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項目 内容
ID J2700269
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔磐田市史 通史編 中巻 近世〕磐田市史編纂委員会編H3・3・31 磐田市発行大庭正八氏提供
本文
[未校訂]第一節 大地震と市域の村々
1 嘉永大地震とその被害
市域村々の被害
嘉永七年(一八五四)十一月四日大地震が襲
った。この大地震を一般的には、いわゆる
安政の大地震といっている。大地震の被害を見ると、前
野・保六嶋・福田・駒場村近辺は皆潰となり、上本郷村
は家数一七軒のうち一一軒倒壊・六軒は半潰、地面には
凹凸ができ、水が吹き出した。微震は四〇日間続き、人
びとは十日余り竹薮の中で過ごした。その上、天竜川で
洪水が起こり、破堤した池田村では全村が浸水し、周辺
村落にも被害を及ぼした。泥水が山方より押し寄せ、石
なども流出し、渡船もできなかった。太田川、敷地川は
変地し、川床が高くなった。今之浦川・原野谷川も家財
諸道具等を流し、田畑は皆荒れ果てた。
 匂坂上村では、高札場は無事であったが、郷蔵と神社
は小破、寺二カ寺は大破した。家数四四軒のうち、四軒
が潰家で四〇軒が大破した。雑家七軒は潰家となり、田
畑は五カ所が七割の引きとなった。寺谷用水は長四一六
間の川床が押し埋まった。
 南部の農村地帯でも被害は大きく、下大之郷村では家
屋皆潰一九五軒、半潰三二軒、高札場破損、十一社・大
明神両社は破損、恵日寺皆潰、観音堂破損、山王大権現
皆潰、大日堂皆損とある(表2参照)。史料は残っていな
いが、周辺の村々も同様の被害を受けたであろう。掛塚
村では過半数が半潰で、津波があり、往来は二~三尺の
地割れができ、そこから泥水が吹き出した。地震は一時
に揺れ潰れ、諸道具はことごとく微塵になり、柱は裂け、
使える品はなかったという。
 向笠新屋村でも皆潰が四〇軒、半潰が一軒あり、小薮
川の破堤は数カ所あり、わずかの出水でも田畑が水浸し
となり、作付ができなかった。
 浜松や掛川、袋井宿では家屋倒壊の上出火となり、掛
川宿は死者一四五人を出し、残らず焼失し、宿内は原野
のごとくであった。袋井宿も一宿残らず焼失し、死者・
怪我人は一〇〇人余り、小屋一つなくこれまた原野のご
とくであった。三ヶ野村は九〇%ほどが潰れ、見付宿は
三〇%。横須賀は皆潰の上、津波による死者が多数出た。
浜松宿は三〇%の潰れ被害を蒙った。
 このように嘉永の大地震は三大飢饉よりも深刻で、壊
滅的な被害を与えた。村々の家屋の倒壊、田畑の荒廃に
より不作に、幕府・領主は夫食及び類焼手当金を出し、
領民を救済せざるを得なかった。横須賀藩は御救米とし
て一五〇〇俵を、山名郡一七カ村をはじめとする領内八
七カ村ヘ放出した。
 旗本領の向笠新屋村や匂坂上村では、潰家手当として
金子や米が支給された。その他の地域にも支給されたで
あろう。
村々の救済
このような事態に対処して、「去寅十一月四
日、大地震ニ而潰家等出来候ニ付」と見付宿
町人が五〇〇両を「冥加奇特差出金」として、代官所に
献金した。このときの代官は林伊太郎で、安政二年三月
二十七日から、窮民救済として貸し渡しを行った。
 鮫島村の村民は「私共、去寅十一月大地震ニ而皆潰ニ相
成、尚又当七月八月風再□(度カ)之天災ニ」あい、五〇両の借用
金証文を連印で提出した。時節柄なかなか借り受けるこ
とができず困難を極めたが、再三の評儀によって借りる
ことができた。「借用金連印証文」には、返済について延
三カ年で元利共に、組合内の議定をもって割り当てて返
済することが記されている。貧困の上災害に打ちのめさ
れて、返済能力のない個人には貸与されないので、村民
が共同で借用・返済する方法を取っている。
 鮫島村は海浜に近く、天竜川の三角州の上にできた古
い村落で砂地畑が多い。幕末のものと思われる畑反別分
米帳をみると、表1のように綿・大豆・稗・きびを植え
付けている。綿・大豆は商品作物であるが、稗・きびは
備荒貯蓄用で、災害にそなえての自助努力である。稗は
山間辺地を問わずどこにでもできる穀物で、大豆の根粒
バクテリアが地力回復の効をなしている。
中泉代官所の全壊 一方、中泉代官所は全壊とあり、人
家は、
皆潰 半潰
東町 一八軒(内二か寺) 二〇軒
西町 二〇軒(内四か寺) 二九軒
計 三八軒 四九軒
その他土蔵三カ所
の被害を蒙った。
 これに対して代官所は、東町六七軒、西町五三軒、西
新町三二軒、東新町一六軒、計一六八軒の罹災者へ、一
軒に付米七升、銭三〇〇文を救済として出した。次いで、
夫食日数三〇日分として米三七石八斗五升を五カ年の年
表1 鮫島村の畑反別分米帳()内は分米
作物
上畑
中畑
下畑

