[未校訂]4 嘉永七年冬の大震と大津波
(一八五四)嘉永七年十一月四日・五日(陽暦十二月二十二日同二十三
日)東海東山二道の諸国より畿内・南海・西海・山陽・山
陰・諸道の地、大ひに震ひ、大津波を伴ひて瀕海諸国、
[夥|おびただ]しき災害を被る。家屋の潰滅するもの[総|すべ]て六万、死者
三千と称す。是れ世に謂ふ所の安政嘉永七年十一月二十七日安政と改元にし
て、四日のものは、同日朝東海道海底に震源を有して紀
伊より[上総|かずさ]に及び、五日のものは、同日夕刻南海道の南
方海中に発して前日の継続地震と見[做|な]すべきもの、紀伊
以西畿内中国四国の全部、九州の北半にまで及べり。而
して海岸線に並行せる両者の震源帯は之を延長する時は
互に接続す。[蓋|けだ]し此両大震は、本邦に於て地震活動力を
現時の状態に[変易|へんえき]せしめたる一源因たり。又、其の伴生
せる大津波は、両回とも我が国の沿岸のみならず、太平
洋を横断して、遠く亜米利加大陸沿岸に波及せりという、
以て如何に激烈なりしかを想見すべき也。本郡沿海にあ
りては、四日辰下刻激震と共に早くも海水の変調を見せ
るを認め老若相[率|ひき]ゐて避難せしが、此の日は幸に津浪の
襲来を見ず、人々[稍安堵|ややあんど]してありし程に、翌五日夕刻過、
昨に増して大きく旦つ長く地震ひて屋舎傾倒するもの相
[踵|つ]ぎ、[須臾|しゆゆ]にして海底鳴動して洪浪寄せ来る。(中略)今
紀藩領内の被害を見るに、倒潰、流失破損の家屋総計二
万六千六百八戸、流死人口六百九十五名に及び、惨状言
語に絶す。(中略)印南地方は依然被害少からず、札之辻
海抜三米余にて浪の高さ三尺余に及び、印南川西岸の民家悉く
流失、浜側は流失少数なりしも大破多し。日高川地方に
ありては、浪頭、新町に寄せ家中にて魚躍るの奇観を呈
し、北塩屋沿海の民家全く漂没し、名屋浦の民は源行寺
本堂に避難す。日高川を[遡|さかのぼ]る小舟は木葉の疾風に散るが
如く、岩内社前大野に[輻輳|ふくそう]して、或は傾き、或は破る。
吉原にては、洪浪、田井の切戸を越ゆるに至り、避難せ
んとして、舟を西川に浮かべたるが為、却って沈没溺死
せし者あり、(中略)三尾は洪浪激突の衝に当り、小三尾
側殊に惨絶、浜出筋家残らず流失し、漁船宮ノ鼻を流れ
越す。大三尾側は浜端人家[悉|ことごと]く浸水、両部を通じて流失
棟数四十、流死女一、別に漁船の流失三十一あり。比井
唐子は三尾以北に於て被害の最も甚だしかりし所、流失
棟数二十三、人畜の死傷なし。由良地方にては、横浜・
[網代|あじろ]の被害絶大にして、流死[無慮|むりょ]三十名、流失家屋[頗|すこぶ]る
多し。[吹井|ふけい]浦にて民家二、三戸、牛一匹流失に止る。大
引・衣奈等には被害として挙ぐべきもの殆どなし、(下略)
(注、当町の史料としては『本町史』第三巻諸家文書一〇
六七ページ「大地震の控」をみられたい。)