[未校訂]第一節 大地震と市域の村々
1 嘉永大地震とその被害
市域村々の被害
嘉永七年(一八五四)十一月四日大地震が襲
った。この大地震を一般的には、いわゆる
安政の大地震といっている。大地震の被害を見ると、前
野・保六嶋・福田・駒場村近辺は皆潰となり、上本郷村
は家数一七軒のうち一一軒倒壊・六軒は半潰、地面には
凹凸ができ、水が吹き出した。微震は四〇日間続き、人
びとは十日余り竹薮の中で過ごした。その上、天竜川で
洪水が起こり、破堤した池田村では全村が浸水し、周辺
村落にも被害を及ぼした。泥水が山方より押し寄せ、石
なども流出し、渡船もできなかった。太田川、敷地川は
変地し、川床が高くなった。今之浦川・原野谷川も家財
諸道具等を流し、田畑は皆荒れ果てた。
匂坂上村では、高札場は無事であったが、郷蔵と神社
は小破、寺二カ寺は大破した。家数四四軒のうち、四軒
が潰家で四〇軒が大破した。雑家七軒は潰家となり、田
畑は五カ所が七割の引きとなった。寺谷用水は長四一六
間の川床が押し埋まった。
南部の農村地帯でも被害は大きく、下大之郷村では家
屋皆潰一九五軒、半潰三二軒、高札場破損、十一社・大
明神両社は破損、恵日寺皆潰、観音堂破損、山王大権現
皆潰、大日堂皆損とある(表2参照)。史料は残っていな
いが、周辺の村々も同様の被害を受けたであろう。掛塚
村では過半数が半潰で、津波があり、往来は二~三尺の
地割れができ、そこから泥水が吹き出した。地震は一時
に揺れ潰れ、諸道具はことごとく微塵になり、柱は裂け、
使える品はなかったという。
向笠新屋村でも皆潰が四〇軒、半潰が一軒あり、小薮
川の破堤は数カ所あり、わずかの出水でも田畑が水浸し
となり、作付ができなかった。
浜松や掛川、袋井宿では家屋倒壊の上出火となり、掛
川宿は死者一四五人を出し、残らず焼失し、宿内は原野
のごとくであった。袋井宿も一宿残らず焼失し、死者・
怪我人は一〇〇人余り、小屋一つなくこれまた原野のご
とくであった。三ヶ野村は九〇%ほどが潰れ、見付宿は
三〇%。横須賀は皆潰の上、津波による死者が多数出た。
浜松宿は三〇%の潰れ被害を蒙った。
このように嘉永の大地震は三大飢饉よりも深刻で、壊
滅的な被害を与えた。村々の家屋の倒壊、田畑の荒廃に
より不作に、幕府・領主は夫食及び類焼手当金を出し、
領民を救済せざるを得なかった。横須賀藩は御救米とし
て一五〇〇俵を、山名郡一七カ村をはじめとする領内八
七カ村ヘ放出した。
旗本領の向笠新屋村や匂坂上村では、潰家手当として
金子や米が支給された。その他の地域にも支給されたで
あろう。
村々の救済
このような事態に対処して、「去寅十一月四
日、大地震ニ而潰家等出来候ニ付」と見付宿
町人が五〇〇両を「冥加奇特差出金」として、代官所に
献金した。このときの代官は林伊太郎で、安政二年三月
二十七日から、窮民救済として貸し渡しを行った。
鮫島村の村民は「私共、去寅十一月大地震ニ而皆潰ニ相
成、尚又当七月八月風再□(度カ)之天災ニ」あい、五〇両の借用
金証文を連印で提出した。時節柄なかなか借り受けるこ
とができず困難を極めたが、再三の評儀によって借りる
ことができた。「借用金連印証文」には、返済について延
三カ年で元利共に、組合内の議定をもって割り当てて返
済することが記されている。貧困の上災害に打ちのめさ
れて、返済能力のない個人には貸与されないので、村民
が共同で借用・返済する方法を取っている。
鮫島村は海浜に近く、天竜川の三角州の上にできた古
い村落で砂地畑が多い。幕末のものと思われる畑反別分
米帳をみると、表1のように綿・大豆・稗・きびを植え
付けている。綿・大豆は商品作物であるが、稗・きびは
備荒貯蓄用で、災害にそなえての自助努力である。稗は
山間辺地を問わずどこにでもできる穀物で、大豆の根粒