綿
589.25畝
(53.085)石
137.14畝
(10.997)石
1.08畝
(7.18)石
728.17

(71.262)石
大豆・稗
35.02
(3.156)
115.10
(11.122)
132.15
(9.275)
282.27
(23.553)
きび
5.13
(0.489)
11.08
(0.901)
58.21
(6.99)
75.12
(8.38)

630.10
(56.73)
264.02
(23.02)
192.14
(23.445)
1086.26
(103.195)
表2 下大之郷村の地震による被害家屋(注、続補遺別巻p.597参照)
○は皆潰 △は半潰
本家
釜家
灰小屋
物置
土蔵
薪小屋
小屋
すみ


〃○

平治郎


○○
市之助



常蔵


惣左衛門



順次郎







十太夫



孫十


清左衛門




唯吉



兵右衛門


甚兵衛


○○
城国


五郎左衛門



作治郎


源兵衛



友八


藤七


七太夫



米吉


仲五郎


孫左衛門







甚太郎







彦七



惣十郎


松千代


市郎治




房吉



○(2)


馬小屋○
嘉吉



半蔵


次郎馬


勘兵衛


清治郎




太兵衛





馬小屋△
重次郎


彦兵衛


○○


弥十


弥三郎


辰五郎



惣三郎



岩吉


○△
せっ



平右衛門



阿以屋○
〈新田村は省く〉
賦返済として貸し出した。さらに金二七両一分永六文分
の米一三石二斗を、三〇日分として再度貸し出した。一
両に付四斗八升勘定の下米である。金二三両は田畑荒地
その他、極貧者救助のための貸付けで安政二年(一八五
五)から一〇カ年の年賦返済とした。
 また、麦九斗一合、稗七二石八斗五升一合を八三軒・
四〇一人の極貧者へ貸付、一〇カ年賦とした。金一六両
は潰家・半潰家への小屋掛費用として、一〇カ年賦で貸
し付けた。
 全壊した中泉代官所は、地震当日の夜、支配所に緊急
手配の回状をまわし、仮屋普請のための大工確保した。
皆潰した陣屋の取片付けのための人足も、各村五人から
二〇人の割当てを通達した。このときはかなり規模を縮
小して建てられた。
(中略)
村人の住居事情
 また、下大之郷村の家屋状況(表2参照)をみると、長
江村とは異なった表現であるが、人びとの住いのおおよ
その規模は知ることができる。雪隠は灰小屋の側にしつ
らえてあり、物置小屋は宇立小屋と同じで、農具・種子
などを入れておいた。
 万延元年(一八六〇)に新築した下大原村のある百姓
は、本家・土蔵・釜家・灰屋・物置(長屋)・機織小屋な
どを持っていた。
 幕末期の市域の村々では、当然ながら右のような大小
様々な規模の住居に住み、暮らしを成りたたせていたの
である。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 529
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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