繁憲四郎・玉井元秀、右鹿嶌明神奉納、
伊豆彦繁平尤春尚巻物衣地正之なり、桐之箱に入御殿納メ、昔宝永二年年十
(ママ)月四日ト聞、此時之地震之記候、山内勘右衛門重方、此
仁酒造家南道辺ニ居住、□屋ト申由、前の津なみ節者、我
が家今此字ニ形部と申処ニわれ先祖之家敷なる由、われ
祖玉井形部長ク此処に住居いたしけるにより、今此祖之
家敷名を地名様ニ形部ト申、此家敷ニ先祖□□観世音を
今ニもまつりあり、此祖形部家敷住居之節宝永の地震ニ
合、其□□□持來り候餅つきの立うす湊まで流、塩之中
より持帰り、臼ゆへ五月つゆニは□□□□□□□院われニ
語るを覚居候、昔宝永二年(ママ)より嘉永七まで□□□□□□
□□□□□ぬれバ、地震抔もわからず候ゆへ、何れも心
得なく□□□□□□□□□□□□□由連登高波與世奴此
里波鹿嶋農神能□□□□□□□□□□□□鹿嶋明神奉納
之巻我此歌奉ル、源□□□□□□□□□又申、永屋市郎
兵衛、われハ老年之事ゆへ御仏の前ニて、若シ津なみく
るとても行生す、□□家ハいでぬと仏法ごりゆへ申スを、
息徳兵衛いろいろすすめ、あたご山ニにげ居ル節、不思
議なるハ、□市郎兵衛方丑、徳兵衛なみの來らぬ前ニ形
部家敷迄引つれゆきありしに、右あたごニ居ル人仲々大
勢見候よし、津なみ來り候せつ、右市郎兵衛宅の前納家
と丑家を附、壱所にいたし在之候、市郎兵へかどより丑
壱疋いで、ならひ居る桐野治平との間より丑市郎兵衛家
の裏ヘまわり、沖より高波來る、其なみの中江飛入、み
なの衆市郎兵衛方伺、丑おしき事をいたしたと申さぬも
のはなし、前申丑ハ先ニ形部家敷連れゆきあり、是ハ全ク
飼丑ニあらず、世ニいゆうマアゐるかといゆう、誠ニ地震
抔の大へん抔のせつニ者不思議なる事色々あり、千鹿浦茂
七弟ニ茂吉迚しやくなどもみ候もの在之、此仁地震ニ恐
れ、じしんせつハふねが第一用心がよひと、津なみの事
ハきもつかず、小舟に諸道具積入置、持仏取持舟ニ入る
と直大なみ來り、無拠なく夜のあけるまで鹿しまの御山
目当てにろうを押し居助る、兄弟親類中、たすからぬ様
思ひ候よし、これも不思議の壱つなり、
嘉永七甲寅年家内中手ひかえ
□□五才 悴 房楠弐才 僕東岩代地主忠兵衛弟 三吉□□六才 悴 つま十四才下女東岩代 内儀の娘かじ義作□□□□ 〃 八重四才 子守西本庄源助□□□□
□□□
□□□□□□□□□□□卅丁酉年迠四十四年□□□□□
□□□□□□□□□□酉八月地震后記置候処、不用に□
□□□□□□□□□□□いたし見候処、大ニ虫入あみの
目如くに喰ちらし、一向字□□□□□□らぬ様ニなり候
を、われ覚たる処考よみ取抔いたし□□□□漸写ししる
し置候、
十月出生
文政二卯年生
八十年七ヵ月 寛尚
維持明治三十一年丁酉八月十六日旧暦八朔
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 633
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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