バクテリアが地力回復の効をなしている。
中泉代官所の全壊 一方、中泉代官所は全壊とあり、人
家は、
皆潰 半潰
東町 一八軒(内二か寺) 二〇軒
西町 二〇軒(内四か寺) 二九軒
計 三八軒 四九軒
その他土蔵三カ所
の被害を蒙った。
これに対して代官所は、東町六七軒、西町五三軒、西
新町三二軒、東新町一六軒、計一六八軒の罹災者へ、一
軒に付米七升、銭三〇〇文を救済として出した。次いで、
夫食日数三〇日分として米三七石八斗五升を五カ年の年
表1 鮫島村の畑反別分米帳()内は分米
作物
上畑
中畑
下畑
計
綿
589.25畝
(53.085)石
137.14畝
(10.997)石
1.08畝
(7.18)石
728.17
畝
(71.262)石
大豆・稗
35.02
(3.156)
115.10
(11.122)
132.15
(9.275)
282.27
(23.553)
きび
5.13
(0.489)
11.08
(0.901)
58.21
(6.99)
75.12
(8.38)
計
630.10
(56.73)
264.02
(23.02)
192.14
(23.445)
1086.26
(103.195)
表2 下大之郷村の地震による被害家屋(注、続補遺別巻p.597参照)
○は皆潰 △は半潰
本家
釜家
灰小屋
物置
土蔵
薪小屋
小屋
すみ
○
○
〃○
○
平治郎
○
○
○○
市之助
○
○
○
常蔵
○
○
惣左衛門
○
○
○
順次郎
○
○
○
○
○
○
○
十太夫
○
○
△
孫十
○
○
清左衛門
○
○
△
○
唯吉
○
○
○
兵右衛門
○
○
甚兵衛
○
○
○○
城国
○
○
五郎左衛門
○
○
△
作治郎
○
○
源兵衛
○
○
○
友八
○
○
藤七
○
△
七太夫
○
○
○
米吉
○
○
仲五郎
○
○
孫左衛門
○
○
○
○
○
○
○
甚太郎
○
○
○
○
○
○
○
彦七
○
△
△
惣十郎
○
○
松千代
○
△
市郎治
○
○
○
△
房吉
○
○
○
○(2)
○
△
馬小屋○
嘉吉
○
○
○
半蔵
○
○
次郎馬
○
○
勘兵衛
△
○
清治郎
○
○
△
○
太兵衛
○
○
△
△
△
馬小屋△
重次郎
○
○
彦兵衛
○
○
○○
○
○
弥十
○
○
弥三郎
○
○
辰五郎
○
○
○
惣三郎
○
○
○
岩吉
○
○
○△
せっ
○
○
○
平右衛門
○
△
○
阿以屋○
〈新田村は省く〉
賦返済として貸し出した。さらに金二七両一分永六文分
の米一三石二斗を、三〇日分として再度貸し出した。一
両に付四斗八升勘定の下米である。金二三両は田畑荒地
その他、極貧者救助のための貸付けで安政二年(一八五
五)から一〇カ年の年賦返済とした。
また、麦九斗一合、稗七二石八斗五升一合を八三軒・
四〇一人の極貧者へ貸付、一〇カ年賦とした。金一六両
は潰家・半潰家への小屋掛費用として、一〇カ年賦で貸
し付けた。
全壊した中泉代官所は、地震当日の夜、支配所に緊急
手配の回状をまわし、仮屋普請のための大工確保した。
皆潰した陣屋の取片付けのための人足も、各村五人から
二〇人の割当てを通達した。このときはかなり規模を縮
小して建てられた。
(中略)
村人の住居事情
また、下大之郷村の家屋状況(表2参照)をみると、長
江村とは異なった表現であるが、人びとの住いのおおよ
その規模は知ることができる。雪隠は灰小屋の側にしつ
らえてあり、物置小屋は宇立小屋と同じで、農具・種子
などを入れておいた。
万延元年(一八六〇)に新築した下大原村のある百姓
は、本家・土蔵・釜家・灰屋・物置(長屋)・機織小屋な
どを持っていた。
幕末期の市域の村々では、当然ながら右のような大小
様々な規模の住居に住み、暮らしを成りたたせていたの
である。